晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 空白の古代史-1 10/14

2013-10-15 | 雨読

2013.10.14(月・祝)快晴

 今夏亡くなられた考古学者の森浩一氏と歴史学者の水野祐氏の対談集である。森先生については「森浩一さん逝く(2013.8.25)」で書いたところなのだが、水野氏は、三王朝交替説など斬新というか画期的な説を出されている。
 一般的に学者の対談なんてのは面白くも何ともないのだが、この対談に限っては実に面白くて、あっという間に読んでしまった。
 「空白の古代史 海・山・道の視点から」 社会思想社1980年3月初版 古書
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   本書のおもしろさは既成概念にとらわれない両氏の姿勢のなせる技だろうが、対談という論文とは違ったある程度奔放に物が言える舞台であるせいかもしれない。論文のようにデータをあげる必要は無いし、立証する必要も無い。われわれアマチュアが疑問に思っていることもいわゆる学者は素直に答えてくれない。それを答えるということは、従来の殻を破らなければならないし、そのことについて立証しなければ立場がないと言うことだろう。
 ところが対談という席では随分フランクに答えてくれている。その例を挙げてみたい。
 
 伊勢神宮の外宮の神は誰がもたらしたか。
 大江町の元伊勢外宮豊受大神がなぜ伊勢に祀られることとなったのか、これは誰もが不思議に思うところだろう。
 遠くて伊勢にお参りできない地域に元伊勢と称して祭神を祀り伊勢参りの代わりとした、なんて説もあるようだが、どうもことはそれほど単純ではなさそうだ。
 水野氏は、日本海側にいた潜水漁撈民(魏志倭人伝にも出てくる)が五世紀に伊勢・志摩に移動したというのである。それは丹波から御饌津(みけつ)の神が新しく伊勢に来てからアワビが神饌として重要になってきたという。それまでの神饌は米や川魚だったというのである。
 この海人族の移動は古墳時代の気温の低下、海水温の低下が原因で、日本海側の潜水漁撈民が温かい太平洋岸の海に移動したというと考えている。
 もちろん仮説なのだが、なんとも理路整然とした、目から鱗の説ではないか。
 
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2006.12.8伊勢を訪れるが内宮外宮とも通過。(左)
2011.9.20大江町内宮、岩戸神社を訪れるが大雨のため外宮は通過。(右)


 稲作に関することも面白い。例えば稲作の伝搬について江南、東南アジア、朝鮮半島などいろいろ言われているが、わたしたちの概念では何年も何世紀もかけてじわじわと伝搬してきたように思っているが、種籾というのは秋に採種して、翌年の春には播種しなければならない性格のものである。つまり時間的にもっともっと性急な事象なのである。
 穀倉地帯についても近江を例に挙げて、現在の穀倉地帯と弥生時代の稲作地帯とは別問題であると説かれている。つまり琵琶湖にいくら水があってもそれは水田より下にある水だから、稲作には使えない。近江が穀倉地帯となったのは、渡来系の氏族によって川水の灌漑が可能になって初めてのことであるといわれている。
 このことについてはわたし自身疑問に思っていたことで、稲作が始まって以来、稲作に適した土地というのは河川の周辺と思いがちだが、実は山間の谷水の引ける所ではないかと考えるようになってきたのである。海岸沿いに住まいしていた海人族が谷を遡って新天地を求めたのは、木材資源や鉱物資源を探し求めた結果としていたわたしの「峠越し文化論」は見直しが必要かも知れない。つまり彼らは水田を求めて谷を遡ったとも考えられるのだ。つづく

【今日のじょん】昨日あんなに遊べたのに今日はワン来が無いなあと思っていたら、午後になって二組来られた。じょんは大喜びで、「出してくれい」というのだが、ちょっと一緒に遊べそうにないので出さなかった。いじけること。
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「出してくれい」「だめ」「え゛~ん」
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豆柴の小雪ちゃん(八ヶ月)凄い俊敏。

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こころちゃん、ドッグランどできる前から来てもらってマス。 
 

コメント
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