2013.10.22(火)曇り、雨
魏志倭人伝 注に「其の俗、正歳四時を知らず、但、春耕秋収を記して年紀となす」とある。5世紀頃に書き加えられたものということだが、それ以前の日本の様子として差し支えないだろう。前半部は暦が無いという意味だが、後半部はどういう意味だろう。そのまま読むと、春に耕し秋に収穫したことを記して一年の記録とするというようなことだろう。四時というのは春夏秋冬の季節のことであるから、季節の概念はないのだが、耕すことと収穫で一年をはかっているという意味だろうか。
しかしこれほど四季の区別がはっきりしている日本だから、春夏秋冬という言葉は無くても、四季の存在を把握していることは間違いないだろうし、耕すから春、収穫するから秋というものではなくて、一定の条件が来れば耕し、また、一定の条件が整えば収穫したのが実情だと思う。
暦が百済からもたらされたのは5世紀中だと言われているが、それまでの日本においても季節とそれがひとまわりする一年というのは概念として存在していたと思う。
季節の変化というのは狩猟採集の時代にも重要だが、農耕が始まるとより重要な要素となってくる。前述の諺や言い伝えのように各地域によって口伝で伝えられていたのだろう。
さて、ここで古代の祭政一致と言うことについて考えてみたい。祭政一致とか神権政治とか言うものは国家が宗教と結びついて政治を行うことと理解しているが、国家成立以前の集団においても占いや呪術で統率されていたことは卑弥呼の「鬼道を能くする」の記事でもわかる。
古代の指導者やその側近は呪術師であり、政治と呪術、占いは同じものであったというのが祭政一致ということだろう。では彼らは一体何を占っていたのだろう。朝廷内の人事や行事、戦争、祭礼、行幸などは記録が残っているが、一般大衆に対しての占いとは何だったのだろう。
実はこれがとても重要なことで、中国や朝鮮半島の皇帝や大王は占いの結果が間違っていたり、反対の結果となった場合にその座を奪われるどころか殺されてしまうと言うことを読んだことがある。そういえば卑弥呼だって、占いが当たらなくて殺されたとか、歴代の天皇の中にもそういう事由で抹殺されたのではないかという説もあるそうだ。
佐原真氏は「日本人の誕生」の中で、「私自身は骨占いについて、東アジアの季節風(モンスンーン)地帯の降雨の不安定さゆえに農事・天候にかかわるものが多いのだろう」と書いておられる。
被支配者のほとんどが農民であり、彼らの関心事は当然「農事・天候」であり、今日も残っている神事のほとんどが農の豊凶を占うものであることを見ても古代の占いの主流は「農事・天候」に関するものと考えるのが妥当であろう。つづく
金河内町の阿須々伎神社では旧暦正月3日に茗荷神事が行われる。お宝田にできる3本の茗荷から早稲中稲晩稲の豊凶を占い、その年の作物の出来具合から風水害、干魃まで占うという。まさに古代の占いを思わせる。
【作業日誌 10/22】
薪割り、早く割らないと冬が来てしまうぜ。
【今日のじょん】
今朝の散歩時にバッグを拾った。口は開いているし、現金などはなく、怪しいと思って警察に届けたらやはり被害品であった。なんでも夕べから今朝にかけて連続の窃盗事件が発生したんだって。物騒だねえ。
お手柄、お手柄、もっとも見つけたのはおとーやけど。