晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

雨読 「吉備の古代史」 2/10

2014-02-10 | 雨読

2014.2.10(月)雪

 大和政権が国家を形成するに至る過程は記紀を始め、古来から多くの学者の著書もありうかがい知ることが出来るのだが、大和と同等に割拠していた出雲、吉備、丹波など地方の勢力はどうであったのか。文献として残っているものは常に勝者を主体に記されているので、敗者の理論は表に出てこない。
 出雲は大和と対照的に表されるので文献も多いが、吉備というのは以外と知られていない。吉備の古代を知ることは重要なことと思い読んだわけだが、意外な情報を得ることとなった。
 「吉備の古代史 王国の盛衰」(門脇禎二著)1992年8月第一刷NHKブックスP1020297
 



 吉備国の歴史に関してはここで書いてもあまり意味が無いのだろう、それが知りたい人は本書を読めばすむことだ。わたしが本書で得たものは、部民のあり方と穴、安那のことである。部民についてはそこそこ大切な問題と思うが、穴のことは枝葉末節的な事と思う。ただ、現在研究中の穴虫、穴地名に関する事柄というだけのことである。
 穴地名に関しては別項「睦志のこと」で述べるとして、部民制について少し述べておこう。
 雨読「部民制」(2014.1.23~24)で述べたとおり、これだけの専門的な書を読んでも理解できなかった部民制について、こういうことだったのかと思わせるのは皮肉なことである。本書は部民制について書かれた本ではないのだから。
 部民について、名代・子
代(なしろこしろ)額田部や白髪部など、部曲(かきべ)佐伯部や宗我部など、品部(ともべ)玉作部や弓削部などに分類できる。本書には吉備の郡別部民分布表というのが載っている。(P60)賀夜郡には18もの部が存在するのに、浅口や後月郡などは一つの部である。670年には庚午年籍(こうごのねんじゃく)を契機として、全人民に部姓を付与したという説があり、各郡における部姓の付与というのは一体なのを意味するのか解らない。例えば備後国神石郡は物部のみである。郡民すべてが物部の職掌をこなしていたとは考えられないし、郡全体で伴造を養っていたということだろうか。あるいは何の脈絡もなく単に部姓を与えていたということだろうか。
 門脇氏はこのことについて、「それぞれの地域の人民の「大化改新」より以前からの服属関係を前提とし、その歴史的由来によって付与されたものと考える」と書かれ、部姓が何の根拠もなくアトランダムに付与されたとは考えがたいとされている。
 これは一つの例だが、部民制とは我々が歴史の授業で習ったように、単に特殊な技術をもった集団などという知識だけでは何も理解できない。
 本書には吉備における部民制に関する考察が多くあり、大変参考になる。

【作業日誌 2/10】
じょんのシャンプー台作り

【今日のじょん】屋根の雪も落ちきって、ようやく弥陀ヶ原のバス道のような玄関道が開通した。ところが、今日は日中雪が降り続け、夕方には10cm近く積もった。夜も降れば元の木阿弥となる。P1020290 P1020289
 
 

コメント
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