2015.3.5(木)曇り
行きつけの喫茶店に入り、ちょっとコーヒーブレイクしようかという時、「ごめんなさい、今コーヒー豆仕入れるお金がなくて、来月なったら出来ますからね」と言われたらドウスル?
予算がないのでポストが立てられないというのは同じことではないだろうか。昨秋、日本郵便の父前島密記念ポストが設置されたというニュースがあった。日本最初のポストは明治4年の郵便創業の年に粗末な木の箱でつくられたそうだ。翌年には黒い角柱のものとなり、郵便箱を垂便箱と勘違いしオシッコかけられたなんて話も残っているそうだ。とにかく郵便制度開始と同時にポストもつくられたわけだ。だからこそ前島密の胸像もポストの上に鎮座しているわけだ。もっともポストは御影石の何ともセンスの悪いもので残念だが、ポストが郵便事業のシンボルであることがうかがえる。ポストは郵便事業が地域に向けている顔なのである。
一時郵便事業への民間参入が騒がれたことがある。その時ポストを全国津々浦々に何万本だかを立てることが条件になって、結局どの企業も参入できず信書送達の独占は守られた。何とも姑息な方法であったが、それに対抗したクロネコのメール便も撤退するというニュースが最近あった。ポストのおかげで郵便事業の独占が守られたわけだ。
さて、株式会社となった日本郵便は経営理念として次のように挙げている。
ポストのない日本の風景
「日本郵便は、全国津々浦々の郵便局と配達網等、その機能と資源を最大限に活用して、地域のニーズにあったサービスを安全、確実、迅速に提供し、人々の生活を生涯にわたって支援することで、触れ合いあふれる豊かな暮らしの実現に貢献します。」
下線を引いた配達網等の末端にあるのが郵便ポストではないのか。それを「予算が無いので設置できません」はないだろう。前島密が泣いてるで。
わたしたち利用者は郵便局に気に入らないことがあっても、他の会社に替えることはできないのである。一般の企業なら「顧客は黙って去って行く」ということになるのだが、他の会社のポストは無い。だからこそ仕事はきちっとしなければいけないのだ。予算がなければ、取ってくる、上記三つの筋を通せば予算は取れる。億の金取ってこいと言うのではないわけだ、それも出来ないような会社なら未来はないぞ。
中原中也にも「郵便局」という詩があるのだが、わたしは萩原朔太郎の「郵便局」が好きだ。
郵便局
郵便局といふものは、港や停車場やと同じく、人生の遠い旅情を思はすところの、悲しいのすたるぢやの存在である。局員はあわただしげにスタンプを捺し、人人は窓口に群がつてゐる。わけても貧しい女工の群(むれ)が、日給の貯金通帳を手にしながら、窓口に列をつくつて押し合ってゐる。或る人人は為替(かわせ)を組み入れ、或る人人は遠国への、かなしい電報を打たうとしてゐる。
いつも急がしく、あわただしく、群衆によつてもまれてゐる、不思議な物悲しい郵便局よ。私はそこに来て手紙を書き、そこに来て人生の郷愁を見るのが好きだ。田舎の粗野な老婦が居て、側の人にたのみ、手紙の代筆を懇願してゐる。彼女の貧しい村の郷里で、孤独に暮してゐる娘の許(もと)へ、秋の袷(あわせ)や襦袢(じゆばん)やを、小包で送つたといふ通知である。
郵便局! 私はその郷愁を見るのが好きだ。生活のさまざまな悲哀を抱きながら、そこの薄暗い壁の隅で、故郷への手紙を書いてゐる若い女よ! 鉛筆の心も折れ、文字も涙によごれて乱れてゐる。何をこの人生から、若い娘たちが苦しむだらう。我我もまた君等と同じく、絶望のすり切れた靴をはいて、生活(ライフ)の港港を漂泊してゐる。永遠に、永遠に、我我の家なき魂は凍えてゐるのだ。
郵便局といふものは、港や停車場と同じやうに、人生の遠い旅情を思はすところの、魂の永遠ののすたるぢやだ。
【今日のじょん】
最近自己主張が激しくなってきた。散歩嫌ったら動かないし、こっち行くとなったら頑として聞かない。それでもこちとらは主導権もってなきゃいかんので、無理に引っ張ったりするとある行動をする。左足を挙げて痛そうにするのだ。これには弱くてじょんの言うとおりにする。なんかアヤシイナと思っていたら、かみさんが同じ事言うからドキリとする。そんな高等な戦術使うのかなあ、とりあえず要観察とする。
引っ張ってもダメ