晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

違いの分からんシリーズ 7/15

2009-07-16 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.15(水)曇

 郷土史シリーズが低人気で久々に違いの分からん農学士シリーズが登場することとなる。夏野菜のシーズンとなり、色々の野菜が採れたり頂いたりして楽しんでいる。今年は概して野菜の出来が悪いそうだ。昨夏トマト、ナス、ピーマンなど嫌というほどいただいたのだが、今年は成りと成長が悪いようだ。じょんのびファームで作っている夏野菜は、エンドウ豆、トマト、ナス、キュウリ、伏見甘長、万願寺、鷹の爪、オクラ、枝豆、ブッコチ、ゴーヤってところだ。夏野菜ではないが栽培しているのが生姜、茗荷、赤紫蘇、青紫蘇、自然薯、九条ネギ、朝倉山椒、一年柚子、カボス、アスパラガス。これらのうち既に初物を頂いているのがエンドウ豆、ナス、伏見甘長、万願寺、オクラ、枝豆である。ひとつずつ評価と反省をしてみたい。
 エンドウ豆、もうとっくに収穫が終わり、片付けも済んでいる。2株と少なかったのが反省事項、収穫のときに量が少なくて豆ご飯も出来なかった。最低4株は必要だ。
 ナス、一株だけ植えたせいか育ちは抜群だが、実付きが悪い。2個収穫したが既にスが入っているのが一個で味は最低、植え方育て方の研究をしないといけない。
 唐辛子類はすべて順調、育ちも味もよろしい。
 オクラ、昨年の反省に基づき今年は毎日虫のチェックを行っている。根切り虫に相当やられたが、間引きする分を植え付けたので、結局七株育った。一個だけ食したがまずまずで、今後が楽しみだ。
 枝豆、苗を二株買ってきて植えたが、すこぶる成長が悪くて、小さな実を先日食べた。味はそこそこだったが、あの大きさでは話にならん。近所の畑を見ていると大きく育っている。原因不明。
  キュウリ、これは失敗、昨年のピーマン責めに懲りて一株のみの栽培にしたところ、他のものは問題なかったが、キュウリだけは実が成らない。どうも受粉の加減らしい。そういえば、近くにヘチマやヒョウタンがあったら実が苦くなるとか言われている。どうも自家受粉だけでは実が成らないようだ。まだ苗を売っているので再度植えるか、今年は諦めるか迷っているところだ。Img_2628 Img_2627

ナス、キュウリ実付きが悪い。


 ゴーヤ、緑のカーテンもできあがり、順調に育っている。これほど作りやすいものもない。ただ、昨年の実から採った種で育てているので、数本わけの解らないのが分離してきた。
 ネギ、そろそろ干しネギにしようかと思っているが、一部種を採ってみた。何時蒔いていいものか分からないので、保留中。
 ニンニク、ワケギ、すでに収穫済み。根を干してあるので適当な時期に植え付けようと思っているが、これは後述の究極のじょんのびファーム用とする。
 ブッコチ、全然成長しなくて不安を抱いたが、気温の上昇とともに一気に大きくなった。一体どういう食べ方をするのか分からないので、収穫までに調べておかないと、、、。
 世話も大変だが、夏野菜は種類が多くて楽しみである。

【作業日誌 7/15】
畑草引き

今日のじょん:朝の散歩の際念道のバス停のところで、例の大毛虫に出合う。黒くて柄があって少し毛が生えていて、もこもこと這っている。やっぱりいたのだ、でもかみさんが言うように15cmは無い、せいぜい7,8cmってところだ。じょんもかまいに行くけれど制する。こんなのに刺されたひにゃあカモノハシじょんぐらいでは済まんで。

 

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山の神のこと(2) 7/14

2009-07-15 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.14(火)晴

 2006年の今日くそ暑い中を試走の旅に出た。信じられないほど暑い中を桂川サイクリングロードを嵐山まで行き、広沢の池を通り周山街道に出た。コンビニで昼食をとっていたらもの凄い夕立、それから19日まで強烈な雨に悩ませられることとなる。出発までは真夏を思わせる天気だったのに、最後には洪水による避難準備の警報が出るまでになるのだから、気象庁も安易に梅雨明けとは言えないのだろう。
 暑い中をそんなことを考えながら川合のお墓に向かう。お盆前の日曜日には株内の墓揃えと言ってお墓の掃除がある。いつも放ってある我が家のお墓は他の家々に比べて悲しいほど草茫々なのだ。この際玉砂利でも入れてきれいにしたいと下見を兼ねて草刈りに行く。周りの草を刈って石塔の周囲に強力な除草剤を撒く。来週には玉砂利を入れられるだろう。
 さてここで梅ぼりに来られていた地元のHさんと会う。世間話をしていたら獣害の話が出た。イノシシはもちろんシカもサルも出るそうだ。昨日シカ、サルは出ないという風に言ったが、余り畑とかしない人の話を聞いたものであって、実際は上林同様フルキャストで出没しているそうだ。その話題の中で、聞いたわけでもないのに山の神の祝詞が出てきて「サールオーテクダサレヨ」とうたっておられた。やはりシカでなくてサルなんだ。今では子供がいなくなってサルやシカが増えたとぼやいておられた。
 「丹波の話」で山の神の祠とサイノカミの小祠は一緒に奉られるのがこの地方の風と書かれているが、上地の両神様は離れたところに奉られている。昔からこの位置だったそうだが、新しく府道59号線が改修された際(昭和14年完了)に山の神と同じ場所に奉られたそうである。ところがこの時に祠を担いで行った人(I氏)が急死する事態が起こり、その後カイチ内に不幸が相次いだ。サイノキにはイノはんという男性の祈とう師、いわゆるオガミヤはんが住んでいたそうだ。私はこのことは記憶にないのだが、後日国鉄で弁当売りをしているという話を聞いたことがある。その人が、「サイノカミを元の位置に戻さないと、長男の死亡が続出する」というお告げを出した。それが現実となってきたので、元の位置付近に戻したということである。(母談)
 また、サイノカミは蛇の神様だと母は言う。斉の神、賽の神は正月のどんと焼、あるいは道祖神的な神様というのが一般的で、蛇の神様というのは聞いたことがない。サイノキの田んぼはとにかく蛇が多くて、しかも大きな蛇が沢山居て、農作業がとても辛かったという。イノはんは蛇の霊力を借りて予言やお告げをしており、蛇のような目をしていたそうだ。今日電話で、サイノカミの御神体は蛇がとぐろを巻いたミイラのようなものだそうだから、確認してきてくれと言われたが、さて現場に行くと気味悪くなって扉を開ける勇気が無くなった。Img_6201
サイノキの田んぼ、この府道の左手に祠がある。

 これらは母親から聞いた話だが、カイチの人は皆知っていることと思われる。磯貝氏も取材しているだろうが、あまりに非科学的な話なので本には書かなかったのだろう。

【作業日誌 7/14】
お墓の草刈り
家の周りの草刈り
畑の草引き

今日のじょん:かみさんと夕方の散歩に行っていたじょんが走って帰ってきた。えらいいきっているのでなにかいなと思ったら、山側にサルが来ていた。長靴を履いて追っていくとじょんも興奮しながら追っている。臆病なじょんだけどここ一番は頼もしい。犬猿の仲というのは本当にあるのだ。 

 

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山の神のこと 7/13

2009-07-14 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.13(月)曇、雨

 郷土史や民俗学的な記事を書いていたら読者数が激減した。もともとコメントは少ないが、ここんとこは皆無となってきた。じょんの記事は興味があるようだが歴史物は人気が無いようだ。大変申し訳ないがもう一日、どうしても書いておきたいことがあるのでお付き合い願いたい。それは三和町上川合上地に残る、いや残っていた山の神の祭事に関することである。これはもう消えゆく行事ということでなにかに書き留めておかないといけないと思っていたのだが、昨日紹介した「丹波の話」にかなり詳しく載っていたので驚いていたところである。
 私が山の神行事に携わったのは昭和30年代の後半だから、磯貝氏が取材された頃とは少しは違うところがあるかも知れない。
Img_5884
山の神の祠(三和町上川合上地、現福知山市、2007,5,21)


山の神の行事は小学校、中学校の子供達で行われる。日は決まってなく、10月か11月の休みの日に行っていた。上地カイチで男の子の生まれた家を宿として行っていた。朝、集まった子供達は我が家の上の山道から多分篠竹だろう数本を切ってきて、弓、矢、御幣、オシロイモチなどをこしらえた。オシロイモチは米をすり鉢で摺りおろし、榊の葉二枚に挟んで縄に編み込むものであった。オシロイモチとは「丹波の話」に載っていた言葉で、何と呼んでいたか記憶にない。ただこれを作るときは口を聞いてはいけないとなっており、榊を口にくわえて作業をした。また、縄は左縄とか言っていつもとは反対向きに編んだ。同じく竹で天秤棒のようにして二人で担いだ。一番年長のいわゆる先達が対象となる男の子を背負い、様々なお供えや道具を持って、行列を作って山の神の祠に向かった。年齢によって誰が何を持つとか決められていたようだ。この出発前の記念写真が私のアルバムにあるが、倉庫に片づいているので後日御紹介したい。
 祠に到着すると、全員で唱える。
ヤーマノカミノサンデンボウ(サンゼンボウ)
シーシオーテクダサレヨ
サールオーテクダサレヨ(シカオーテ)
モウイッペンモ ワーイ
(  )は「丹波の話」に出ている歌詞
サンゼンボウをサンデンボウというのは、川合特有の訛でお膳をオデン、全部をデンブ、善人をデンニンと言うがごとしである。和歌山地方の訛と同様で面白い。
シカがサルになっているのは不思議だ。私が子供時分は獣害など無く、現在はイノシシの被害は相当だそうだがシカやサルは見ないと聞く。
 さてこの歌というか祝詞というかを3回繰り返し、その後持参した竹の弓矢で祠裏手の大岩を射るわけである。至近距離でもあり射損じることはないのだが、射手に当たった者は結構緊張したものだ。
 無事に射終わると、オシロイモチを各自一個食べる。弓矢、御幣などを奉納してサイノカミの祠に向かう。Img_5885

サイノカミ、私たちはササノカミと呼んでいた。

サイノカミは山の神から大原よりに500mぐらいのところだろうか。私たちはササノカミと呼んでいて笹の神って一体何の神様かと思っていた。これは全国的にある斉の神のことだろう。この祠の下に我が家の地所があり「サイノキ」と呼んでいた。たぶん斉の神と所以がある地名だろう。ただ、府道拡張のため、この田を手放すこととなったのだが、登記簿には「サイノキ」という地名は無いそうである。(兄談)
 この祠前で先程の歌をまた3度ばかし歌う。歌詞はヤマノカミがササノカミに変わっているだけだ。弓矢などの行事はなくこれで参拝はおしまい、宿に帰ってごちそうを食べ、一日中遊んでお祭りは終わる。
ここまでは「丹波の話」に書かれていることとほぼ同様だが、おふくろから聞いた後日談があるので明日もう1日お付き合い願いたい。
Img_5886
私の生まれた上川合上地スゲ


【作業日誌 7/13】
ヒマラヤ杉焼却

今日のじょん:夏毛に変わるため毛が抜けるというが、もう何ヶ月ぬけ続けているだろうか。それも全然抜けない日があったり、どっと抜ける日があったりで一定でない。朝な夕なに毛ときをして、一日数回掃除機で掃除して、枕やタオルは朝夕にはたいて、もう大変である。特に食べ物商売をしていると店内には毛一本入らないように気を使っている。 
 

 

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丹波の話 7/12

2009-07-13 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.12(日)曇

 「丹波の話」をネットで見つけて購入した。おふくろが言ってた本かなあと思ったが、そうではなかった。(2007、12、18参照)
 2年前に2,100円で見つけたが既に売り切れていて手に入らず、アマゾンで探したら9千円もするので手が出なかったのだ。もう諦めたころに再度検索すると3冊ほど出ていた。値段は1,000円から2,500円、相場だと思う。アマゾンの値段は高すぎる。相場というものを調査せず適当に値段を付けているのではないか。寡占化して古本の値段がそこいらで落ち着くようになったら、古本文化は崩壊してしまう。ガンバレ良心的な古本屋さん。
 てなわけで1,000円の本を手にする。「丹波の話」は昭和31年に発行された本で著者は磯貝勇、333ページの単行本である。綾部、福知山その周辺の民俗学的な内容の本だが、教科書的な内容ではなく、大変読みやすい本である。著者の磯貝氏は民俗学者だと思っていたのだが、実は綾部の工業学校の校長さんで、科学者なのである。昭和18年ごろ赴任されて10年ほど在綾されていたそうだが、その間よくぞここまで調べられたかと思うほどの内容である。特に当時の交通事情を鑑みると相当のご苦労があったかと思われる。綾部、何鹿郡、福知山、天田郡あたりが中心的に調査されているが、上林各村、川合村の記述も多い。それは古いしきたりや習慣が消えつつある時代に僻地故にそれらが残されていたという側面があるのだろう。Img_2618
本文中にある川合村上川合上地は私の生まれ故郷である。いろんな箇所でこの地域がよく登場する。これはこの地域が民俗学的に特段重要であったというより、この地域に磯貝氏に協力的な人物がいたのではないかと想像する。それは丹波の燈火の項で登場する小原四郎氏である。四郎氏は教育者で綾高の校長先生などされていたようで、磯貝氏と交友があってもおかしくない方である。私の生家と同じ株内で、兄や姉が綾高に進むについてなにかとお世話になったそうである。国鉄の線路脇に住んでおられた時にお伺いした記憶があるが、今回綾部に来て神宮寺町に先生の表札を見つけて感激した思いがある。先生は他界されており、その家も空き家となっていたのだが、、、。丁度「遠野物語」の佐々木氏のような関係であったのではないだろうか。
 まだ半分も読んでいないのだが、私が生まれた頃の村の様子や言葉など、分からないことが沢山あって、電話で母親に確認しながら読み進んでいるところである。

【作業日誌 7/12】
杉丸太防腐剤塗り

今日のじょん:夏野菜の季節となった。ゴーヤはまだ早いがキュウリやナス、トマトが出来てきた。昨夏よく食べていたキュウリやゴーヤを食べなくなってしまった。キャベツやニンジンは常に食べているので大丈夫だが、食の好みが変わってきたのだろうか。キュウリは嫌々でも食べているようだが、ゴーヤは全然駄目、モロッコ豆もまるきり食べない。もっともモロッコ豆は私も苦手だが、、、、。

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破風のマーク 7/11

2009-07-13 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.11(土)曇

 奥上林村誌に民家のことが書いてあり、板の破風に「井」の字の家が多いこと、ひさしを出してない家が多いことが奥上林村の特徴とされている。自転車旅行中保存展示されている各地の民家を見てきたが、構造や間取りなどに注目し、屋根を注視していなかった。「井」の字とは何だろうと思って近所の屋根の破風を見るとすぐに分かる。木でいわゆる井筒屋のマークが作ってあるのだ。
Img_0055
井筒屋は近江高島が発祥の地だ。


奥上林でなくともこのマークの破風は圧倒的に多い。口上林は綾部はと道路沿いに見てもやはり多い。綾部市街にはもう茅葺き屋根の家は少ない、車で走っている道中では下矢田、有岡あたりに少し見えるが、やはり「井」の字の破風でひさしを出していない。要するにそれはこの地方の特色であって、奥上林独特のものでないことは確かだ。
 なぜ「井」の字なのか、村誌には書いてないがこれは推して知るべしである。京の北山の民家には「水」の字が多い。西原町で一軒「水」の字の家を見つけた、なんとなく懐かしい感がする、かつて北山の山々を自転車で彷徨っているときベンガラの朱色と破風の「水」の字はその地の民家の特徴であった。後日、本で読んだのだが、これは消防設備も貧弱で、日夜火を使うかつての民家の防火のおまじないということであった。同じくお城の天守閣にある鯱も防火のおまじないということである。井戸の意味をなす「井」の字マークも同様の意味だろう。それだけ火事の確率も高かったし、消火の設備も貧弱、もしくは皆無であったのかも知れない。大切な家を守りたいという切なる願いが破風の文字や印に現れている。
 ただ一つ気になるのは、こうやってみてきた屋根はすべてトタンで覆われていることである。茅葺き時代の破風のマークがそのままカバーにも描かれているのか、カバーを掛ける時点で変わっているのではないかという疑問である。こればかりはトタンの下の様子を見るか、過去の写真などを見るかしか確認のしようがない。もし、屋根やさんに聞く機会があればその辺のところを聞いてみたい。
 いずれにしても屋根の形状、破風の状態、鬼瓦の部分などは地方によって差異がありそうである。いづれこの辺のところを統計的に調べてみたいという気がする。
 今日は恒例のバーベQ大会を催す。今回7名の参加であったが、もっと多くても快適に開催できるよう施設造りも考えよう。

【作業日誌 7/11】
杉丸太の腰掛け造り

今日のじょん:「じょんちゃんは元気かい」と言って心配をしてくださるお客さまが増えてきた。先日から調子の悪いことを書きすぎたので皆さんが心配してくれたようである。おかげさまで元気にしているが、まあどこさんの犬も同じと思うが、暑さがこたえていることは確かである。あの毛皮をまとい、汗が出ないのだから致し方ないか。もう3ヶ月我慢せえよ。 

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梅干しに挑戦(3) 7/10

2009-07-12 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.10(金)雨、曇

 梅雨らしい雨が降ったが午前中で止んでしまい、上林の降雨は今年は本当に少ない。まだ今後の予想は分からないのだけれども、本格的な集中豪雨が来た場合にはじょんのび谷の動向は気になるところである。じょんのび谷の屈曲点の先に我が家があるということは容易ならぬことではある。府の事務所の方は100年に一度の雨でも来ない限り大丈夫ということだが、100年に一度の雨がくる今日日である。一応
じょんのび谷の屈曲部分は杉の木の柵で水流を防げるようにするつもりだが、それでもやられたら諦めるしかない。それより何もしないままにやられたら、これは悔いが残る。こちとらの準備が早いか、100年に一度の洪水が早いか、ある種の神経戦である。
  (5)さてあまりに早く梅酢が上がった梅干しの件だが、昨年と様子が違う、特に塩分の割合が少ないとことと砂糖を入れているというのが気になって仕方がない。大丹生のおばあちゃんが、「梅干しをカビさすと家に不幸が起きるというで」と言っていたが、それは梅干しを黴びさせてはいけないという戒めなんだろう。もっとも不幸なんぞせんぞ起きているから、起きたところで今更次郎なんだが、カビが来るのはちとつらい。そういえばカビこそ来ないが梅酢が少し濁ってそう、早く紫蘇を入れなくてはと思う。塩も梅酢も充分に殺菌効果はあろうかと思うがそれでもカビがくる、ところが紫蘇を入れるとカビが来ないといわれているのだ。紫蘇の成分により強力な殺菌の効果があるらしい。そういえばバッテラや鯖ずしに紫蘇を使うことがある、これはやはり殺菌効果を期待して使うのだろうか。
 問題は紫蘇の発育状態である。世間では紫蘇の販売も終わりかけというのに上林の紫蘇はまだ成育中だ。スーパーで見ると立派な紫蘇が数百円で売っている。買うのは簡単だが、我が家で作っている紫蘇は台無しになってしまう。というわけで、なにも紫蘇入れは一回とは限らない、いまある分だけ入れて後日再度入れよう。濃い色の紅生姜を作りたい意味もあって、紫蘇入れを2回にすると決める。こうなると気が楽になって、あるだけの紫蘇の葉を収穫し、洗って干す。買ったものでは無いので贅沢にいいところだけ使う。
Img_2614

(6)そこそこ乾いたら塩を振ってもむ。濃い灰汁が出てくるのでこれを捨て、再度塩を振ってもむ。再度灰汁を捨て、すくって取った梅酢に漬ける。梅酢が少ない場合はすべての梅酢をあげて紫蘇を絞り込めばいいが、今回は梅酢が豊富なので、杓子で一部をすくって使う。
Img_2615 Img_2616_2
灰汁を取っているところと梅酢に絞り出しているところ。

(7)梅酢を壺に戻し、紫蘇を一枚一枚広げて梅の表面に並べていく。梅酢が充分に上がっているので、重しは1/3くらいにする。(最初は6Kg、梅の倍の重量)
中蓋や重し、壺の蓋は熱湯で消毒しさらに焼酎を霧吹きでかける。念には念をだ。

Img_2617




紫蘇が育ったら再度この作業を繰り返す予定だ。ついでにらっきょう漬けに巻く紫蘇の葉も次回は作る予定。

【作業日誌 7/10】
赤紫蘇、青紫蘇移植
梅干し造り(紫蘇入れ)
ヒマラヤ杉焼却

今日のじょん:雨が降って涼しくなると体調、食欲ともごろっと変わる。だから案じたものではないのだが、暑さには想像以上に弱いようだ。人間と同じ感覚でいるとちょっとかわいそうな状況だ。






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念道のこと(1) 7/9

2009-07-11 | 歴史・民俗

2009.7.9(木)曇

 じょんのびのあるところは古川(こがわ)という地名だ。ところが上林の人には念道(ねんどう)の喫茶店でとおっている。念道にはバス停もあり、人家も多くて誰でもが知っているところである。上林の地名で念道と大唐内(おがらち)が気になっている。奥上林村誌を頂いたDさんは大唐内は唐の国と関係があるのではないかという意見で、そのあたりを調べてくれいということであった。地名考の研究誌や地名辞典などを見ればすぐに判明することだろうが、自らの思考と観察で仮説を立てたいと思っている。なぜならばそのことがその地域を知り、理解することになるからだ。そして後日文献や古地図などで検証することとなる。自分の説が当たっていることもあるが、的はずれの時もある。昨日書いた古和木も五泉も仮説である、検証されていないからだ。
 大唐内はさておいて、念道についてはある人から面白い話を聞いた、「この辺は粘土質やろ、そやから念道っていうのを子供の時に聞いたんや」というものだ。上林谷全体が粘土質で、川の屈曲によりその土が堆積しているこのあたりは確かに粘土質である。古いものは粘板岩となり「味噌岩」と呼ばれている。この説は念道という字にこだわらず、その地の地形や地質から地名考をしているあたりもっともらしく思われる。しかし、私はこの説には懐疑的である。この地名がいつごろ付いたか分からないのだが、古い時代に粘土のことを粘土と呼んだとは思われない。粘土って何か新しい言葉のように思えるのだ。味噌土ならまだわかるが。
 念道なら念ずる道、念仏でも唱えて歩く道、宗教的な地域と考えればもっともらしいが、これはおそらく無いだろう。大体地名はその発祥のころには口語で伝えられ、後に文献や地図を作製する際に漢字が当てられたようである。そういう意味で古い地名ほど使われている漢字に惑わされてはいけない。新しい地名はそうでもない、城山や殿、馬場などはそのままである。地名の発祥は地形、地質から来ているものが圧倒的である。地図や書き物が無い時分にその地がどのような地であるかを示すには地形を示すのがもっとも分かりやすいからだ。古和木や栃が木の名前から来ているとしたら、特色のある産物や植生から命名することもあるようだ。
 念道というのはなかなか手強い。府道一号線福井県境までたどってみると、行道前、大道という地名がある。あまり参考にならない。地形はというとこれがなかなか特徴のある地形だ。ほぼ真っ直ぐに流れてきた上林川が南に大きく屈曲し、忠、佃、武吉三町をめぐり再び府道一号線に合する、その屈曲点に当たる地形だ。道は河牟奈備神社から府道を分かれ建田三町を巡って十倉の交差点で再び合流しているが、古い道は念道橋を渡り小尾根の峠を越して忠町に至っている。徒歩の時代にはこの道が圧倒的に近くて合理的である。念道橋が昭和32年の完成と書かれているので、28年の洪水で流されたものだろうか。古い橋桁跡があるのでそれ以前もしっかりした橋があったようだが、もっと以前には流れ橋、それ以前は徒渉をしていたに違いない。つまり念道は重要な徒渉の位置であったのだろう。
Img_0824
上林川を挟んで念道の家並み



  道は渡を表しているのではないだろうか。土合(どあい)、土樽(どったる)、沢渡(さわんど)などの地名は川の徒渉地点にある地名である。もし道が渡であったとして念は何だろう。寝、年、燃、撚、根、音、子などいろんな意味がある。うーむ参った、なんだか特定できない。気になるのは音と子と根である。音は川の出す音である。甌穴の中に石が入りゴロゴロと音がすることがある。これはゴーロ(地名では強羅など)の語源だそうで、川原の石がゴロゴロしているところをさす。念道は川原の渡しという意味となる。
 子は時間と方角を表し、時間は深夜であるから余り関係なさそうだが、方角は北をさす。念道橋付近が北となるところは忠に抜ける峠のあたりである。ここには江戸時代に見張り番のような陣屋があったそうだ。忠方面と念道方面を一望できる場所であり、交通の要所でもあったのだろう。陣屋から見た場合、念道は北の渡しとなる。Img_2443 
 
                          
Img_2344





 左:奥に見えるのが峠に向かう古い道
 右:念道橋から上流、渡るには結構な水量だ。昔は狭くて深くて曲がりくねっていたのではないか。


 根は水の中の見えないものなどをさすそうだ。釣り用語では暗礁のことをいう。つまり川が底の見えない危険な状態であったら、念道は底の見えない危険な渡しとなるわけだ。
いずれにしてもこの峠道は現在は念道橋に通じているが、かつてはどこを渡っていたかは今のところ分からない。又川の状態もかつてとはかなり違うだろう。
念道の地名考証は多分に無理があり、本当の語源を知っておられる方にはくすくす笑われるかも知れないが、地名考証というのはこんなものであるという話にしておいていただければありがたい。

【作業日誌 7/9】
赤紫蘇、青紫蘇植え替え
赤紫蘇収穫

今日のじょん:暑さのせいか全然元気がない。朝だってサークルから出てこないのだ。普通散歩に行くときは大喜びなんだが、、、、。なだめすかして散歩を済まし、毛をといてハウスすると飯も食わずにぐたっと寝ている。去年も暑いときこんなことあったなあと気楽に考えているのだが、かみさんは大変、どっか悪いんちゃうやろかと大騒ぎ、ビオフェルミンやったりしている。

Img_2612   
ぐちゃっと寝ている、枕だけは自分でしっかりしているのが面白い。 
 
 

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奥上林村誌 7/8

2009-07-08 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.8(水)雨、曇

 綾部温泉を経営している緑土さんが10周年記念ということでいろんなイベントをやっている。先日6日は温泉の無料開放されていて、夕方に行ったが思ったより空いていて大変満足する。お得なのは木曜日の次回入浴券進呈で、いつも木曜日に行っている私たちのためにやってくれているのかななんて思っている。7月いっぱいの催しだから5回は貰えるわけだ。その他ポイントのたまる会員カードとか色々得点もあるのでこの機会に是非綾部温泉を利用していただきたい。
 さて先日奥上林村誌を貸していただく話をしていたが、余部があったと言うことで進呈していただいた。府立資料館にも無いような大変貴重な本で、ありがたく頂きじょんのびにも置いておくこととする。同時に三和町史(下巻)も安価で手に入れたので合わせて当分雨読のネタには苦労しないようだ。
 奥上林村誌も今日でちょうど半分ほど読了し、多分に統計資料的な要素があり、資料を見て推測するという高等な読書術が必要のようだ。読み物として見るとしたら、綾部市史の方が読みやすいと思う。村誌は昭和31年の発行で非売品、発行所は元奥上林村役場となっている。昭和28年に未曾有の大洪水で壊滅的な状況にありながら、31年に発行されているのだから、この村誌の編集というのは役場にとっても編集に携わる方々にとっても大変な事業であったと思う。また、当時の編集者は学校の先生とかがやっておられ、その後の郷土史のように決して専門的な方がしておられるとは考えにくい。従って地質にしても考古についても一般的な記述が多く、教科書を読んでいるような気持である。これはその土地固有の遺跡などの研究も進んでいないし、専門的な人材が希少な時代であったことを考慮すればやむを得ないことだろう。Img_2611_2

三和町史と奥上林村誌


 上林の地名については大変興味深い感がしていた。睦寄、老富、故屋岡という奥上林の町名は一件意味深い感がする。ところが明治7年の行政区画改正によって付けられた村名がこれで、老富は大唐内、市茅野、栃、光野(現光野町)の頭文字をとったもの、故屋岡は小和木、八代、小仲、川原の頭文字をとったもの、睦寄は六つの村が寄ったものとすこぶる単純明快で、分かりやすい地名なのである。つまり元奥上林村の大字に関しては地名考証上の深い意味は無いのである。これは奥上林に限らず中上林でも睦合、五津合、八津合は推して知るべし、五泉町(いいずみちょう)も市志、市之瀬、辻、水梨(い、い、つ、み)のようだ。口上林の金比羅講で有名な忠、佃、武吉も建田(た、つ、た)であったことなど同様の命名である。単純とか安易とか思われがちだが、新しく合併して村とか町とかする際にはその命名としては常套の手段であろう。私の生まれた町も川合、細見、菟原の三村が合併して三和町となった。この方がもっと単純でこれが嘉保町(か、ほ、う)なら一体どういう町なのかと想像をたくましくすることもあるだろう。
 というわけで当時の大字は地名考証するにおいてはあまり意味がない。ところが小字は深い歴史的な意味がある。ここで興味ある記事があった。明治の中期まで上林では一般的にくれ屋根が主流であったという事だ。くれ屋根とは栗板の薄いものを釘で打ちとめる手法で、くれ材の主産地は小和木でくれは小和木の名産品であったそうだ。これで察しの良い方は気付いておられるだろうが、小和木(こわぎ)の語源は強木(こわぎ)ではないだろうか。同様に老富の栃はそのまんまじゃないだろうか。このように小字の村名は考証の意味が出てくる。
Img_1557
右手の橋が念道橋、中央奥が奥上林の山々(2008年秋)


【作業日誌 7/8】
赤紫蘇用畝造り

今日のじょん:念道橋の上でうんPするようになって持ち帰りようの袋の用意やうんP拾いの手間など面倒になってきた。ところがいいことはうんPの様子をしっかり観察できることだ。特にうんPの後の肛門腺液の出る様子などしっかり確認できて安心だ。最初に病院でしぼってもらって以来、しっかり出ているようだ。

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自家製らっきょう甘酢漬け 7/7

2009-07-07 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.7(火)曇

 近畿の南部では大雨の報道が入っている。梅雨末期の集中豪雨だ。いずれ北部に移動して、梅雨明けとなる。2006年試走のために自転車旅行に出たのが7月14日である。それまで京都は真夏の暑さで、スタートの日も盛夏を思わせる陽気だった。それがその後断続的に雨が降り、19日には福知山で避難準備命令が出るほど降り続いた。そんな感じでまだまだ余談を許さない。それにしても今日の湿気はなんだ、かみさんはすっかり夏ばてになってしまった。それでもなんとかじょんのシャンプーだけはこなしたようだ。送金やなんやの用事を済まし、らっきょう漬けに取り組む。一応1K500gは市販の甘酢を使い、来年用の種球をとったら270gが残った。
ネットでレシピを調べて甘酢を作る。
材料 らっきょう 270g
    酢     162cc
    三温糖   72cc
    水      36cc
    塩      2,7g
    昆布    適当
    鷹の爪  4本
 今回は自家用の甘酢漬けなのでらっきょうの根は出来るだけ切り込まない。この方が見栄えは良くないがしゃきしゃき感があるそうだ。緑っぽいらっきょうもそのまま使う。
 作り方は前回同様、甘酢は材料を手鍋に入れ一煮立ちする。昆布を取り出して粗熱を取る。瓶は熱湯消毒ののち焼酎を霧吹きでかけて消毒、熱湯をかけてよく乾かしたらっきょうを入れて出来上がり。1ヶ月後ぐらいで食べられるそうだ。市販の甘酢と味比べをして、来年は美味しかった方にしよう。Img_2606 Img_2607 Img_2608




【作業日誌 7/7】
自作甘酢らっきょう作り
綾部側予告看板草刈り
倉庫整理

今日のじょん:夕方のビールタイムはじょんも大喜び。きびなごとビスケットを貰うわけだが、みんなで一緒に食べるのが楽しいのだろうか。
Img_2610

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ん十万円の支柱 7/6

2009-07-07 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.6(月)曇

 夏野菜がぐんぐん伸びてきて支柱立てが必要となってきた。実が成って重くなることと強風対策である。昨年背の低い鷹の爪唐辛子が風で折れておシャカになった苦い経験もある。ここは一番、しっかりした支柱をしてやろうと考えていたところである。近所の畑を見ると、畝の両端に杭を立て、梁をとうして両サイドから支柱を立てている。もっとも簡単で丈夫な支柱だ。杭と梁は簡単に作製したが、支柱の材料がない。ホームセンターや100均に行けばプラスチックの安い支柱がいくらでも手に入る。どうも芸が無いなあ、やはり竹でこしらえたいなあ、でも竹藪はブッシュだらけで気味悪いなあ。というわけで困っていたところ、車上荒らしに合いゴルフ道具が一切無くなり、皆さんから使えるものがあったら使ってと古いゴルフ用具をしこたま貰ったのを思い出す。「使わんやつはトマトの柄にでもしいや」という増田さんの言葉を思い出す。使わないと言うより使えないクラブがしこたま倉庫に眠っている。先日ましそうなのを20本近く、ゴルフショップに持ち込んだが、一本も引き取ってくれなかった。置いておいても倉庫の肥やしになるだけだ、お言葉通りトマトの柄にしようと、ヘッド部分を切り落とす。カーボンのシャフトはすぐに切れる。切りながら値札、といっても販売店ではなくメーカーの付けている値段のシールを見てびっくり、20,000円とか高いのは40,000円とか付いている。実際の買値はもう少し下だろうと思うが、やれカーボンだチタンだと新素材の出始めた頃のクラブだからそこそこの値がしたんだろう。今となってはトマトの柄となってさぞかし情けないだろう。Img_2603 Img_2604

左はオクラ、右はナス、唐辛子、手前にキュウリとトマトがある。

ほとんどの野菜に支柱が必要なので、とりあえず20本ほど作る。元値はざっと4,50万円だ。おそろしい支柱である。

【作業日誌 7/6】
芝生刈り、A地区2回目
ニンニク収穫

今日のじょん:最近うんPの場所が変わってきた。家の周りより、散歩中の確率が高いのだ。特に念道橋の上が圧倒的に多いようだ。この理由は、他の犬がいっぱいしている、朝いきなりより少し運動した方が出やすい、橋の上ってスカッとしていて気持いいなど考えられるが本当のことは分からない。はっきり言えることは最近じょんのび村に入ってくる犬はいないことだ。

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らっきょうを漬ける 7/5

2009-07-05 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.5(日)晴

 らっきょうの収穫は6月頃、葉が茶色く枯れてきた頃が最適と書いてあったが、7月になっても一向に葉が茶色くならない。先日らっきょう栽培を勧めていただいた井上さんが来られたので聞いたら、問題ないということ。つまりさっさと収穫すればいいということだ。さっそく葉をつかんで引っこ抜く、昨年の9月6日以来の収穫だ。この間草引きぐらいはしたが何の世話も要らず、楽な野菜ではある。昨年植え付けの時に実験をしている。植え付けの深さにより、実の大きさが違うということである。実といってもこれは茎のようだが、果たして深い方が大きいようだ。
Img_2596
左が深植え、少し大きいようだが、そう変わりない。


実の大きさというより、深い方が緑色の部分が少ないようで、白くてきれいだ。もっとも土寄せすれば済むことではあるが、、、。
大きそうな30株ほどを来年用の苗にと干しておく、この方法であってるのか知らないのだが、干しネギと同じ要領でいいのではないか。苗の一株が分けつして7,8株となっている。昨年植えた苗が300gで今年の収穫が約2Kg、食べられる部分は1.5Kgぐらいか、よく増えるものだ。
 掘り起こしたらっきょうは、ざっと水洗いし根の土を落とす。次に一個ずつヒゲ根と茎の部分を切ってゆく、面倒な作業だが梅干し用の梅の処理の後だから苦にならない。Img_2597




その後、薄皮や汚れがあれば落としてゆく。ここでヒゲ根の部分だが、あまり深く切らない方がいいらしい。深く切ると茎の隙間に甘酢が入り込んで柔らかくなるそうだ。つまりらっきょう独特のしゃきしゃき感が無くなるということだ。きれいになるかと、ちと切りすぎたようだ。
その後水洗いして、熱湯をサッとかける。これは殺菌、水切りの効果があり、白い色を長持させたり、えぐみを取る、臭いを抑えるなどの効果があるそうだ。
 乾いたら甘酢700gに1Kgのらっきょうを入れる。今回、店で使用する分は市販の甘酢を使う。自分で食べる分は少し酸っぱい方がいいので作ってみることにする。これは後日紹介予定。Img_2598Img_2600




上部に見える緑のらっきょうは土が浅いもの、漬けたらっきょうは3週間ぐらいで食べられるということだ。
【作業日誌 7/5】
らっきょう漬け
夏野菜支柱立て

今日のじょん:涼しいとはいえ少しずつ夏が近づいている。朝の散歩やぽんぽこぽんの後やたら暑いときがある。じょんもはあはあ喘いでいて気の毒な感がある。ところが食事の後、我々は仕事に取りかかるのだが、じょんは気持ちよさそーに昼寝、いや朝寝しているのである。じょんの居場所は東南の角で我が家では最高の位置なのだ。冬はぽかぽか、夏は爽やかな風が入って贅沢な場所だ。
Img_2599
いつもここでくつろいでおりやす。

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梅干しに挑戦(2) 7/4

2009-07-05 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.4(土)曇、雨

(4)壺に入りきらないほどの梅だったのでもう一瓶に小分けしようと用意する。おもむろに昨日の壺を開けると、なななんともうしっかり梅酢が上がってきている。梅の嵩もずいぶん減って壺の3/4ぐらいになっている。小分けする必要は全くない。しかしなんでこんなにすぐ梅酢が上がってきたのだろう。昨年の記録を見ると4日かかっている。ネットで梅干し造りを見てみると、梅酢が上がってくるまでにカビが生えないよう苦労しているようだ。一晩で上がってきたら何の苦労もない。考えられるのは塩9%と砂糖8%を加えたことだ。砂糖にも浸透圧が発生するので、相当濃い塩分同様の効果があったのではないか。それと従来よりかなり重い重しを乗せたことである。あるレシピにあったのだが、梅の重量の倍の重しを乗せるとあった。6Kgの重しを乗せた。梅酢が上がり、小分けの必要が無くなったのはいいことなのだが、困ったことが起きてきた。実は今年は自前の紫蘇を使うべく予定しているのだが、この成長が著しく遅いのである。一週間ぐらいかけて梅酢が上がってきたら、調度紫蘇が間に合うだろうと読んでいたのだが、あまりにも早すぎる。
Img_2601
完全に梅酢が上がり、紫蘇入れOKだ。


 

 【作業日誌 7/4】
北側芝生床造り
青紫蘇移植

今日のじょん:昨日マック隊長やマウイちゃんの食事を聞いて意外と少ないのでびっくり、成犬は少ないそうだ。じょんももう成犬と思うけど、信じられないほどよく食う。朝、ぽんぽこぽんでジャーキー一切れ、散歩から帰ってきてドッグフードワンカップ、パンの切れ端少々。昼は基本的にないがおとーのご飯を少しかすめる。ビールタイムにおやつのビスケットときびなご少々。夕飯はドッグフードに野菜など。種類こそ違うがかみさんよりは沢山食べている。太ってないからいいようなもんか。Img_2595


食っちゃ寝、食っちゃ寝なんだけど、なぜか太らない。結構運動してるのかな。

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梅干しに挑戦 7/3

2009-07-04 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.3(金)曇

 じょんがマーブルファイト出来なくてしょげているのでほのほのドッグに連れて行く。訓練士の居川さん親子が来られており、マックもマウイもトイレの前でいじけている。先日怒られたのでしょげているらしい。そのうちマックは出てきたが、じょんにも慣れすぎたのか遊んでくれない。Img_2578_2Img_2581_2 

Img_2584



(2)壺は内側、蓋とも熱湯消毒し、さらに焼酎でまんべんなく消毒する。石も同様にし、ビニル袋を被せさらに焼酎で消毒する。小皿は中蓋として使うもので、熱湯消毒、焼酎の消毒をする。
(3)梅のへたなどのゴミを爪楊枝でとる。この時梅の状態を点検し、割れたものなどがあったら除く。笊に揚げて水を切る。乾いてきたら小皿に10個ぐらい取り、焼酎をまんべんなく掛ける。ボールに入れた塩をまぶし壺に詰めてゆく。一列並んだら塩、砂糖を振りかけ、順次詰めてゆく。最後に残った塩、砂糖をすべて入れ中蓋をし、重し石を乗せる。普通この上に蓋をするのだが、今回山盛りとなったので蓋をしてから新聞紙でくるみ、その上に重しを置いたImg_2585。つづく
Img_2586Img_2587_2
 


【作業日誌 7/3】
梅干し漬け

今日のじょん:じょんネタのためお休み、マック隊長の写真公開
Img_2582
7月5日 DOG WALKS in舞鶴みんな待ってるぞ。


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郷土史 7/2

2009-07-03 | 日記・エッセイ・コラム

2009.7.2(木)雨、曇

 自転車旅行しているときに目的地に着いたらまず博物館、郷土資料館を訪ねることとしていた。その町を理解するにはその町の歴史をたどるのが手っ取り早いのだ。大抵の町にはそういう施設があるが、地方では訪れる人も少なくほとんど貸しきりでみることができた。数百件の資料館を見ていながら、自分の生まれた町や住んでいる町の資料館には行っていない。先日生まれ故郷の資料館に行ったが見学せずに一部資料だけ購入してきた。なぜって、一人で訪れていないからだ。人と一緒だと落ち着いて見ることは出来ないし、時間ばかり気になるので、余裕があるときに一人で訪れるべきである。郷土資料館には必ずその地の郷土史がある。大抵箱入りの分厚い本でとてもその場で見ることは出来ない。雨で動けないときに図書館に行ったり宿にあるのを読んだりしていた。役場や市役所の編集委員が何年にも渡って編集されたものでこれほど面白い読み物はない。難点は値段が高いことである。もちろんそれだけの価値のあるものだが、ちょっと手がでない。どの村でも住民向け、図書館や資料館、役所向け、歴史の研究者向けなどある程度製本されるようで、大概在庫が残っている。例えば綾部市など昭和50年代に発行されているが、いまだに在庫がある。定価は一冊4,000円で、今でもこの値段だから当時は相当の金額だったろう。
三冊セットだと10,000円で購入できるそうだ。同様に三和町史は一冊6,300円、三冊セット17,850円だそうだ。
 沖縄の宜野座村は阪神のキャンプで有名だが、この資料館で宜野座村誌を販売していた。多分全部で4,5巻あろうかという大作だったが、3,000円のところを900円で販売していた。沖縄の文化、習慣、特に葬制には興味があったので3巻民俗、考古編を購入した。在庫品に関してはこういう販売をして欲しい。Img_2884
 
安く買えたのはいいが、自転車旅行には大変な荷物となった。


ところがネット上の古本市場ではとんでもない値段が付けられているのである。綾部市史でも最低で3冊セット8,000円、高いものは4万円なんてのもある。新品が10,000円で売られているというのにだ。
 仕方がないので当分図書館にでも通って読むかなと思っているが、そう思いながら一年がたってしまった。やはり自宅でないと読めないのだ、図書館で借りて読む方法もあるが、返却時期が気になったり見たいときに手元にないという状況がどうもいただけない。なんとか安く買えないものか。
 そんな時ネットで三和町史上巻3,000円と定価の半分以下のものを見つけた。さっそく購入手続きをしたら、上巻でなくて下巻だったようでさらに1割引の2,700円となった。まっこんなしてなるべく安く手に入れようと努力しているわけだ。
 しかし最も読みたい郷土史は上林の三村のものである。綾部市史は三村合併後の発行なのでもちろん上林地区の記載もあるがやはり綾部市全体の記述となるので内容的に希薄となるだろう。大体上林三村の郷土史が存在するものなのか、資料館や図書館に行けばすぐに判明することだけど今すぐに出かけることが出来ない。ネットでしらべていると、京都府資料館データで口上林村誌は1951年発行で発行元は綾部市口上林支所、頒価不明で中上林村誌は1957年発行、発行元は中上林村役場、頒価200円とあるのだ。不思議なのは発行元で口上林村は1950年に綾部市となっているので支所の発行でいいのだが、中上林村は1955年に綾部市となっているのに発行元が村役場となっていることだ。既に編集製本が終わってから合併となったのだろうか。
 府資料館には奥上林村誌は無いようだが、いろんな文書に奥上林村誌によるなんてのが出てくるので存在することは確かの様だ。ことほど左様にお客さまのDさんが「奥上林村誌ならうちにあるで」ということで、後日貸していただくこととなった。そろそろ郷土の歴史散歩も始めてみようか。

【作業日誌 7/2】
何にも無し

今日のじょん:遅い梅雨が始まって雨の日が続いている。以前はレインコート着るのは嫌だが散歩は行く、という態度だったが最近は徹底的に雨が嫌なようだ。朝起きて雨が降っていると私が起きてきても喜びもしない。しらっとした顔をしている。もちろん尻尾振ることもない。「行くか?」というとのそのそとサークルに入って座り込んでしまう。無理矢理引っ張りだして、無理矢理レインコート着せて、無理矢理散歩に連れ出す。嫌ならほっとけばいいんじゃないの?
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雨の散歩は行きたくないワン。

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おがぴー来じょん 7/1

2009-07-02 | インポート

2009.7.1(水)曇、雨

  昨年もそうだったが今年も懐かしい人に巡り会えることができる。これも店を開いたおかげだと思う。普通に暮らしていたら誰も訪ねて来ることはまず無いだろう。おがぴーはトライアスロンの審判で橋立大会や舞鶴デュアスロン大会ですっかりお世話になっていた人物である。年賀状だけのお付き合いとなっていたのだが、このたびひょっこりと来じょんしていただいた。10年ぶりぐらいかなあ。審判で出張していた時は遅くまで飲んでいたし、大会が終わってからも福知山でもう一泊して飲んだこともあった。彼がやっていたイタ飯屋に伺った夜も遅くまで飲んでいた。旧い友達っていいものだ、何年逢っていなくてもすぐにうち解けるところがいい。今Img_2572_3 Img_2573_2  
 
朝、じょんのび谷付近で発見、近くにヤゴの殻があったので、孵化したところらしい。色々害のある虫が多い中で、トンボは幼虫成虫とも害はないようだ。害といってもあくまで人間の都合なのだが。オニヤンマは日本最大のトンボで雄より雌が大きいそうである。夏になると水辺の上をスイスイ飛んでおり、涼を感じさせる。じょんのび村ではよく見かける。少し目を放したら何者かに襲われており、大きなトノサマガエルが逃げていった。アリも数匹たかっており、安全な場所に移動してやるが、果たして生き延びられるだろうか、自然というのは厳しいものだ。

 【作業日誌 7/1】
紫蘇の植え替え

今日のじょん:うんPの場所は一定しない。じょんのび村の北側、西側は草むらとなっているのだが、その間でうんP場所が移動している。草むらの怪しげな場所でして、芝生広場や花壇の中でしないのは大変助かる。毎日変わるというのではなく、一週間ほど似たようなところでところでして、そして移動しているみたいだ。これって同じところでしてくれたらなにかと便利なんだけど。

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