2010.7.15(木)曇、雨
三ツ星かざして♪ 高々と~♪ ビールに託した ウチナーの~♪ という歌の題名は何でしょうというのが問題だった。沖縄のことならまかしなさいと、応募したら当たりやした、ペットゲートが。ホノホノさんのクイズだった。じょんのコンパネフェンスもそろそろくたびれてきて、来年はのびも迎えようかという時、なんとか改造したいと思っていたところである。渡りに船のペットゲートだったのだが、当選者は一名ということで諦めていた。そこへ田村さん夫妻が来じょんされて、当たりました~ということで、ついでがあったからと届けていただきやした。マック隊長とマウイちゃんもお初の来じょんで、じょんも大騒ぎ。
これが当たったのだワン。
なんでもマック隊長が選んだということで、とても購入してまで設置できないペットゲートがいただけて、じょんを初めおとーもおかーも喜んでいる次第である。さて明日は2×4の柱を買ってきてゲート付けたるぞ。
【キヌガサタケ情報】
7月15 雨 No.7 先日のNo.5の隣
No.8 先日のNo.6の隣、どうも同じところに壺が数個出来るようだ。
No.4(13日発見)の隣にある壺はいまだ同様。
No.7とNo.8
今日のじょん:じょんネタのためお休み。
2010.7.14(水)雨
7月10日に発見したキヌガサタケ(2010-No.3)を収穫した際にその兄弟である壺を発見した。昨年から何本もキヌガサタケを発見しているが、壺の状態で発見したのは初めてである。移植ゴテで取り出し、観察の後現状に戻していたが、4日たって遂に壺を破って柄が出てきた。朝の間に見つけ、まだレースも出ていなかったので、観察を続けて御紹介したい。
(1)7月10日、雨の中をNo.-3を発見、収穫するとその奥に壺を発見。様子を見るが11,12,13日とも変化が無く、触ったから出ないのかなと心配する。
(2) 7月14日、雨、朝発見時の気温27℃、湿度85% 2010-No.5
7:40 発見、壺の置き方が悪かったのか、垂直に立っていない。傘の色は薄い黒色これはどうも雨でグラバが流されているようだ。レースは出ていない。
(3) 8:35 レースが少し出てきている。超ミニスカートという感じ。
(4) 8:50 レースが半分くらい出ている。ミニスカートという感じ。
(5) 9:05 完全にレースが出ている。
(6) 11:20 収穫、グラバは完全に雨に流され傘も真っ白になっている。長さは15cmぐらいで小ぶり、雨に濡れているので乾燥は難しそう。
考察(1)発見時臭いにつられてか沢山の虫が寄っているが、中にはコガネムシのような甲虫類もいて、柄の部分が食されていた。やはりレースは本体を虫などの外敵から守るために出てくるのかと思うが、どうせ半日余りで萎れてしまうので、グラバさえばらまければそれでいいようにも思える。
考察(2)壺の部分は尻尾のある方が下で、コロンブスの卵同様縦に立っている。ただし障害物があるところでは斜めになったり、ひしゃげたように出てくる場合もある。
考察(3) 実はN0.5発見と同時にN0.6も発見している。こちらは同じ時間なのにもうレースも半分くらい出ている。ということは成長の状態は気象条件ではなくて個体間に格差があるようだ。
考察(4) No.6は薪の原木の下から出てきたもので、よくぞ成長したなあというしろものだ、もちろん垂直には出てこられない。移植ゴテで掘り起こして収穫したが、20cmの大物で、きれいな姿で収穫できた。どこからでも出てくるものだ。
考察(5)ものの本にはじめじめした腐葉土などから出現するとあったが、全然違う。昨年の16本、今年の6本についてみると、割合と日当たりの良いところ、土は関係ないようでバラスの中からも数本出た。このことは単なる偶然かもしれないが、総てに共通していることは前年に掘り返したところから出ていることだ。、昨年グラバを人工的に撒いたところは、まだ出現していない。
考察(6)乾燥方法についてはまだ良い案が浮かんでないが、事前に汚れなどを取るために水洗いしたものは、やがて溶けてしまうようだ。串を立てる装置を早急に考えたい。
水洗いした2本は溶けてしまった。
いま新しい壺を一個発見しているので、壺から柄が出るところを観察したいと思っている。ただし、早朝の観察が必要なので難しいところもある。
今日のじょん:じょん語録(52)目かい探偵事務所
京都市の人にしか解らないしゃれである。アレルギー体質なのかよく目をかいている。かわいいと言ってくれる方もあるが、本犬はつらそうだ。本当は目川探偵事務所だったと思うのだが、京都では看板をよく見かけた。写真はじょんのび村に来た日のもの、この時から目かい探偵事務所やってたようだ。
2010.7.13(火)雨
縄文時代が狩猟採集の時代だとすれば、弥生時代は農耕、稲作の時代といえるだろう。渡航技術が進み南方からの流入が盛んになると共に、稲作技術が導入された。北九州辺りが濃厚というふうに習ったが、吉野ヶ里遺跡のような巨大な弥生時代の遺跡が存在するのは当然と思われるし、邪馬台国もこのあたりに存在したのだろうと私は思っている。稲作農耕はそれまでの狩猟などよりも随分生活は安定してくるだろうし、移動から定住に生活そのものが変わってくるだろう。ところが稲作というのはどこでも可能というわけではない。気温の低い北海道、東北などは現在でこそ盛んだが、当時は到底困難である。北海道では続縄文時代といって縄文文化が七世紀頃まで続くのである。
函館市大船遺跡(縄文遺跡)の竪穴式住居跡、人の背より深い穴は防寒のためだろうか。(2006.10.4参照)
気温だけでなく地質も関係するだろう、南九州のシラス台地や関東ローム層も当時の技術では稲作は困難だと思う。また西日本などでも山間部や寒冷地などは稲作定住化の流れにそぐわなかったのではないだろうか。そういったところでは縄文文化は継続され、狩猟漁撈あるいは農耕以外の生活手段によって生きていく部族というか民族というかとなるのではないか。それが蝦夷なのではないか。南九州の熊襲も同様の条件で発生したものと考える。そうすると稲作に不適であった地域に蝦夷や熊襲が存在したというのも理解できる。ただ熊襲も蝦夷も政治的に国家に反抗するものをすべてそれらと見なしている部分もあるようだ。
割掛遺跡(弥生中期以降・豊後高田市)弥生時代となっても住居はあまり変遷していないようだ。中世でもまだ地方の住居は竪穴式が残っていたという説もあるようだ。(2007.3.20)
稲作定住が進んだ弥生人はますます混血が進み、和人として定着する。やがて国家を作った和人は蝦夷の資源や技術を狙って侵略する。そして同化が進み現在では蝦夷という民族は居ない。ただ純粋に細々と残ったのがアイヌなのじゃないか。人類学的にアイヌと和人の差異やその遺伝的形質などは解明されているだろう。それを学習していくのはとても楽しみだが、もっと知りたいのは言語である。
今日のところを要約すると、日本中にほぼ同様の文化を持つ縄文人がいて、これがいわゆる日本人の元であって、仮に原日本人と言っておこう。稲作農耕が始まってそれに相容れない地域の縄文人はその文化を継続し、蝦夷となった。稲作農耕を始めた原日本人は弥生人となり、更に混血を繰り返し和人となった。蝦夷はやがて和人に同化してゆくのだが、ある程度純粋に原日本人の血を残してきたのがアイヌ人なのではないだろうか。人種的なものは別として文化的に原日本人、蝦夷の文化を引き継いでいるのが、サンカとかマタギ、あるいは木地師などの漂流文化だと思っている。つづく(蝦夷・アイヌ・縄文人(3)は2010.7.7参照)
【キヌガサタケ情報(2)】
7月12日(雨、曇)
一昨日見つけた卵、もとい壺はそのままだ。雨のせいか、気温のせいか、それとも壺を触ったので駄目になったか。
7月13日(雨 24℃、80%)
朝から観測したため、良好にレースの開いているのを発見、2010-No.4 9:50、雨、25℃、80%、場所は木小屋西でNo.1の隣、もう一個壺有り。
発見、収穫、計測(約19cm)
【作業日誌 7/13】
今日のじょん:かみさんがぎっくり腰になって、半日整形外科に行っていた。よたよたと伝い歩きをする姿を見て「じょんもわかるんやなあ」と言っているが、本当にそのとおりで、心配そうな顔でちらちらとおかーの方を見ている。腰痛がどうのってのは解らなくても、何か様子がおかしいなあとは気づいているようだ。
2010.7.12(月)雨、曇
先日お知らせした樫の木に穴を開けた虻は、実はクマンバチだった。(2010.7.8)ズングリムックリしていてちょっと可愛い様相だが、でかいのと羽音が凄いので怖い感もするが雄には針が無くて雌でもそれほどきつくはないそうだ。枯木に穴を開けて卵を産み付けるそうだが、心配していた柱には開けそうにない感じだ。
そして、続虫・獣(2010.7.9)でアナグマかなあと言っていたのは実はアライグマだった。10日の午後にふと表に出たところ、逃げ出す犯人を目撃したのだ。夜にやられるとばっかり思っていたのが白昼堂々とやられていたのだ。尻尾の縞々までは確認できなかったが、小ぶりで尻尾が丸く素早い動作で逃げてしまった。この身の軽さじゃあ例えネットを1,5mにしても同じことである。しかも今までは胡瓜だけだったが、ナスもやっと赤くなりはじめたトマトもやられてしまった。心にぽっかり空いた穴がますます大きくなってクレーターのようになってきた。これ以上お金と労力をかけて野菜を作る意味が無くなってくる。確かに田舎に住んでいれば安い料金で新鮮な野菜を買うことが出来る、いろんな方から頂くこともある。だけど欲しいときに畑にいけばある幸せ、手塩にかけて作った野菜の美味さは代えがたいものがある。
左:この柱をよじ登っている。これじゃネット張っても駄目。
中:食い散らかされたナス。 右:やっと赤くなったトマト、まだ食していないのに。
野菜作りを続けるとしたら、アライグマからの防御をしなければならない。ネットが幾ら高くてもよじ登られるなら、屋根を付けなければならない。ちょうど猿除けに椎茸小屋を囲んだようにする以外にない。経費と労力をかけてそこまでやって、それで防御できるのだろうか。あの凶暴そうな歯や爪を見たらどんなことをしても侵入しそうだ。殺るっきゃない。罠でも何でもしかけてとっつかまえて殺すしか無さそうだ。
ところが、例えアライグマでも駆除しようと思えば環境省に特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律に関する手続きというのをしなければならない。そんなこと知ってる?一体法律ってなんやねん。奴らは予告も手続きもなしに畑を荒らすんだぜ。
【作業日誌 7/12】
じょんのび谷水道補修
ネット補修
草刈り6回目
今日のじょん:今朝3時過ぎに地震があった。震源は京都北部で震度は2ということだったが、結構ドーンと突き上げる地震でいっぺんに眼がさめてしまった。じょんはバタバタもクンクンも無いから大丈夫と思っていて、4時頃に起きていったら、しっかり起きてサークルから出てうろうろしていた。行ってやると凄く喜んでいたので、やっぱり怖かったんだ。雷も花火もへっちゃらなんだけど、、、、。
2010.7.11(日)雨、曇
今年もキヌガサタケの季節がやってきた。昨年は綾部市民新聞や朝日新聞に載ったりして大騒ぎだったが、昨年だけのフロックだったのかなという思いもしていた。ところがおととい7月9日に第一号を木小屋の横で発見、午後の発見なので少し傷んでいたが、今年も出るぞという期待をもたせる一本だった。慣れた手順で茎の部分を乾燥させ、グラバを水に溶いて散布する。
2010年No.1、7月9日、木小屋西の草むら。
そして昨日、連日は出ないだろうと午後に見回ったところ、またしても発見、今度は椎茸小屋の前である。かなり傷んでるなあと思いつつ収穫していると、ヒマラヤ杉が積んであるあたりから例の臭いがしてくる。キヌガサタケはハエや虫をおびき寄せるため鶏糞の様な臭いがする。それもかなり強烈なのでその辺りを歩くだけで気がつく。ヒマラヤ杉の下を覗くと、あるある、これも時間的にかなり傷んでるが、取り出すとその奥にキヌガサタケの卵を発見。
2010年No.2、7月10日、椎茸小屋西。
2010年No.3、7月10日、ヒマラヤ杉の下。
ここで晴徨雨読が科学的であることを証するためにきのこの部位を正式名称で呼ぶことにしよう。チョコレート色のグラバが付いている部分は傘という。そして私が茎と呼んでる部分は柄という。ここまでは解るんだが、いわゆる卵と呼んでる部分はどうも壺と呼ぶらしい。形状、機能ともに卵というのが最適と思われるが、動物では無いので卵とは呼べない。本日から晴徨雨読では正式名称で呼ぶこととする。
これが卵、いや壺だ。ブタのようなカワイイ尻尾がある。傘の部分はグラバを水に溶いて撒く。
というわけで今日までに3本、今年は幾ら出るか知らないけど記録を取ることと、昨年失敗した乾燥を成功させ、食するまでにこぎ着けたい。試食会に出席したい方は今から予約していただきたい。料金は無料だが、食あたりなどの事故については責任を負えないので悪しからず。メニューは一応卵スープを予定している。中華三大珍味だぜ。ちなみに後の二種はフカヒレとツバメの巣だそうだ。
さてその卵、もとい壺は今朝開くと雨で具合悪いかなあと思っていたら、幸か不幸か開くことはなかった。ひょっとしたら少し触ったので、駄目になったかもしれない。とりあえず観察を続けよう。
今日のじょん:嫌な雨の季節となった。天気の良い日は朝からクンクンやかましいのだが、雨の日はシンとして静かだ。じょんのところに降りていっても、サークルの中でジッとしている。外が見えない部屋で、雨を感知するのは一体何だろう。府道を走る車のタイヤ音だと私は思ってるのだが。
雨が嫌なのか、合羽が嫌なのか、、、、。
2010.7.10(土)晴
「上林の草刈り」という言葉があるそうだ。ホームセンターの草刈り用具の売り上げは綾部地区が圧倒的に他地域をリードしているそうだし、とりわけ上林は草刈りの盛んなところで、こういう言葉になっているそうだ。私の家族は故郷を離れて40年以上になるが、草刈りに帰ったなんてことは一度もない。ところが上林を離れている人は、まあ感心するほど帰ってきて草刈りをされる。京阪神から車を飛ばして、いまでこそ高速道路が無料だけれど、草刈りだけに経費と労力を遣われるのだ。もっと遠くの方はシルバー人材センターに頼んで、料金を払って草刈りをしてもらっている。しかし歳を重ね、あるいは亡くなって代替わりしたりして故郷の土地が放ったらかしになるケースも増えてきて、草ぼうぼうのジャングルとなり、獣たちの恰好の住処となっている。
私が小さい頃はどこの家にも牛がおり、毎朝の草刈りは日課となっていて、もちろんその草は牛たちの餌となるわけだ。村の入会地や川の岸などは草の取り合いとなっていたそうだ。刈払い機も無くて鎌一丁で刈っていた時代である。
こういった循環型農業の循環の輪の一部が切れただけでも、環境というのは崩壊してゆく。100年後の上林がどうなっているだろうか、そんなんわしゃ生きてないからどうでもええわというもんでもないだろう。
今日は一区の有志で堤防の草刈りである。念道橋の上下約1Kmを刈るのだが、何しろ伸びに伸びた葦である、イタドリは2,3mにもなっているし、漆や蔓性の木も生えている。
これを刈るんだって。念道橋の上流と下流。
我が家の頼りない刈払い機ではテコに合わないのでスームさんに馬力の強いのを借りる。草刈りの疲労はどうも刈払い機の震動にあるようだ、大きな排気量のだとこの震動が少ない。昼まで頑張ってやっつける。大勢の力とは凄いもんだ。帰宅後も勢いを借りて草刈りしようかと思ったが、ビール飲んだらやる気が失せてしまった。
【作業日誌 7/10】
かみさんは庭木の剪定
生姜植え付け(16個につき14個が発芽) 芝刈り機刃の取り替え
今日のじょん:じょんは肩が凝るか?凝るわけ無いけどなぜかコラントッテをしている。私がしているとなぜか肩が凝るのでじょんにあげたわけ。ファイテンだけど、片山晋呉が「これって、外したときに違いがわかるのよね」って宣伝していた。確かに外したときにスッとするんだよね。
2010.7.9(金) 曇
カフェじょんのびでは上林の情報は早いと思うが、オフトーク(有線放送)には加入していないので熊情報だけは遅れている。ほとぼりが冷めてから「あそこに出たんやで、ここに出たんやで」と情報が入ってくる。随分近くだったり、犬が一撃で殺されるとかなんとも物騒な話が出てくる。私が自転車日本一周で東北や北海道をまわった年、2006年はブナの実が不作の年で、全国的に熊出没の多い年であった。特に東北地方では連日出没が続き、例年の3倍の出没率だったそうだ。国道といっても誰も通らない道もあり、ブナの実だろうかとにかく実が一杯落ちていてタイヤがプチンプチンとはじいてゆく。こんな恐怖はそうないものだ。周りの森からいつ熊が飛び出してくるか解らない。時々森の中でガサガサと音がする、どきんとして目を凝らすと、きのこ採りの人だった。プロのきのこ採りらしくてあちこちで見かけたが、彼らもよーやるという気になる。
さてじょんのび村の獣害はというと、アナグマである。鹿もイノシシもすぐそこまで来ているが幸い侵入してこない。じょんのおかげかと思うが、留守にしていたときのサルの被害は一度あった。じょんが吠えたとしても家の中では相手にされないようだ。
多分アナグマだと思うのだが、キュウリを根こそぎやられた。最初、何の防御もしていなくて1,2本やられ、慌てて1mのネットを張ったらその晩に根こそぎやられた。よくよく人をバカにした犯人だ。
食い荒らされた胡瓜と丸坊主になった胡瓜畑、犯人の足跡が新しい畝にくっきり。
というわけで今日は休日をネット張りに当てる。ヤーダさんに頂いた檜丸太の皮をむいて防腐剤を塗って、支柱にする。穴を掘って立てていくが、4本終了したら腕が上がらなくなった。それでも今日中に仕上げなければ、今夜やられたら意味をなさない。暗くなってようやく1,5mのネットを張り終える。
今年の夏野菜は丹誠込めてつくっただけに、頭に来る。それにしても獣害さえなければしなくていい苦労を、、、と思うと情けないものがある。素人の家庭菜園でこれだから、本業の農家はもっと頭来るだろうなあ。
【作業日誌 7/9】
ネット張り
新ネット完成
今日のじょん:アナグマだかアライグマだかこれだけ夜襲かけられてるというのにじょんは熟睡している。蛾や虫が網戸に付いたり、部屋に入ってきたら異常に吠えるくせに本当の侵入者には反応がない。草を食わないメーといい、つらいものがある。
そんなの関係ねー。
2010.7.8(木)晴
梅雨の中休みで今年一番の暑さとなった。今夏はこの言葉が何回聞かれるだろう。例年だと草、虫、蛇というタイトルなんだが、草はもう諦めもついたし今年はまめに刈っているのであまり気にならない。蛇は日常茶飯事に現れているし、何回も取りあげているので、今回は虫と獣ということでお茶を濁しておこう。
虫談義にはいとまがないが、年々大発生する種類が違うようだ。少しずつ気候や食性の変化があるのだろうか。今年の流行は多足類のヤスデの様な虫である。大きさは3cmぐらい、軒下などの乾いたところにも畑にも居るのがちょっと不思議だ。畑では野菜の葉やナスの実を食べている。
こんな感じで葉や実を食べている。
家の周りにいるのは、野菜など無いから一体何を食ってるのだろう。普通小さな虫などを食べていそうだが目撃したことはない。ムカデなら動物性の食べ物だしヤスデなら植物性だそうだ。画像で調べても何者か解らない。逃げ足も速くなく、ちょっと突いたら死んでしまうのだが、なにしろ数が多くて困っている。部屋の中の壁でも天井でもウジウジ這ってるので頭に来る。家の周りにアリカダンなどの粉剤を撒いておけば、朝には2,30匹死んでいる。朝の仕事のひとつがこのヤスデらしき虫とダンゴムシの死骸を掃くこと、なんとなく情けない感がするのである。人が退職金でやっとこさ建てた家を気安く這い回るなよなあ。
こいつの掃除が朝の日課、正体は?
もう一つ凄いものを今日見つけた。木小屋の周辺でごそごそしていたら、なにかおがくずのようなものがばらばら落ちてくる、おかしいなあと思ってそのおがくずを辿ってみる。すると細い堅木のど真ん中に2cm程の穴が開いており、そこからばらばらと落ちている。穴を覗いてみると、黒い物体がチラッと見えた、なんじゃこらと思い穴の部分を鋸で切ってみる。すると前後に2cm程の穴が続いている。何かが居る方にポリ袋を被せてテープでしっかりしばり、トントンと衝撃を与えると何者かが飛び出てきた。いやー、でかい蜂かなと思いきや、よく見るとアブのようだ。それにしてもこの堅木をよくぞきれいにくり抜いてくれたものだ。へたなルーターなどよりよっぽどきれいにくり抜いている。
いやあ見事にくり抜いている、袋を被せて取り出すと、アブのようだ。
凄い顎の力だ、このアブよくベランダなどで見かける。この調子で柱なんぞに穴開けられたらしゃれにならない。人が退職金でやっとこさ建てた家の柱を気安く穴開けんじゃねえぞ。つづく。
【作業日誌 7/8】
薪割り
今日のじょん:蒸し暑くなってきた。これからじょんも受難の時である。ベランダでグチャーと寝てるのが、割合涼しいようだ。隙間からは風が来るし、なんといっても木の感触は涼しそうだ。
2010.7.7(水)晴
いよいよ本題の私の想像を書いておこう。想像というより現時点での認識といってもよい。今後沢山の本を読んで新しい知識を得たら、なんとまあ稚拙な認識をしていたものかとあきれることだろう。しかしその中にはきっと当たっていることもあったりして楽しいのじゃないか。いってみれば想像力のテストのようなものだ。
人類はアフリカ大陸の森で誕生し全世界に拡がったと言われている。日本列島はかつて大陸と地続きであった。また氷河期には氷を伝って移動することも可能だった。その時期に最初の人類が大陸から渡ってきたのだろう。日本海はかつて真水であったといわれるので、丁度おおきな湖だったのだろう。ということは日本列島の北からと南からと渡ってきたことになる。日本列島に定住し、進化発展してきたものが沖縄で発見された港川人、静岡県で発見された浜北人など教科書でもおなじみの石器時代人だろう。これらの人間が1万数千年前のもので、北京原人は50万年前のものといわれるので人類の歴史は随分ながいものだと感心する。もちろんこの間大陸から南方からどんどん移入してきた人種と混血が進むわけだが、日本列島が島として孤立してからはそのスピードは緩むように思う。
2007.3.3、沖縄県八重瀬町港川を訪れているが、興味は写真のガラビ洞であって、民俗資料館も訪れたが港川人には興味が無かった。ちょっと残念。
縄文時代が1200年ぐらい前からということは、縄文時代人も現代の人間も人類の進化の中でとらえれば、同じようなものではないだろうか。縄文時代人と弥生時代人の違いは人類の進化による違いではなくて、単に文化の違いだろう。
縄文人、弥生人という言葉は学問上には無いのだろうが、便宜その時代に生きた人という意味で使わしてもらいたい。縄文人とはある程度固定して、いわゆる原日本人といっていいのではないだろうか。縄文人が活躍したのは蝦夷・アイヌ・縄文人(2)でお話ししたように東北、北海道などの北方である。だからといって他の地域に居なかったわけでなく、全国各地に縄文遺跡はあるわけだ。その生活が狩猟採種であったために北方で花開いたが、南方でも狩猟は可能だし、採集あるいは漁撈は北方と同様に行えるわけだ。初歩的な農耕も行われていたようだし、おそらく古来種だと思うのだが稲作の痕跡も出ているようだ。
弥生時代にはいると、大陸、半島、南方からの流入が盛んになり、今まで以上に混血が進んだのではないだろうか。弥生時代に入ったからそうなったのではなくて、そうなって農耕特に稲作などの技術が流入し生活形態、文化が大きく変貌し、弥生時代と名付けられたと考えるべきだろう。つづく
今日のじょん:きょうもメーが遊びに来た。じょんは大喜びだが、よく見るとメーの頬がピンク色だ。女の子だから頬紅でも付けてるのかと思いきや、、、、、メー小屋のピンクの塗料が付いてるんだって。
この小屋から顔を出すのでピンクになるんだって。
2010.7.6(火)曇、にわか雨
今までに読んだ歴史書の中で強烈だったのは「鉄と俘囚の古代史」だったが、この白鳥伝説もそれ以上に強烈であった。征服され追放された敗者は歴史の表舞台には現れることはない。蝦夷であれ熊蘇であれ討たれるべき極悪人として語り継がれるばかりで、その真の姿を見いだすのは誠に困難である。もちろん歴史上の勝者敗者に善悪の区別は出来ないし、単に歴史というものが勝者によってのみ書かれるからということである。その歴史から抹殺された敗者の真実を丹念に探し求めたというのがこの書であろう。学者でも専門家でもない私たちが、蝦夷について知っていることはほとんど無い、ましてや大和朝廷以前のいわゆる神話の世界に生きた、生身の人間の生き様など知るよしもない。しかし現実にはそこにも人間の生活があり、戦いがあるわけだ。記紀は真実は語っていないけれど、真実を探し出すヒントは充分に持っていると思う。それらの神話の探求、古地名、神社に祀られる神々などから歴史の裏街道を歩んだ蝦夷と氏族たちの真実を探し求めた谷川氏の姿はすばらしい。
そのことによって私たちの知り得なかった真実が少しずつ見えてくるのだから。
さてこの下巻では、邪馬台国に破れた物部氏と蝦夷は東進し、東国から陸奥まで展開するのだが、その間蝦夷は大和政権による蝦夷征伐により征服されつくされる。その間前九年の役、後三年の役などの大戦もある訳だが、蝦夷ゆかりの安倍氏、安東氏、秋田氏などの動向も詳しい。上巻より時代が下っているためにより史実に近い感がする。上巻で、物部氏、邪馬台国の東遷の真意がはっきり示されていないのが不満であったが、今回の東進ははっきりしている。敗走と回帰と言っていいだろう。また蝦夷征伐の主な理由は、砂金ではないかということも終章で書いておられる。私は鉄だろうと思っているのだが、いずれにしても金属である。そして一番驚いたのは、この本を読了する前に書いた、「蝦夷・アイヌ・縄文人」(1)(2)(2010年7月3日、4日)で私が主張した縄文時代と弥生時代、古墳時代を連続した人間の歴史としてとらえるべきと言うことを谷川氏も言っておられることだ。蝦夷を探求すればおのずと縄文時代に行き着くわけだし、神話のようにいきなり天から人間が振ってくるわけで無いことは自明である。
「白鳥伝説」に期待したことは、綾部市物部町の須波伎神社を氏神とする物部氏とは如何なるものか、舞鶴の白鳥街道、白鳥峠は関連があるのかなどということである。残念ながらこれらは本文には出てこなかったが、別の方面から調べると興味ある結果が出てくるやもしれない。
私の氏神であるところの河牟奈備神社の祭神、天下春命(アマノシタハルノミコト)が登場してくる。もともと物部氏が信奉するニギハヤヒが天磐船にのって降臨したさいの供奉の神々のひとつということである。そしてこの神様、東国に移り、武蔵秩父の国造らの祖となっているのである。なぜその神様が上林に祀られているのか、なぜ大宮一宮大明神の扁額が郡によって取り外されたかなどの謎(2009.10.12参照)を解明するきっかけがあるような気がする。
(雨読 「白鳥伝説(上)」は2010.6.10~11)
河牟奈備神社の祭神は天下春命。
今日のじょん:じょんは怖がりの性格で、一番怖いのが生協の発泡スチロールの箱、段ボール箱、肥料袋やハウスのビニールなど、傘などと妙なものが続くが、ちっとも怖くないのが雷である。もちろん花火や工事の大音響もへっちゃら。特に雷に平気なのは特に上林では助かっている。 夕方にはゴロゴロぴかぴか凄い夕立が来たが知らん顔。寝てるときもあるよ。
2010.7.5(月)曇
5月10日に免許更新の手続きを済ませて、今日が講習と免許の交付日である。申請と交付の2日間を潰すことは、無職の人や自営で時間が自由になる人などはともかく、勤め人などは大変なことだろうと思う。とにかく行政サービスとすれば最低である。さて、5月10日にお約束した、私が安全協会に加入しない理由だが、この間に政府の事業仕分けなる大パフォーマンスが行われて、交通安全協会の悪行をマスコミがバンバン報道してくれたのであらためて公表する必要もなくなった。そのせいかどうか解らないけれど、かつてどっさり配布されていた安全交通教則本などの本も1冊だけになっていた。
今までは数冊の本が配布されていたが、、、、。
マクロな問題は報道の通りだが、ミクロな問題は報道されることもないのでここに発言したい。
綾部に越してきて何がひどいかと言えば、それは交通マナーである。特に上林地区のマナーは最悪。スピード違反、追い越し禁止違反、飲酒運転は当たり前、信号無視は少ないかなって思っていたら、今日の帰りにはしっかり目撃、ヤンキーな若者ではなく普通の中年のおばさんである。頭来るのが車間距離をとらない金魚の糞運転、しかも追い上げ、府道一号線時速60Kmで走ってると追い上げをくらう。かみさんはそれが嫌で運転嫌いになってしまった。
なぜこうなるかって、マナーが悪かろうが違反してようが、特段問題が無いからだ。この府道一号線の状態をそのまま河原町や堀川に持っていったら、大パニックとなってしまう。事故、死者続出で通行不能となるだろう。ところが上林では鹿やイノシシが当たって物損、夏場なら蛇や毛虫が轢かれる程度のことである。だからっていいってことにはならないわな、いつどこで人身事故になるか解らないし、あの狭い道をヒヤヒヤもので通学している子供達を見たら野蛮な運転は出来ないだろうと思うのだがね。
じょんのび前の1000mの直線道路は毎朝カーチェイスが見られる。河原町六条下がったところでネズミ取りやってるお巡りさんにここでやらせてあげたい、入れ食いだぞ。
第一、人や車が少なくても道路というのは公共のものである。そこで自分勝手な運転をするのはやはり社会人としては最低人と言わざるを得ない。
ではなぜこの事故は少ないけどマナー最悪路線を、警察は取締や安全教育などをしないのだろう。免許更新講習会の会場の黒板に大きく、今年度の交通事故件数が昨年度比で表示してある。つまりこの数字が各警察署の成績なのである。
トライアスロンのイベント開催について最も大きな障害は警察の道路使用許可であった。どこの警察署もトライアスロンの開催には拒否反応を示していた。それは自転車競技が含まれているからだ。自転車競技中に転倒や接触などで事故を起こすと交通事故一件とカウントされるそうだ。水泳で溺れてもランニングで脱水になっても交通事故にはならない。
同様に一般の交通事故対策をするとすれば、同じ労力なら事故数の多い国道27号線や府道福知山綾部線でやる方が効果があるわけだ。これはげすの勘ぐりだろうか。
となるとここでこの地の最悪マナーを改善しようとすればそれは安全協会しかないじゃないの。しかし現状を見ようという姿勢も改善をしようという姿勢も見られない。よしんばその姿勢があったとしても私には伝わってこない。「協力お願いしま~す」なーんて言って、十年一日のごとく安もんくさい免許書入れと交換に何に使われるか解らない会費を払うほどやわじゃない。ただし、安全協会と警察が本気で取り組んで上林の交通マナーが優良でなくてもいい、普通の状態になったとしたら、私はこちらから出向いて協会に入会し会費もお支払いさせて頂くつもりだ。
【作業日誌 7/5】
薪割り再開
今日のじょん:例の頭脳的脱出法が未遂には終わっているけど、続いている。ボールを咥えては芝生のところでポトンと落として、隣を見つめている。葛藤しているというよりは、ぷつんと思考の糸が切れて見境が無くなるという感じだ。それが傍目でよく解るので、事前に事なきを得ているが、一体どうしつけたらいいものか思案六法である。サリーちゃんとこのワンコも居なくなったと思ったら隣行ってたんだって。
飛び出したらあかんで。
2010.7.4(日)曇
縄文文化に触れたのは、日本一周自転車旅行で東北、北海道を訪れた際である。恥ずかしながら縄文文化が東北、北海道に花開いた文化であることを知ったのはその時である。狩猟採種で竪穴式の居住をしていたこの古い文化が温暖な九州や西日本でなく、北の極寒の地に花開いたかは旅の間中疑問に思っていた。青森の三内丸山遺跡は縄文遺跡としては最大のものであり、その施設も県立と思うが立派な施設であった。史書の方も大変しっかりされており、前記の私の疑問に明確に応えていただいた。「縄文時代は現在よりも随分暖かく、縄文海進と言って海水面もこの三内丸山遺跡の近くまで来ていました。それでも冬期の積雪はあったようで、積雪のあることが狩猟には必要な事だったようです」というものだった。各地の博物館や資料館で質問をしてもたらい回しにされたあげく、ちっとも的確な回答が無かっただけに、この博物館の回答は嬉しかった。
三内丸山遺跡のむら。道路は復元されたもので上林の山間部のより広い。(2006.9.26)
そして旅行が西日本に移ってくると縄文遺跡は数少なくなり、弥生時代の遺跡が圧倒的になる。その最大のものが吉野ヶ里遺跡だった。そして古墳時代の遺跡はその大小は別として各地にあるようだった。ただし北海道など北に行くに従って絶対数は少ない印象だった。
吉野ヶ里遺跡、戦闘設備、宗教的設備が目立つようになる。
(2007.4.6)
縄文時代は諸説あるのだが紀元前12,000年前から紀元前3世紀頃までとてつもなく長い期間の文化である。弥生時代が約600年、古墳時代が約500年などと比べても比較にならないほど長い。そして私たちの意識の中には狩猟採集で生活する縄文人と、定住耕作をしムラを形成する弥生人、そして国家を形成して権力が肥大化する古墳時代人という風にあたかも3枚の静止画を見るように思い浮かぶのだが、実際は動画のように連続した変化があるはずである。例えば大陸では戦争のたびに民族が滅亡あるいは放逐されるということもあったようだが、日本においてはそのようなことは無かったと思う。蝦夷征伐だって、蝦夷を絶滅させると言うことはなくて、懐柔したり、捕虜として使役したり、あるいは重く取り立てたりされる場合もあったようだ。明治維新でも徳川家は特別の待遇で生き続けたし、終戦でも天皇家は安泰である。それが日本人の特性であり、遺伝的な形質のひとつなのではないか。だから、何らかの大事件があって、縄文人が突然弥生人に入れ替わると言うようなことは無いだろう。つづく
【作業日誌 7/4】
ニンニク、らっきょう、玉葱収穫(すべて植え替え用)
今日のじょん:最近とみにかいかいじょんが増えている。強烈な雑種は皮膚病になりやすいとか言われている。アレルギー体質かなあとも思うが、どうも毛抜けの時期の特徴でもあるようだ。他所の犬もこの時期よくかいかいしている。
これがかいかいじょんだ。
2010.7.3(土)雨
「白鳥伝説」を読んでるよといったら、サーキさんの奥さんが「私も読みました、宮城県には亘理郡(わたりぐん)があってね」とかいろいろ教えてもらった。読み終えたらもう少しじっくり聞かせて欲しいという思いもあるわけだが、この本を読んだ人が身近にあったことがなんとなく嬉しい。衝撃的なのは畿内にも蝦夷がいたということである。普通の考えでは蝦夷とは古代から北海道、東北地方に住む住民で大和朝廷から異族と見なされ侵略制圧されたというような理解であろう。蝦夷=アイヌという説もかなり有力なようだ。歴史の授業の中でも蝦夷征伐という形で、まつろわぬものとして征伐の対象となったぐらいのことしか教えられることはなかった。
阿武隈川支流白石川にいた白鳥(2006.10.25)
「鉄と俘囚の古代史」で蝦夷のいわゆる捕虜が各地に移配されたということだけでも驚愕であるのに、蝦夷が畿内でも西国にでも存在していたということは不思議な感さえする。排除され、虐げられたものであるからこそ歴史の表舞台から消し去られたということだろうか、私たちはあまりにも蝦夷について知らないというか知らされていないのではないだろうか。
蝦夷への関心のはじまりはやはり「鉄と俘囚の古代史」である。別所がその移配地であるとして、現在別所の中に蝦夷文化を表す伝統的な行事や蝦夷地名などが残っていないのはなぜかという初歩的な疑問がはじまりである。もちろん調べた別所は京都府内のごく一部なので一概には言えないのだが、少なくとも丹波の別所の小字名を見ても他の地域と同様の変わりばえのしない地名である。そのことは別所だけでなく、その昔地名が発生しようかという時期には総てが蝦夷の居住地だったのではないかという、これまた大それた想像が沸いてきたのである。
蝦夷とは何か、アイヌとはなにか、そして倭人(和人)とはなにかという私たちのルーツについてあまりにも無知な自分を思い知らされた。さっそくこれらについて調べてみようと数冊の文献を取り寄せた。
「アイヌは原日本人か」(梅原猛・埴原和郎)
「地名アイヌ語小辞典」(知里真志保)
「古地名の謎・近畿アイヌ地名の研究」(畑中友次)
「九州の先住民はアイヌ 新地名学による探究」(根中治)
人類学として科学的には相当解明されていると思い、先頭の本を選んだ。アイヌ語小辞典はアイヌ研究の第一人者の知里氏による辞典で、アイヌ地名研究のバイブルである。後の二冊は、退屈しないようになるべく強烈な内容のものを選んだ。もちろんこれだけで総てが解るわけではないが、入門書としては良い選択だと思う。これらを読み始める前に、私の現在の蝦夷、アイヌ、縄文人に対する認識、いや想像を書いておこう。後から見れば滑稽な内容となるのだろうが、普通の人の認識ってこんなもんだということで意味があるのではないだろうか。つづく
今日のじょん:犬は狸眠りをするか?
朝は起きる前からどしゃ降りの雨の音がしていた。じょんは閉め切った部屋で、雨を音、もしくはタイヤの音で認識しているようだ。雨が嫌いなのか合羽が嫌いなのか、とにかく雨の日に連れ出されるのが大嫌いである。朝オシッコに起きていくと、いつもは無視しているおとーに気付かせようと、ぶるぶるしたり、あくびしたり、のびしたり、く~んと言ったりするんだが、雨の日は逆で、必死で寝たふりをしている。近づいても眼を閉じてジッとしている。それがみえみえだけに笑ってしまう。タヌキも犬科だそうで、犬が狸眠りしてもおかしくはなさそーだ。
2010.7.2(金)曇
やらにゃあいかんことに藤棚がある。昨秋に白糸濱神社の植木屋さんから買った藤が夏場になって急に伸び出し、蔓が空を切っている。ドッグランどができたら、パラソルとテーブルを置いて、藤棚の下に丸太のベンチを置いてコーヒーを飲みながらドッグランを見られるようにというおしゃれな構想なのではある。藤も伸びてこないし、まあぼちぼちでいいかと思っていたら、いきなり伸びてきた。このまま空中を浮遊しているのも気の毒なので、優先的に作ることとした。といっても柱3本立てて、壁板を張ってなどと言ってると時間がかかりそうなので、とりあえず蔓が登れる柱を立てることにした。ヤーダさんにいただいた檜の丸太を利用することとするが、まだ皮むきも終わっていない。いつもの杉皮むきで挑戦するがなかなか剥けない。イライラカッカしながら汗だくになって続けるが、一向にはかどらない。途中で村上さんにいただいた別種の杉皮むきを思い出し、試してみる。長年使われていなくてサビだらけなんだが、やってみると面白いように剥ける。刃の違いなんだろうか、形状の違いなんだろうか、とにかく昔の道具というのは奥が深い。
柄の付いたのが従来の杉皮むき、両手でもってやるのが新型?。
塗装して立てると背より少し高いくらいになる。蔓を這わせてみると、もうてっぺんに届く。えらいこっちゃ、藤棚が必要だということで、柱を一本立てたら暗くなってきた。
スームさんから軽トラを借りたお礼にとアサヒ缶ビールの限定復刻版をいただいた。冷えるのもそこそこに早速飲んでみたら、美味いこと。いつもののどごしじょんビールとはちと違う。昔の人の方がおいしいビールを飲んでいたとは、ちょっと哀しい思いもする。
【作業日誌 7/2】
ドッグランど、柵のボルト締め。
藤棚つくり
今日のじょん:今日は久々のじょんシャン日、体重は17,8Kg、合格。
2010.7.1(木)曇
七月が来てしまった。といってもどーってこと無いのだけど、6月中に完成しようかっていうドッグランも1/4程度の施工率、同じく看板は板に穴を開けただけ、何事も予定どおりには運ばないということが身にしみて解った次第だ。実はやらなきゃあいけないこと、作らなければいけないものをExcelで整理分類しているのだが、見るとぞっとする。逆に完成したもの、完了したものを見ると我ながら良くやってきたなあと思っている。今はドッグランどの完成が第一目標だが、これがなかなかやっかいである。要するに柵を作ればいいのだが、その付属物が大変なのだ。例えばドア、野外テーブル、藤棚、アジリティ、水洗い場、看板、犬小屋等々、これらはやみくもに作るとえらい目に合うのでじっくり考えて作らねばならない。もう一つは柵の中のフィールドだ。これは昨年まで草ぼうぼうのジャングル状態で、実際夏の間は踏み込むのも勇気が要る状態だった。その上産業廃棄物というか建築廃材なども捨てられており、実際よくかたずいたなあという感じである。このフィールドをどうするかというのは大問題である。柵の周辺は刈払い機は使えない、さりとて除草剤は使えない。熱湯による除草を考えているが、大量のお湯をどう沸かすかとか問題は解決していない。フィールドの中央部は草を刈るしかないが、雑草というのはどうにも味気ない。そんなわけで堤防や農道に自生している野芝を少しずつ植え付けている。毎日毎日ちょっとずつしてるのだがなんとも気が遠くなるような作業だ。
こんな感じで少しずつ植えてるんだけど、、、、。
作業が遅々として進まない理由は、家や完成済みの工作物のメンテナンスが必要になってきたことと、じょんのびファームである。じょんのびファームは相手が生き物だから仕方がない。最低限のものしか作っていないが、それでも夏野菜はどんどん生長して追いかけられること甚だしい。例えば今なら、ニンニクの収穫、ゴーヤのネット、来年用のらっきょうの収穫、生姜の畝作り等々、その上防獣用のネット張りが急務となっている。メンテナンスといえば、ウッドデッキの再塗装、煙突の再塗装、柱などの再塗装、玄関前室作り、ベランダ風よけ作り、作業小屋窓取り付け、木小屋の雨よけ作りなど枚挙にいとまがない。それと忘れていた、草刈りである。今日で今年度4回目終了、そうこうしているうちに芝が伸びてきた。草刈りと芝刈を繰り返して夏が終わりそうだ。そんなこんなで七月の目標は薪割りを終えることである。
【作業日誌 7/1】
草刈り4.5回目
今日のじょん:
ヘイヘイの家にはモリアオガエルがいる。毎年産卵に来るので世話をしているそうだ。たまに様子を見に行って、じょんとヘイヘイが遊んでいる間に観察をするのだけど、まだまだオタマジャクシで足も出ていない。この間見たのは親ガエルだったそうだ。子供達が独り立ちできるようになったらじょんにも見せてやろう。
泳ぎ回るオタマジャクシと木にうえつけられた卵。