晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の盃状穴(33) 番外編 7/16

2013-07-18 | 歴史・民俗

2013.7.16(火)曇り 京都帝釈天(17)八幡・厄神社の盃状穴

 飯盛山西光寺の明治記念碑にある鏡が老の坂で見えたという、またその場所は荒井神社があった地だという。これは何としても確認したく、準備を整え出発したが、南丹病院での歯の治療が終わるとパラパラ雨が落ちてきた。山で夕立に遭っては溜まらないと方針変更、園部の小山別所を探るべく、南丹市立文化博物館を訪ねる。ここで周辺知識を得てから小山別所を訪ねようという算段だ。
 P1040862

 



南丹市立博物館は図書館と併設の立派な施設である。

 今日の記事を飯盛山、別所探訪、盃状穴のどのジャンルで書くべきかということだが、実はどこで書いてもいい内容である。というのは別々に調べ始めたジャンルなんだが、これが妙に関連していることがわかってきた。少なくとも飯盛山と別所は関連があると思っている。つまり国分寺、国衙などの建築の際に金属の用具や材料を調達、工作する集落、集団を別所と呼んでいると思われるからだ。飯盛山はこれらの設置場所、建築に関する測量に関係しているので、別所のあるところ飯盛山があり、飯盛山のあるところ別所があるという事になるのではないだろうか。
 ただこの関係はすべてがそのようになるわけではない、それは別所には他の意味もあるようだし、飯盛山も国分寺などの測量のみをしていたわけでないからだ。
 ところが今回は盃状穴が浮上してきた。それは単に別所の関連で調査した神社に存在しただけであって、別所や飯盛山と関係するものではない。
 文化博物館に行く前に吉富の駅から飯盛山を眺める。この山、桂川方面から眺めても少しも神奈備型の山ではないのだ。地形図で見る限り西方面から見ると、神奈備状に見えるのではないかと予想しているのだが、まだそうはならない。
P1040858

 


吉富の駅から飯盛山方面を眺めるが、飯盛状態ではない。

文化会館は市役所のすぐそばにある、お城のそばなのですぐにわかる。入館料300円を払って常設展示を見て回る。
 小山別所については、「別所地名事典」(柴田弘武)に掲載されている関連事項を調べてみる。
 小山別所と呼ばれていた廃寺称釈寺の跡から出ただろう、経塚の現物が展示してあり感激する。また柴田氏が注目されている垣内古墳については、豊富な出土遺物の現物が展示されており、特に鉄製品、馬具などの豊富さが目立つ。垣内古墳のある内林周辺には荒代、金沢、千原など金属に関わりのありそうな地名があるなと思っていたら、博物館の地図に今林牧を見つける。牧の詳細はわからないが、牧と製鉄が併存している例は多い。
 そして垣内古墳の後円部(垣内古墳は前方後円墳)に当たるところの八幡、厄神神社境内からは12世紀の鉄滓が発見されているという。(別所事典)
 これは行ってみる必要がありそうだ。つづく
P1040863



八幡、厄神社の向かいにコンビニが本日オープン、お客が続いて駐車が出来ない。


【今日のじょん】今朝は幾分涼しいので、念道橋の向こうまで遠出する。ところが一番遠くに行ったときに、応急処置をしていた靴の底が完全に剥がれてしまった。底の剥がれた靴の歩きにくいこと、じょんは裸足でえーなー。
P1040856P1040857



あれっれ、、、だめだこりゃ
 
 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨読 古代史を解く三角形 7/15

2013-07-17 | 雨読

2013.7.15(月・祝)曇り

 この記事は16日に書いているのだが、阪神が間の抜けた試合をするので頭にきて記事が書けない。後日にこうご期待。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

じょんのびアラカルト’13.7(2) 7/14

2013-07-15 | 日記・エッセイ・コラム

2013.7.14(日)曇り、雨

 
 白樺枯れる
 入植以来5年間、買ったりもらったりで植え続けた樹木の内虫にやられて枯れたのはオリーブ1本と白樺2本のみである。ところがこれが値段的には上位の種類なのである。もらったり安く買ったりしたものは元気に育っているのだが、高価で買った物がやられるってえのはどうも合点がいかない。野菜じゃあるまいし、高いからうまいというものでもなかろう。
 さてその犯人はオリーブはアナアキゾウムシ、白樺はゴマダラカミキリである。どちらも幹や根に穴をあけて入り込むのだが、白樺の場合地中の根から入り込んでいるので見つけにくいという弱点がある。葉が枯れ始めて気づくのだが、もうその時は遅いという結果である。

P1040622P1040621




葉は一気に枯れる。土中の根の付け根に穴をあけられていた。
P1040830



こいつがゴマダラカミキリ、今年はいやに多く見かける。



 とまれ3本買った白樺は1本きりになってしまった。虫にやられる木はその地域に合っていないのかもしれない、あきらめるべきかなとも思うが、せっかくの高価な木なので挿し木をしてみることにした。うまくいくかどうかわからないけど、とりあえずやってみよう。P1040850




とりあえず5本の挿し木をしたが自信は無い。

 
   なんとかシューズ
 衣類は随分丈夫になってきて、とことんすり切れるまで着られるようになった。すり切れてもぞうきんにウェスにと使い道も多い。流行さえ追わなければ現役時代に買った衣類で一生行けるかもしれない。ところが靴だけはどうしようもない、早いものなら買って数ヶ月で底が剥がれる。剥がれたものを修理して、どこかに履いて出かけたらとんでもないことになる。持ちこたえる接着剤など無いので、肝心なところで剥がれてしまう。
 7年前に買ったトレッキングシューズは自転車旅行の半年をともにし、その後農作業に活躍して、側が破れておシャカとなった。破れておシャカになった靴はこれが最後である。後はすべて接着剥がれ、素材も接着剤も進歩しているはずなのにこれはいったい何だろう。
 登山店で文句を言うと、「再度接着の出来るタイプがありますよ」だって。
それは2万円以上して、しかも接着修理代は1万円だって、、、。馬鹿にしてるよな。そんなわけで底の剥がれたシューズを何度も接着剤で貼って農作業に使っている。その間履くものがないかと探すと、10年近く前に懸賞で当たった本間のゴルフシューズが出てきた。滑らなくていいかなと思って履いていたらものの一時間で底がパクパク、、、。これも接着剤で修理して、靴箱を探す。そこで驚きの靴を発見。P1040843



あの手この手でくっつける。

30年前のランニングシューズである。大事に包まれた新品である。ボルダリングが日本に入ってきた頃、ボルダリングシューズなんてのはまだ無くて、既存の靴でフィリクションの効くものを探し回った。この靴は最高のフィリクションが得られるもので値段も700円と安く、近所のスーパーで買い占めたものである。難点は側も底も薄くて柔らかく、スラブを登っているときはいいが、クラックなどでは堪らないものだった。そのうち登山靴のムラカミからボルダリングシューズが売り出されて、以来眠っていたシューズである。30数年前の靴なのに接着はしっかりしている。見るとメイドインジャパンである。当時当たり前の接着技術はあったのだ。現在の靴のていたらくは、業界の陰謀としか思えない。P1040853



真ん中がトレッキングシューズ、右はゴルフシューズ、左が今回発見のスーパーシューズ、スーパーで買ったからではないぞ。

【今日のじょん】ノウゼンカズラが咲いた。この時期多くの家の庭で、独特の橙色の花を見かける。旺盛な花だけど、上品な色なので好きな花の一つだ。じょんはあまり興味が無いみたい、、、。P1040837


【作業日誌 7/14】
ドッグランどデッキ下網掛け

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

じょんのびアラカルト’13.7(1)  7/13

2013-07-14 | 日記・エッセイ・コラム

2013.7.13(土)雨
 梅雨入りしたとたんに夏の晴天が続き、梅雨明けしたとたんに末期の集中豪雨を思わせる雨が降ってきた。ままならんね。ご存じじょんのび村の様子をお知らせするじょんのびアラカルトをどうぞ。

熊の功名
 最近のビッグニュースは熊との遭遇だが、近所では「夜な夜な桃の木にきとるで」ということもあり、小林のおばあちゃんのように「80年そんなもん見たことないで」という言もある。わたし自身60余年、生熊は初めてである。
 熊には何度も見られているけど、見たのは初めてということではないだろうか。
 今回の熊事件でドッグランどの柵や網がしっかりしていたことがわかった。網の破れが3個所ほどあったが支柱などに取り付けている部分の破れで、熊が直接破ったのは1個所である。支柱や桟の板などは無傷で、以外と丈夫だった。熊で大丈夫だから少々の犬でも大丈夫だろう。熊の功名というところか。
P1040817_2P1040819




熊は正面支柱の左からネットに突っ込み、ネットが破れないので左に移動、次の支柱の左から戻った。写真(右)のとおり随分左にネットは押し出されているが破られることはなく、支柱も桟も無傷であった。


アクセス20万突破
 【晴徨雨読】のアクセス数が6月末に20万を突破した。今現在201、118で、10万回を突破したのが2010年4月24日、スタートが2006.6.19なので、まずまずコンスタントに読まれているようだ。内容的に七面倒くさいものが多いので、このアクセス数は満足のいくものであり、読んでいただいている読者の方にはまったくもって感謝の一言である。ブログの機能も、読みやすく便利なものが用意されているのだが、設定するのが面倒でそのままになっている。そろそろ改良に手をつけるべきなのだろう。

梅干しを漬ける
 梅のできが良かったので、4年ぶりに梅干しを漬けることにする。あまり沢山消費しないので壺に半分くらい残っていたのだが、梅干しの黒焼きを作ったので在庫が少なくなってきた。昔のレシピを出してきて塩分は10%で漬ける。前回は村上比率で塩9%、砂糖8%という変則梅干しだったのだが、今回は元に戻った感じだ。もっとも昔の梅干しは30%を超える塩分だったそうだ。
 梅干しというのは他の漬け物とは違った何か芸術的なものを憶える。昔の主婦は梅干しにカビを生やすのは最大の恥だとか言われたそうだ。そうで無くても季節的にはカビの全盛期でやはり気を遣う。熱湯やアルコールで容器を完全に消毒するが、現実の梅は水洗いされているだけでカビが来たっておかしくない。問題はいかに早く梅酢に浸すかが勝負だと思う。
P1040696P1040797



梅の収穫が少し若すぎたか、梅酢の上がりを確認できるようガラス瓶に半分を漬ける。(合計6Kg)

6月27日に漬け込んで、一週間で梅酢が上がってきたが、9分目から上がってこない、よく考えれば重しを入れていない。以前は重しを入れていたように思う。
今更面倒なのでそのままシソを入れる。かびたら困るので少し塩分強めにしたのだけど、三日前に覗いてみるとなんか白っぽいものがあるような気がする。今日見たらしっかりカビだ、ショック。今までかびさせたことがなかっただけにショックが大きい。幸い少しの部分だったので、梅1個とシソ少々を取り出して捨てる。ガラス瓶と壺の二つを漬けたのだが、壺の方だった、やはり密封出来ない弱みがあるんだろうか。P1040846



白いカビ2個所を発見、この部分を捨てて様子を見る、主婦失格???


【今日のじょん】暑くなってから朝トレを控えているので、ぽんぽこぽんも曇ったときだけだ。となるとどうしてもリズムが悪くなる。今日もボールを獲る途中でシラッとどこかに行き、うんPしてしまった。ボールのこと憶えてるかな~っと見ていたら、しっかり憶えていたので、まずは合格。
P1040831P1040832


  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯盛山(12) 西光密寺(4) 7/12 

2013-07-13 | 飯盛山

2013.7.12(金)晴れ

 飯盛山や飯地名の重ねているが、肝心なことが出来ていないことに気づく。その地の歴史や民俗学的なことをいくら調査しても、そこにレイライン(注1)を引いてみなければ「飯の山」の謎には迫れない。実は本を読んだり、地図を買ったり下準備はしているのだけれど、未だ1本もラインは引いていないのだ。従って飯盛山西光寺についてもいったんここで筆を止めて、改めてラインが見つかった時点で再開したいと考えている。
 荒井神社は西光寺の参道入り口の横にある古社である。
創建は不詳だが、「三代実録」に元慶六年(882)の項に丹波国の荒井神の記述が有り、かつての志麻郷であり、式内社嶋物部神社に比定されているという。祭神は荒魂神だが、元は宇摩志摩遅命(うましまじのみこと)という説もあるようだ。(荒井神社誌等)いずれにしても物部氏とゆかりがあることは確かなようだ。P1040786





  飯盛山の付近に物部氏縁の神社などがあるというのは口頭で聞いただけで、正式な文献では見たことがない。ただ豊岡市の飯谷(はんだに)を訪れた際に、韓国神社の祭神が物部眞鳥であり、かつては物部神社であったということだった。
 今は飯盛山の麓にある荒井神社が物部氏縁の神社であることだけを憶えておこう、いつか何かの参考になるかもしれない。
 もう一つの気になる情報は、某HPで見つけたものでソースが不明なのだが、荒井神社はもともと現在地の上方600mの山稜にあり、その地はなんと例の鏡の設置された西南戦争の慰霊碑、明治記念碑の位置だというのである。この情報は再確認する必要があるが、もし事実の事であったら、飯盛山、飯盛山西光寺、明治記念碑、鏡通信、荒井神社、物部氏などのアイテムが微妙に関連してくるようにも思えるのである。
 明治記念碑に鏡を設置したのはなぜか、その反射光が老の坂で見ることが出来るというのは単なる偶然なのか、謎は深まるばかりである。
 当初の目的であった盃状穴は荒井神社で確認できなかったが、実はちょっとした発見があった。
2012.9.14、三和町菟原中の八幡社を訪れた際に本殿脇で見つけた奇妙な鉄片3個のなんたるかがわかったのだ。(2012.9.16参照)
P1020728



この写真を持ち歩いて聞いて廻ったのだけどわからなかった。

 神社には何とも奇妙なものがあるものだ、ところがわかってしまえばなんてこと無いものばかりなんだが、判明するまではとんでもない想像をしてしまうものである。その鉄片は今まで誰に聞いてもなんだか解らなかった。古代の鉄鋌(てってい)つまり鉄の地金に形が似ていたので、明治以降の当地の鍛冶屋が仕入れていた地金を奉納したのではないかとまで想像してしまった。
 答えは一目瞭然、石材を繋ぐ金具で蝶板とでも言うのでしょうか、これが荒井神社の鳥居の台の部分にあったのだ。なるほど。

P1040785P1040784


 
 

わかってしまえば、なんだって事になるんだが、、、。
 
(注1)レイライン(Lay Line):古代の遺跡や古墳、寺社、磐座などが直線上に配置されているという説があり、その直線をレイラインという。

【作業日誌 7/12】
ドッグランど、フェンス網張り1枚、デッキ下網張り2枚

【今日のじょん】ドッグランどの柵作りがいよいよ大詰めに来ている。飛び越える高さとかくぐり抜ける穴とか、じょんではちっとも参考にならないのだ。やはり来じょんするワンコは小型犬が多く、とにかく走り回るので何が起こるか分からない。P1040826

 

床下、狭いとこでもふさいでおかないと、、、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯森山(11) 西光密寺(3) 7/11

2013-07-12 | 飯盛山

2013.7.11(木)快晴

 「実はこの本にそういう伝承のことが書いてあるのですが、お心当たりはないでしょうか?」ということで岩田女史の書かれた「飯の森の秘密」をお見せした。
「何年か前にこの方が訊ねてこられて、お話ししたことがあるのですが」ということで鏡通信のことをお話しいただいた。
 
 鏡通信の真実は以下の証言に表されていると思う。
 「そこに明治記念碑という案内がありますが、尾根を登ると五十mほどの所に石で作られた塔があります。その塔に穴が開いていて、かつては鏡がはめ込まれていました。何年か前に朽ちてきたのでアルミかなんかの盤に変えたことがあります。その塔は明治の時代に西南戦争の戦没者を弔うために京都府が建てたもので、その鏡の反射光が老の坂峠から見えたという伝承があります。そのことが御所との鏡通信という話に発展したのではないですか」
 「その明治の塔に鏡をはめ込むという発想は、いにしえの言い伝えがあってのことではないでしょうか」
「それはあるかもしれませんが、そのような話を聞いたことはありません。京都府がこの地を選んだことは、京都府の地図を二つ折りにしたところこの地が真ん中とされたためだったとは聞いています。」
P1040789

 



本堂(阿弥陀堂)から明治祈念碑の尾根を望む、距離的に見るとピークではないようなのだが。

 明治記念碑というのは、西南の役の殉職者104名が祀られているということだが今では参拝する人も居なくて荒れていると言うことだった。塔の上部に鏡がはめ込まれていたことは事実のようだがその理由も明らかでない。
 老の坂のどこかでその光が見えたという話はあり得ることだし、実験も出来ないことはなさそうだ。P1040790

 


本堂(阿弥陀堂)、仏教でも神道と同様鏡というのは重要なアイテムだということだ。本尊の前に鏡があるということはご住職にもお聞きした。

 ご住職がどのようにお話しされたか、岩田女史がどのようにお聞きになったかは知るよしもないが、信頼できるのは明治期の記念碑の鏡の話までではなかろうか。
 それよりも気になるのは、西光寺の上にある飯森山が、何らかのレイラインになっていないかということである。
 そして今ひとつは荒井神社の問題である。つづく

【今日のじょん】
かんかん照りの散歩を躊躇していたら、今朝は曇り空となった。チャンスとばかりに」連れてったら、いつも通りの元気が出たようだ。暑くてもちょいと出ることがいいみたいだ。
P1040824P1040825


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯盛山(10) 飯盛山西光密寺(2) 7/10

2013-07-10 | 飯盛山

2013.7.10(水)快晴 飯盛山(9)は2013.7.7

 7月2日、八木町西光寺、荒井神社を訪ねたのだが一つの目的は盃状穴探しである。八木町鳥羽の八幡神社に強烈な盃状穴を見つけて、こちらにも有りやという期待を持って訪れたのだが、一つとして見つけることは出来なかった。もう少し沢山の社寺を訪れないと言えないのだが、盃状穴の有無と社寺の格であるとか歴史であるとか祭神、宗派などは無関係であることが予想される。
 飯盛山西光寺は真言宗神護寺派のお寺だが、天平宝勝8年(756)僧良弁の開基と言われている。これが本当ならずいぶんと古く由緒のあるお寺ということになるが、ほとんどの社寺同様素直に受け取れない。ただ文覚(もんがく)上人(1139-1203)の得度や再興といった事柄はこの地方の文覚の伝承や遺跡から見てもありうることと思う。
P1040787

 


西光寺参道入り口の「文覚上人得度地」と書かれた石柱

文覚・西光寺→神護寺→和気清麻呂といった相関関係もあるようで、京都帝釈天の和気清麻呂創建説もこの辺りに根拠があるのかなと想像する。
 ともかくこの日の西光寺訪問は、盃状穴探しと、鏡通信伝承の確認である。広い境内をいつものように舐めるように見渡して盃状穴は見つからず、鏡通信伝承の確認にとりかかる。
 古代に鏡通信というものが果たして存在したかは別として、このお寺の山、飯盛山から老の坂峠方面の山頂、あるいは山稜に光が届くことは充分考えられる。そしてその山頂の位置によっては直接御所に届くことも可能であろう。中継点では直接反射させられなくても、読み取った信号を移動した後に御所に送ることもできるだろう。
P1040782

 


参道から庫裡の奥に山稜が見えるが、こちらからは三角錐の神奈備状には見えない。


 近所の人ならこういった伝承をご存じの方もあるかなと思い、人影を探したのだが、真夏の日中とてだれも歩いていない。幸いお寺には自家用車も止まっており、住職がおられるようだ。呼び鈴を押すと住職が出てこられた。簡単な挨拶の後、聞き取りを始める。
 「こちらのお寺と御所の間を鏡で通信していたという伝承を調べているのですが、そういう話は伝わっているのでしょうか?」
 「そういう話は聞いたこともありませんし、何度か火災に遭って古いことを書いたものも残っていません」

 意外な答えである、書いたものまでなくてもどこかで聞いたことがあるというような回答を期待していたのだから、、、 つづく

【作業日誌 7/10】
草刈り(4-1)

【今日のじょん】梅雨明け十日の猛烈な暑さがやってきた。毛皮をまとったじょんくんはさすがに暑そうである。そんなわけで朝の散歩は中止し、オシッコうんことかるいぽんぽこぽん、そしてけーとくちんだけで済ましている。とにかく朝の8時というとそこいら中かんかん照りなのだ。
 ところがじょんの様子がちとおかしい、なぜか言うことを聞かないで不服そうなのだ。散歩に行かないことがどうも不服らしい、じょんのためにやめてるんだけどなあ。明日からちょっとだけでも行ってやるかなあ。P1040811



暑さでへたったまま水飲んでいる。あ~しんど 



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊騒動 7/8、9

2013-07-09 | 日記・エッセイ・コラム

2013.7.8(月)9(火)合併号 どちらも快晴

 遂にじょんのび村にも熊が出現した。時刻は午後6時35分、恒例の綾部温泉に行こうとして車を出し、忘れ物に気づいて家の中に入っているときだった。玄関先で待っているかみさんが「クマ、クマ」と言って、家の中に入ってきた。どうやら玄関の所の坂を上がってきたらしい。
 すかさずカメラを持って様子を見るが、家のどちらに行ったかわからない。店側のドアを出て見渡すが何も居ない。庭に出て周囲を見ていると、隣の上田さんの裏藪を登って行く黒い姿が見える。さほど大きくないが、小熊ではない。シャッターを切る暇が無い、残念、写せればじょんのび動物図鑑の仕上げになるんだが、、、。
 かみさんが興奮するのでじょんも興奮しまくってるが、いったい何が起こっているのかはわかってないだろう。
 かみさんは興奮しまくってるので、警察に目撃情報を電話する。さて目撃するとどこに電話したら良いのかわからない。でも駐在さんと地域には連絡しておきますと言うことだったからそれで良かったみたい。オフトーク(有線放送)で流されるようだけど、我が家は加入していないのでわからない。P1040812

 


シャッターを押したときには熊の姿はなかった。隣家の右手の斜面を登っていった後だった。

その日は予定通り綾部温泉に入って早く寝る。
「まだ足が震えてるで、、」かみさんはよほどショックだったみたい。
 さて一夜明けて、熊ゴローの足跡を探す。かみさんの目撃談では、熊は波多野さんと水嶋さんの間の空き地から府道を渡って、我が家の玄関方面に上がってきたそうだ。その後店横の南京ハゼの林を抜けて行ったらしい。
 見つけたときには隣家の山の斜面を登っていたのでその間の行動は不明である。
なにか痕跡はないかと探し回るのだが、らしきものは見つからない。ところがじょんはさすがである。ドッグランどのネットの付近、ちょうど長寿桜やタニウツギを植えた辺りをクンクン嗅いでいる。嗅いでいるたっていつもの嗅ぎ方ではないのだ。尻尾下げて、腰は引けて執拗に嗅いでいる。
 こりゃあなにかあるなっとばかりに観察すると一目瞭然、ネットは大きく内側に移動し、紐で留めてあった部分は三個所が破けている。そしてそこから5mほど西のタニウツギの囲いが倒れ、枝が1本折れていた。P1040814
P1040815
P1040816
P1040819




じょんの探索の様子、足跡も獣毛も爪痕も残していないのだが、強烈な臭いを残しているようだ。


 どうやら熊ゴロー君庭を横切って山に逃げようとドッグランどのネットに気づかず飛び込んだようだ。そこでネットに遮られ、西に移動してタニウツギの所から元に戻り、谷を飛び越えて隣家の裏山に逃げ込んだようだ。
 近所の畑では夏野菜を始めトウモロコシもできはじめている。見たり聞いたりしたところ被害もなさそうで、どうやら迷って出てきたみたいだ。人間に出会ったのはかみさんだけで、それでパニックになってネットに飛び込み、余計パニクって山に逃げ込んだみたいだ。熊ゴローにとっては一番怖がっているかみさんが、一番怖かったのだと思う。P1040817



手前の支柱の左の隙間から飛び込み、ネットに遮られ左に移動し次の支柱の先から戻ったと思える。白い板は一部汚れがあるだけで傷んでないので、隙間に入る小型の熊のようだ。

 それにしても熊だけは人ごとと思っていたのだが、遂に来るものが来たかという複雑な想いだ。

【作業日誌 7/9】
ドッグランどネット修理、デッキ部分金網張り終了。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯盛山(9) 飯盛山西光密寺(1) 7/7

2013-07-07 | 飯盛山

2013.7.7(日)曇り、雨 飯盛山(8)は2013.4.22

 南丹市八木町の南丹病院に歯科治療に通い始めて二ヶ月あまり、燃料費と片道一時間の通院時間を有効に活かそうとした試みが、京都帝釈天での盃状穴探しであった。結果、京都帝釈天の参道石灯籠と鳥羽の八幡神社鳥居石段と手水鉢に盃状穴を発見した。盃状穴はともかく、この地は歴史的にも地名の関係でも奥深いものを感じさせる。氷室の郷氷所(ひどころ)、日置(ひおき)、園部町の小山別所(現在はこの地名はない)、八木町船枝六ロ谷など探索したい地名が目白押しだと感じていた矢先に「飯の山の秘密」(岩田朱美著)に八木町美里の飯盛山西光密寺の記事を見つけた。
 このことは少なからず衝撃であった。課題にしている地名は、引地、日置、別所、生守などであり、金属に関連するところが多い。それに偶然に調べ始めた盃状穴の存在地などを追っていると、ほとんどの場合飯盛山に突き当たるのだ。生守(いもり)は飯盛と同様だから当然としても、後の事柄は今のところなぜだか断言できない。
 ただかすかな想像はすることが出来る。例えば別所は国分寺などを造営する際に金属製品を生産したり加工したりする工房のある地域を呼んだということが考えられる。飯盛山は国分寺などを作る際の測量に関係しているとされる。引地、日置なども測量に関連する地名だとすれば、つじつまは合ってくる。
P1040791P1040776




2013.7.2訪問、唐風の山門を入ると最奥に本堂がある。


 「飯の山の秘密」にある西光寺の記事は次の通りである。

 平安京の西側、京都府八木にある飯盛山西光密寺は、奈良時代、聖武天皇の時に開基され、その裏山は、平安時代以降は、御所と鏡で通信した場所であったと伝承されている。御所を中心に平安京を東西に分けた時、西の境界になる場所だったので、西光寺と呼ばれたという。聖武天皇の時代に開基されたという事は、奈良の平城京時代からこの場所に飯盛山があって、後に平安京に遷都が行われた後に鏡通信の場になったという事だろうか。(以下略227ページ)つづく

【作業日誌 7/7】
河牟奈備神社草刈り

【今日のじょん】日に日に鹿の侵入が激しくなっている。侵入といっても法面を登っているだけで、何の被害もないのだから不思議である。以前には桜の幹を囓ったり、ツタの葉を食べたり、植木の被害もあったのだけど今は食が足りているのだろうか。それにしても法面を登って次にどこに向かってるのかわからない。そのまま奥に入っている様子もないし、登ってまた下りているとしか思えない。単に遊んでいるだけなのだろうか。もっと不思議なのは足跡ははっきりしているのだがじょんが知らんぷりしているのだ。写真では興味ありげに写しているのだが、実はあまり興味ないみたい。猿などには強烈に反応するんだが、、、、。P1040806
P1040805

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご存じ じょんのびハイキング ’13.夏

2013-07-06 | 山・峠

2013.7.6(土)曇り、にわか雨

 ドッグランどが完成するまで山登りも自転車も御法度としていたら、桜井さんが業を煮やしてハイキングプランを持ってこられた。こうなると行かざるを得ないのだが、その頃にはドッグランどの目処も付いてるか。
てなわけで、じょんのびハイキングとして案内いたします。

行き先:シデ山・大栗峠

登山日:2013.7.26(金)
     雨天の場合は7.28日(日)

ルート:登山口(かみおりと)~みとの広場~シデ山~大栗峠~弓削道~弓削

集合:鳥垣小野田橋 9:00
    ※登り口下り口が違いますので、メンバー決まり次第調整します。

持ち物:弁当、飲み物(沢山)、雨具

服装:長袖、長ズボン、帽子、登山靴トレッキングシューズ

※傷害保険等は加入していません、事故等はすべて自己責任となります。

詳細のパンフをじょんのびに用意しています。申し込みお問い合わせは

0773-21-4632 カフェじょんのび まで。
P1010930P1010941




昨年6月のみとからの展望、今年はもっといい景色になってるぞ。大栗峠のお地蔵様も待ってるぞ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上林の盃状穴(32) 番外編 7/5

2013-07-06 | 歴史・民俗

2013.7.5(金)   京都帝釈天(16)八木町鳥羽の八幡神社

 考察の続き
 石段の盃状穴と手水鉢の盃状穴の大きさや形状の違いは確かにあるようだが、その理由はわからない。そこで少し考えてみた。
(1)石材の質の違い
 手水鉢は真ん中をくりぬいて水溜にするわけだから、柔らかい石質なのではないだろうか。逆に石段は人の通行に耐えなければならないので比較的硬い材質の石だと考えると、盃状穴の大きさや深さに必然的に差が出ると思われる。


(2)石段は歩行の障害にならないような大きさに穿つという暗黙のルールがあったのではないか。
 盃状穴の穿孔が社会的に認知された行為であったとしても、歩行する石段に大きく深い穴をあけることは危険である。これを規制する暗黙のルールがあっても不思議ではない。ただ、石段の盃状穴の位置は歩行の安全性などを考慮しているとは思えない。小さな穴なら問題ないとされていたのだろうか。

(3)二義的盃状穴の目的は、神仏に対する祈願だろうと考えてきた。
石に穴を穿つ行為は実は大変なことで、労力も時間もかかるものである。従ってかなり強い祈願ではないかと考えられる。単なるおまじない程度で穿たれるものではないのだ。
 盃状穴がおおっぴらな場所で行われていることから、呪詛、呪いの意味は無いだろうと考えていたが、この手水鉢のすさまじい盃状穴を見ていると呪いの意味があるのかもしれないと思ってしまう。ただこれは想像というか感覚的なもので、科学的合理的な根拠があるものではない。
P1040755P1040763



同じ境内の盃状穴といってもこの違いは何だろう。おなじシチュエイションで穿たれたとは思えない。

(4)手水鉢に盃状穴を穿つことは、雨乞い、水乞いの意味があったのではないだろうか。
 今回のもそうだが、各地の手水鉢の盃状穴を資料で見ると、石段などに穿たれたものに比して異様に大きく、深く、手水鉢の縁を余すところなく穿っている。想像するに、多くの人数、それも男手で一気に穿ったのではないだろうか。手水鉢が水を溜めるものであり、竜頭などは水を供給するものであるから、ここに盃状穴を穿つ行為は干ばつ時の雨乞い、水乞いの神事として行われたのではないだろうか。
P1040554



普段はこのように豊かな水に満たされている手水鉢も干ばつ時には干上がっているだろう。その縁に祈りを込めて盃状穴を穿つ行為はあり得ることではないだろうか。(京都帝釈天の手水鉢)

さすればそれは個人的な祈願ではなくて、村中の行事となるから多くの村人が一気に穿ったことが窺える。そして干ばつのたびに穿つのでやがて穴は大きくなり、手水鉢の縁が破損するまでになってきたのではないだろうか。しかしそこまで公の行事となったら何らかの文献に残っていても良さそうである。

 なぜこの地を通ったかと言えば、船井の語源かとも言われる船居があったのなら、桂川と園部川が合した少し下流が最適の地だと思い、もちろん川の様子は変わっているだろうが見てみたいという欲求があったからである。吉富小学校の裏手になる堤防に上がると、両河川合流地点からゆったりとした川の流れが見渡せる。古代からの船の停泊地として絶好のところではないか。
P1040752P1040773

 


吉富小学校裏の鳥羽の河川と鳥羽宿入り口の看板。


 そんなことを考えながら北上すると、鳥羽宿の案内板があった。少なくとも江戸時代には丹波船運の中継地点であり、山陰道の宿でもあったわけだ。

【今日のじょん】所用があってサーキさん宅にお邪魔する。風邪だの腰痛だのって家中弱ってらっしゃるのにワンニャンだけは元気良さそうだ。ハナコは元気よく飛びつくもんだから、帰ってからじょんが嗅いで大変だこと。P1040804

ハナちゃんは元気いっぱい

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上林の盃状穴(31)番外編 7/4

2013-07-04 | 歴史・民俗

2013.7.4(木)雨 京都帝釈天(15)

 八幡神社問題の手水鉢は本殿前石段左下の木の陰にそっと置かれている。縦70cm、横42cm程度の小降りのもので、その水鉢の縁に所狭しと穿たれている。
手水鉢の縁に穿たれている盃状穴はインターネット上の画像ではよくみるが、実物を見たのは初めてである。手持ちの資料では栗東市の泊瀬部神社の手水鉢の盃状穴が最も近く、そのうち行ってみようかなと思っていたところなので、ここで現物を見つけるというのは実は大感激なのである。しかも行く予定のなかった神社で見つかったのでなおさらである。
P1040761P1040762P1040751



手水鉢は割合小ぶりのものであり、正面に亨保七寅年の銘が見える。

 この手水鉢には亨保七寅年の銘があり、本殿前の二基の石灯籠も亨保七年寅年九月吉祥日(1722年)の銘があるので、同時に整備されたものと考えられる。
ところが石灯籠はじめ、本殿の周囲には盃状穴らしきものは一切見当たらず、手水鉢だけに強烈な盃状穴があることに違和感を憶える。しかし年代は同一なので、手水鉢だけが他から持ち込まれたという風にも考えられない。
 手水鉢の盃状穴は鉢の縁に沿ってびっしりと穿たれており、半分は苔に覆われている。苔を落とさなくても大きさや個数はわかるので、残しておくことにした。直径は大きなものが8~9cmで3個あり、個数は合計で約28個である。
 結局八幡神社の盃状穴は鳥居下石段と手水鉢のもの以外には見つからなかった。
P1040767P1040769



本殿前には手水鉢と同じ年号が入っている。
本殿の周囲、摂社、石垣には盃状穴は見つからない。




考察

 京都帝釈天の参道石灯籠に盃状穴を見つけ、この地に盃状穴を穿つ風習があったものと考え久留守神社、船井神社を訪れたが発見できなかった。次に訪れた荒井神社、西光寺にも発見できなかったので、八幡神社で発見できた意義は大きい。広く一般的な風習ではなくても、この船井の地に盃状穴を穿つ行為が認められていたものと考えて良い。もちろん石造物の年代から、これらは二義的盃状穴であり、近世末以降のものと考えられる。
 穿孔行為が周囲に認められていたと考えるのは、どちらの盃状穴も住居の密集した地域にあるということだ。あれだけの数と大きさの盃状穴を穿つのは人目を避けて行うのは不可能であろうし、ましてや子供のいたずらなら大人がとがめるだろうから、やはり認知された、あるいは黙認された行為であろうと考える。
 それにしても石段に穿たれた盃状穴に比し、手水鉢のものはなぜもこう異様な大きさと形になっているのだろう。文献や資料でみるものも同様で、ここ八幡神社に限ったことではない。つづく

【作業日誌 7/4】
梅干しのシソ入れ完了P1040797



手前の瓶にしそを入れて完了、次は土用干しだ。

【今日のじょん】この地方ではやっと梅雨らしい天気となってきた。田んぼや畑にとってはやれやれというところだが、各地では水害のニュースも聞かれている。全く思うように行かないものだ。湿度がぐんと上がって身体に応える。じょんも今日はこの通り、、、。P1040800ウラメシじょん。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上林の盃状穴(30)番外編 7/3

2013-07-03 | 歴史・民俗

2013.7.3(水)雨 京都帝釈天(14)、(13)は2013.6.29

 7月2日(火)に南丹市八木町の八幡神社、荒井神社、西光寺を訪れる。
南丹病院の歯科治療も終盤に近づいてきた、この日が終わるとあと二回の治療となる。遠い病院での治療は大変だが、ついでにと行ってみた京都帝釈天からこの地への興味が拡がってきた。それは近辺に別所、飯盛山、日置など研究中の地名が存在したからであるが、帝釈天の石灯籠に多くの盃状穴を見つけた事もある。
 久留守神社、船井神社に盃状穴は無くて少し気落ちしていたのだが、式内社嶋物部神社に比定されている荒井神社、鏡通信の伝承があるという飯盛山西光寺は盃状穴に関係なく行ってみるべしと思っていた。
 南丹病院から桂川右岸沿いの府道を北上する。吉富小学校の前を通り過ぎたとき八幡山の麓に鳥居が見える。予定にはないのだが何かありそうな気がしてUターンして、鳥居の前に駐車する。どうやら八幡神社というらしい。
P1040760



 カメラだけ持って、鳥居の石段を観察すると、あるある、きれいな盃状穴がいくつか。あわてて盃状穴三種の神器や取材ノートを持ち出して観察する。鳥居下石段は4段あり、はっきりしたものは3個、不鮮明なものはいくつかある。
2段目 2個、大きい方で直径6cm、小さい方が4cm
4段目 1個  直径4cm
P1040755
P1040756

 


 石段脇の欄干状スロープの最下段の留石(何というのかわからない)に不鮮明だが
窪みがある。盃状穴でないことは確かだが、何となく人工のもののようだ。本殿には石灯籠があるが、鳥居前には無いので灯りの蝋燭立てかもしれない。特に左のものは底部が黒く変色しており、炭化しているようにも見える。
P1040757
右の石


P1040759
左の石、炭化跡か。

 石段の盃状穴に気をよくして、本殿周囲もしっかりと観察する。ところが予想に反して灯籠にも石段にも境内社周辺にも、周囲の石垣や捨てられた石材にも見当たらない。そして本殿前石段左の木の陰になっている手水鉢を見てびっくり、本やインターネットの画像でしかお目にかかれなかった手水鉢縁のなんとも立派というか不気味な感のする盃状穴のオンパレードにお目にかかった。つづく
P1040764

手水鉢は木の陰(榊?)に隠れている。



【作業日誌 7/3】
梅干しシソ入れ、3Kg分

【今日のじょん】おとーは二日酔いでぐったりきているんだが、?んでないじょんまでぐったり寝ている。以心伝心わかるんかなあ。
P1040799P1040798



こらっ起きて仕事せんかい。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続々・玉虫のポスト

2013-07-03 | 違いのわからん農学士

2013.7.2(火)曇り

  前置きが長くて本論に入れなかったのだが、いよいよ本日が本論である。
6月30日の朝、散歩から帰ってふと玄関のポスト(郵便受箱)の台木を見ると、緑に光る物体がくっついている。近づいてよく見ると、タマムシが穴から這い出そうとして頭を出しているところだ。この木に卵を産み付けていたのかと、台木を見るとなんといくつもの穴が開いている。こうやって成虫となったタマムシが出てくるんだ、生まれて始めてみる光景でもあり感激する。
P1040736P1040738


 


穴から出かけのタマムシ、ポストの台は穴だらけ。

  完全に出てくるまで見ていたいのだが、そういうわけにもいかず時々様子を見に行くのだが、どうも同じ状態でいるようだ。きつくて出てこられないのかなと思い、引っ張り出してやることにする。ちぎれないようにそっと引っ張ると、ぽろりと折れてしまった。どうやら穴から出られなくて死んでしまって、時間がたっているようだ。内臓はからからになっていた。ナムアミダブツ。
 とそのとき、別の穴から出てきたタマムシが地面に落ちてきた。穴から出てくるところは見ていなくて残念だったが、数秒間バタバタしていたのがやがてブーンと飛び立っていった。まごまごしていると天敵の鳥に食べられてしまうのだろう、長い間芋虫のような姿でいたものが一瞬にして空中を飛び回るのだからこれまた感激ものである。
P1040740P1040742




地上に落ちたタマムシはちょっと練習して、やがて飛び立った。


 調べてみるとタマムシの幼虫は3年間木の中で過ごすという。このポストの台木は引地谷で伐採された大木をもらってきたもので、丁度3年前ぐらいだと思う。ほとんどは割って薪となり、もう既に燃えてしまった。姿のいい二股部分を何かに使おうと置いておき、ポストの台になったというわけだ。
 榎木の下に置いていたので、おそらくそこで産卵したのだろう、3年たって木から出てきたものらしい。
 醜い虫なら大切なポストの台に穴を開けられたことが腹立たしいところだが、タマムシなら「自然のことだからまあいいか」と許せるところがこれまた人間の身勝手ということか。
P1040739

ポストの台はタマムシのお宿

P1010316

というわけで玉虫のポストと呼ぶことにした。

P1040660

6月21日タマムシがポストの屋根に留まっていたわけがわかった。

【今日のじょん】おとーとおかーはじっかんさんとこにバーベキューによばれてじょんはお留守番。ルル君は随分落ち着いてよい子ちゃんになっておりやした。P1040795
P1040796

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・玉虫のポスト 7/1

2013-07-01 | 違いのわからん農学士

2013.7.1(月)晴れ

 そんなわけでいろんな要素で虫が大量発生するのだから、じたばたする必要も無い、淡々と対処をすればいいわけだ。ただ、初めて大量発生に遭遇したときはかなりの衝撃を受ける。虫に占領されてこの世が終わってしまうのではと悲観してしまう。(ちょっと大袈裟か)それでも正しく対処が出来れば、後は怖くない。Img_2749

 



2009年はスジキリヨトウの大発生、ピンセットでつまんでいたら数分でこんなもの。
Img_1271



これが芝の先に生み付けられた卵、白いのですぐにわかる。

  例えば芝に大発生するスジキリヨトウだが、異常に発生してしまえば、スミチオンしかない。スミチオンでなくてもいいのだが、要するに殺虫剤でいいわけだ。しかし肝心なことは大発生する前に処置することで、夜の間に生み付けられた卵を朝摘み取ることである。芝の先に白い卵が付いているのですぐにわかる。見たところ数十匹から数百匹の幼虫がふ化しそうだ。多いときでは毎朝3,40本を摘むことが出来るから、1本に100匹いるとしても、3,000匹を駆除できるわけだ。これはスミチオンよりも効果有りだ。
 話が害虫のことになってしまったが、そもそも害虫も益虫も人間の都合だけである。彼らは単に生き延びるために食物を食べ、子孫を増やしているだけだ。その行為が人間にとって害になるか益になるかだけのことである。そう考えると虫たちに対する嫌悪、憎悪もそうことさらにつのらせることもないかと思われる。
 そんな中でなんとなく嬉しい虫の、新しい発見があった。それはタマムシである。
タマムシは例年木小屋の周辺に沢山発生し、多い日にはぶんぶん飛び回り、服や帽子にも留まってくる。これが気味悪い虫だと大騒ぎになるのだが、きれいな虫だから心地よく感じるのだ。人間って随分身勝手な生き物なんだ。
Img_2815Img_2816Img_2821



嬉しくって写真撮りまくったら、キリが無い。(2009.8)

 タマムシは数が減ってきている昆虫だそうだ。エノキの葉を食するそうで、コナラなどの枯れ木に産卵すると聞いた。だとすると我が家の木小屋周辺はナラやクヌギの薪が山積みで、大きな榎木があるので最適の環境となる。つづく

【作業日誌  7/1】
ドッグランど、ベランダ柵のネット張り

【今日のじょん】じょんはおねだりじょうず。
じょんは自分のご飯をさっさと食べて、私たちの食事をちょっとずつもらう。「もう終わり」というと、思い切りくっついてお座りする。「しゃーないなあ、これで終わりやで」となるといったん小屋に帰るのだが、すぐに出てきてあごのせじょんをする。
 あごのせじょんはじょん語録でも紹介済みだが、こういう使い方があったのか。「しゃーないなあ」と相成るわけだが、なかなかのおねだりじょうーずだ。P1040748
P1040749


これに参るのよネ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする