hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

『久我山歳時記』(57)〜雨水の春の兆し

2025-02-18 05:00:00 | 日記
『久我山歳時記』(57)、前回の歳時記は1月19日の大寒、その後『立春』を越えていよいよ暦上での春とはなったが、かえって寒くなった日が続いた。

ようやくここ数日は日中は15℃ほどとかなり暖かい日もあり、いよいよ2月17日は『雨水』となる。

雨水とは『空から降るものが雪から雨に変わり、雪が溶け始める頃』を言う。また、雨水直前の朔日が旧正月(春節)であり、旧正月の日付を決める基準である。

七十二侯では『土脉潤起(つちのしょううるおいおこる・〜2月23日)』『霞始靆(かすみはじめてたなびく・〜2月28日)』、『草木萌動(そうもくめばえいずる・〜3月4日)』と大きく変わっていく時期なのである。土が雨により潤い、冬眠をしていた動物が起きる頃、霞やもやのため山野の風景が変わる頃、そして芽吹きが見られる頃を現している。



久我山界隈もようやく梅の花がほころび、花びらは白も紅も色が鮮やかになりつつある。最も早咲きの梅の木は倒れてしまったが、古木になっても花を付けるのが良いところ、いずれも可愛らしい。

京王電鉄の富士見ヶ丘検車区には野草が咲いているが、まだ土筆の姿は見ることが出来なかった。咲いていたのはかたばみの黄色の花とオオイヌフグリの青くて小さい花。
(カタパミ)

(オオイヌフグリ)
しかし、スズメノエンドウやホトケノザ、ノゲシも芽を出していてもう時期小さな花を付けるまできていた。

(スズメノエンドウ)


(ホトケノザ)


路地で咲いているのはスイセンとクリスマスローズ。白い花に続いて紫色の花も蕾が大きくなっていた。



ネコヤナギの仲間の芽は大きくなってきて、葉になるのももう時間の問題である。まだ、久我山けやき通りの欅は裸のままだが、芽吹きが始まると美しい季節が始まる。



ただ、そんな春の息吹も今日までで18日は寒波襲来。これを過ぎれば再び春への道を歩み、次の啓蟄(3月5日)となっていくのだろう。




『東海七福神と旧東海道を巡る』⑤〜鮫洲、立会川辺り

2025-02-17 05:00:00 | 宿場町
『東海七福神と旧東海道を巡る』⑤。再び旧東海道に戻り、先を急ぐ。青物横丁を越えると急に寂しくなってくる。

途中の都道420号線(通称環状6.5号線)を右に曲がると鮫洲運動公園、埋立地にある公園としては珍しく真ん中に小山が作られていて小さな子供から小学生程度の子供たちが盛んに遊んでいる。

他には鮫洲付近も白玉稲荷神社があるくらい。コンクリートの壁に囲まれたこじんまりとした稲荷社。元は清伝寺という廃仏毀釈で廃寺となったお寺の境内にあったが、この稲荷社のみが残っている。



青物横丁あたりまでは東海道と書いた街灯が左右にあったが、鮫洲に入るとこれもなくなる。普通の商店街同様の『鮫洲商店街』という暗い小さな街灯のみ、旧街道のイメージは全くなくなる。



街道から少し奥にあるのが『鮫洲八幡神社』、緑の屋根が路地の奥に一部見える。旧御林町の総鎮守で江戸時代に創建されたようである。1929年に合祀され、白山神社、稲荷・漁呉玉・厳島・鮫祠神社の末社も鎮座している。

ただ、それまでの観光仕様と違い、住民御用達の居酒屋や角打ち、町中華の店などが点在している。



立会川が近くなると街道沿いに古い商家が並んでいて、皆現役。店の前にAmazonの段ボールが積まれているのが今昔取り混ぜた風景でこれも面白い。



また、渋い大きめのお蕎麦屋『立会川吉田家』が出てくる。広めの駐車場も完備していて興味がある。ただ、この日は営業時間外で中に入ることは出来なかった。





立会川(河川)に架かる橋が浜川橋、別名なみだ橋である。涙橋と呼ばれているのは江戸時代にこの先にある鈴ヶ森刑場で処刑をされる罪人がはだか馬に乗せられ、江戸から護送された。その際に密かに親族がその姿を一目みんと見送りに来て、橋の袂で涙を流して見送ったことから付けられた悲しい歴史を持つ名前である。



橋を渡るとすぐ右手に鎮守天祖神社という石柱が現れた。ここに東海七福神6番目、福禄寿が祀られている。

参道を行くと『天祖諏訪神社』となる。天祖神社・諏訪神社は古くはそれぞれ神明宮・諏訪社と称していた。

ここはかつては東京湾に面していて、立会川を挟んで並び祀られていたのである。この2つの社を1965年に合祀したものである。(この地は元は天祖神社のあった場所である。)天祖神社は12世紀、諏訪神社は1631年頃の創建と言われている。(以下、次回)


備前府中焼きをアンテナショップで頂く

2025-02-16 05:00:00 | グルメ
『備後府中市』と言っても正確な場所がわかる人は中々いない。

広島県東部、尾道市と福山市の北側に隣接する内陸部にある自治体で神田小川町にアンテナショップを開いている。

私はアンテナショップの中にあるnekiという店で食べさせてくれる『備前府中焼き』と名付けられたお好み焼きが好物である。

広島お好み焼きの一形態と言ってしまうとその通りだが、薄い生地の上にこれでもかという程の千切りキャベツを乗せ、さらにミンチ肉や玉子、ネギなどを飾り、さらに焼きそばを乗せ、生地を少々ひっくり返して焼きそばがカリカリに焼くお好み焼きである。広島風お好み焼きはよく食べるが、こちらのは厚みがあまりなく、ソースの味もあるかも知れないがややあっさりとしている。

夜の部に来るのは初めてだが、6人ほど入れるテーブルはほぼ予約済、私は入口横の2人席に案内された。



まずはつまみとメニューを見ると『とん平焼き』『鶏皮焼き』『ホルモン焼き』など色々あるが、さっぱりと『せせり焼き』(880円)を注文。タレと大葉塩があるが、タレにした。飲み物はグラスビール、こちらはすぐに到着。

ボーとテレビのニュースを見ていたらその日の昼に食べに行った『わかい』という家族経営でやっているラーメン屋さんの取材をしたグルメレポートをやっていてびっくりする。

その間にせせり焼き到着、せせりを焼いてタレをかけたもの。下に敷いたキャベツと共に食べるが、いい味付けでビールを飲み干した。



お好み焼きは悩んだが、『あぶりねぎマヨ焼き』(1430円)にした。飲み物は『瀬戸内レモンハイボール』、レモンが爽やかでついつい飲んでしまう。

お好み焼きは少し時間がかかるため、最初に頼んだが、いいタイミングてわ焼き上がる。鉄板に乗って供されたが、かなり熱々。

ヘラで周りから切り、少しずつ頂く。味はたっぷりのキャベツのおかげでさっぱり、上に乗った焼きそばがカリカリ、さらに焦がしマヨネーズも香ばしい。ハイボールとの相性も抜群。

半分くらい食べてから一味を振って味変する。

一味唐辛子で辛くするのが広島風、さらに食欲も増し、もちろん完食。わざわざ食べに来る価値のあるお好み焼きである。ご馳走さまでした。

広島県府中市アンテナショップNEKI
千代田区神田小川町1ー3ー1
0368117980


『東京メトロスタンプラリー〜20年ありがとう』②

2025-02-15 05:00:00 | 鉄道
『鉄道シリーズ』その259。『東京メトロスタンプラリー〜20年ありがとう』②。茗荷谷駅から丸の内線で池袋駅に出て、有楽町線に乗換駅東池袋駅に向かう。


有楽町線への乗換えは一旦改札口を出て東武東上線の方に行く。通路が増えたこともあり、乗換えはスムーズ。東池袋駅は2つ改札口があるが、ほぼその中間にスタンプ台は置かれていた。



スタンプのデザインは7000系、有楽町線は1974年10月30日に開業、当時は池袋〜銀座一丁目間であった。私の自宅は護国寺駅から5分のところにあったため、この開業で飛躍的に便利になったことを覚えている。



この7000系は開業と同時に共用された新型車両で有楽町線のカラーであるゴールドが使われていて2022年4月まで使われていた。当時は6000系の千代田線車両、7000系の有楽町線車両、8000系の半蔵門線車両がフォルムがよく似ており、ただ地下鉄のラインカラーを見れば一目でどの線か分かったことを思い出す。

次はそのまま25分有楽町線に乗り続けて豊洲駅で下車する。1988年に有楽町線が新富町〜新木場の延伸を果たした際に開業、2000年頃は年間利用者が5万人程度であったが、2006年頃より急に増加、現在では20万人が利用する駅となった。

この利用客増加に伴い、ホームが手狭となったため、本来は折り返しを想定した2線4ホームであった構造を2、3番線の使用を停止、実質的にホームとして利用している。

スタンプのデザインは有楽町線10000系車両である。元は2008年開業の副都心線運行増に対応すべく作られた車両で、最初に有楽町線に投入、その後副都心線にも使われている。

有楽町線では全て10両編成(副都心線などは一部8両編成で利用)で運行されている。そのため、有楽町線のカラーであるゴールドは使われず、副都心線のブラウンを採用している。なお、2007年度グッドデザイン賞を受賞している。(以下、次回)

来福亭〜老舗洋食屋さんの2階でオムライスを頂く

2025-02-14 05:00:00 | グルメ
春節の影響でもないが、人形町のランチの混み具合が激しい。いろいろな店を巡っているが、11時半オープンのタイミングでも列ができている店が増えていて中々入れない。ところが、今日に限って『来福亭』の前に人がいない。

このお店は創業1904年だからかれこれ120年以上に歴史のある洋食屋さん。かと言って敷居が高い店ではなく、お店の方もフランク。最近立て直したH亭のようにランチの値段とは思えないなんということもない。料理でも一番高いポークソテーが1400円、カキライス(フライ)やホタテライス(フライ)も1300円と庶民派である。

11時半の開店時間は過ぎているのを確認、引き戸を開けると1階は2組いて満席、しかし、お姉さんに『おひとり様ですか、2階左側のお部屋にどうぞ』と言われて靴を脱いで友達の下宿のような階段を上がると6畳と8畳の和室が2間、まだ誰もいない。



言われた通りに左側の6畳の方に行き、奥に腰掛ける。畳敷に座布団で足にきそうと思ったが、後ろに壁もあり、まあ何とかなりそうである。

机の上にはメニュー、調味料はウスターソース、溶き辛子、塩胡椒、爪楊枝が乗っているのみ。すぐに先ほどのお姉さんが階段を上がり、お茶を持って来てくれる。
すぐに『オムライスと小メンチカツ』(1100円)をお願いした。



お姉さんが階下に降りると部屋はガランとして1人だけ取り残された感が漂う。しかし、5分ほどで2人客が階段を登って来てもう一つの8畳へ。2人はかなり悩んでいたが、ポークソテーライスを注文。静かだから聞き耳を立てずとも聞こえてしまう。さらにお爺さんが1人、彼も8畳の部屋に入り、ポークソテーを注文。

待つことしばし、私の注文の品が到着。ワンプレートにオムライスと小メンチカツが乗っている。お姉さんが『ウスターソース、辛子がありますのでお使い下さい』と教えてくれた。

まずは調味料を準備、さらにオムライスを2つに割るとうまそうなケチャップライス。具は玉ねぎ、マッシュルーム、グリンピース、鶏肉とオーソドクス。

やや米が柔らかめではあるが、懐かしの昭和レトロ。いや、明治レトロかもしれない味、こういう味は昔から皆んなすきなんだなあ。もちろん私も大好きである。

作りたてだから熱い、少しずつ崩しながら頂く。鶏を中心に具材も多い。

メンチカツはウスターソースがよく合う。少量の刻みキャベツを大切に頂きながら、メンチカツを一口。初めから3つに切り分けてあり、食べやすい。中々肉肉しく、しっかりしていて美味い。

昔、この部屋でどんな会話が交わされたのだろうか。芸者といい仲になった成金が洋食をご馳走すると言った風情も感じられる2階だった。何しろ狭い店だから入れたらラッキー、でも前回頂いたカツ丼、今回のオムライス、いずれも一級品の味であった。ご馳走様でした。



来福亭
中央区日本橋人形町1ー17ー10
0336663895

東海七福神と旧東海道を巡る④

2025-02-13 05:00:00 | 宿場町
『東海七福神と旧東海道を巡る』④、小学校を過ぎると右手に諏訪神社が現れた。由緒によると天妙国寺の開基・天目が信州諏訪神社に勧進し、13世紀に創建されたと言われている。旧東海道からは細い参道を歩くと現れた。



この辺りが青物横丁、元は南品川宿から池上道に続く横町で妙国寺の門前町であった。

江戸時代から大きな八百屋が軒を連ね、俗称『青物横町』、その後1878年に品川青物市場として認可された。駅の名前と町の名前が違うが、開業時(1904年)は青物横町駅であった。



ちなみに今の駅名となった時期はわからないが、横丁とつく駅名は日本唯一である。街には昔のイラストなども飾られていて、駅が愛されているのがよく分かる。



品川寺(ほんせんじ)は東海七福神の毘沙門天、さらに門前にある大きな地蔵菩薩は江戸六地蔵の第一番にあたる。立派な山門手前に大きな地蔵菩薩銅像が鎮座していてこれは1708年に作られたものである。



大きなイチョウの木、さらに境内の左側には七福神が飾られていて住職に『こちらは布袋様ですか』と聞いたら、『いや毘沙門天でこちらにあります』と言われた。ただ、普段は本堂に安置されているが、1月はこちらに移されるとのこと。



梵鐘は四代将軍家綱の寄進とされているが、幕末に海外流出し、バリ万博やウィーン万博に展示されていた。しかし不明になり、1919年にスイスジュネーブ市のアリアナ美術館に所属されていることがわかり、交渉の結果、1930年に返還された。その後も品川区とジュネーブ市の交流は続き、友好都市となっている。

門前、出たところに釜屋跡がある。品川宿は旅立つ人を送りに来る人が宴席をしたり、参勤交代の大名が旅装束から江戸屋敷に入る支度をするなどを行う茶屋が賑わった。品川寺の前の釜屋は幕府御用宿として多くの幕臣が利用した記録も残されている。(以下、次回)




とりカツ丼次郎〜人形町ランチグルメ

2025-02-12 05:00:00 | グルメ
寒い日が続いている。ランチに行こうと外に出ると思いの外寒い。こういう日は暖かくなるもの→担々麺と安直に考えた。ただ、少し時間が早かったので少し離れた店を目指す。

『天秤棒』は今までに1回だけお邪魔したことがあるが、開店直後ということもあり、落ち着いたかな?と思い5分ほど歩いて行く。実はこの店の前は『丈参』という好みの焼き鳥屋で特にシロモツが美味かったのである。

しかし、店に着くと様子が違う。『天秤棒』という看板の下に『とりかつ丼次郎』という垂れ幕、潰れたかな?と思ったが、取り敢えず入店してみた。



すると鳥カツ丼単品勝負の店になっていて、シングル(カツ4枚)1200円を注文した。店は居抜きで全く変わっていないが、先客はおじさん1人。寂しい感じ、店の人も若い女性が手持ち無沙汰そうに接客している。



待つこと7分ほど、私しか客がいない割には時間がかかる。出でくる丼は蓋が直立のままサーブされる。

中身は鳥カツが4枚並び上に卵黄、タルタルソースが囲んでいてレモンが添えてある。レモンを絞り食べるが、ややこしくなりそうなので卵黄をまず潰し、カツの上に掛ける。カツの下にはキャベツの千切り、ジャンクな鳥カツ丼である。

味はレモンの酸味がよく効いており、またササミカツのため、かなりあっさりとしている。カツを齧りながらご飯を木の匙で掬い、食べる。予想通りの味だが、悪くもない。きゅうりの漬物も添えられている。



汁物はわかめスープ、少し胡椒を掛けるなり、胡椒挽きを置くなり工夫が欲しい。味は普通であった。

ご飯の量からするとカツはこれで十分、ただ味変させるようか調味料を置いてもいいかな。店の女性に聞くとこの店は昨年10月に業態変更をしたが、運営は元の会社のまま、ランチのみがとりカツ丼、夜は中華料理を出しているとのこと。

なるほど、天秤棒の看板もあながち嘘ではないようだ。ご馳走さまでした。

とりカツ丼次郎
中央区日本橋人形町2ー5ー11
0338086505

『東京メトロスタンプラリー〜20年ありがとう』①

2025-02-11 05:00:00 | 鉄道
『鉄道シリーズ』その258。『東京メトロスタンプラリー〜20年ありがとう』①。1月末に東京メトロ半蔵門線の通路を歩いていたら、また見付けてしまった。

東京メトロ20周年を記念して20駅のスタンプラリーをはじめた、さらにそのうちな1駅に水天宮前駅が選ばれたことも縁とまた東京メトロに乗る羽目になったのである。

昨年、『東京メトロ全駅スタンプラリー』を完成したばかりで、さすがに我ながらよくやるとは思った。しかし、デジタルスタンプではなく、リアルスタンプラリー(実際にスタンプを台紙に押す)は久しぶりとすぐに台紙をもらった。(但し、台紙はスタンプラリー対象駅のみ配布中)

スタンプラリーの概要は9路線各1〜3駅に合計20個のスタンプが用意されているというもの。上がりは東西線葛西駅にある地下鉄博物館のスペシャルスタンプである。

駅の配置を考えるとかなり離れた駅もあり、慎重に選択、スタンプのデザインは各路線に使っていた名車両のスタンプである。

水天宮前駅のデザインは新しい18000系。2021年8月に8000系車両の乗換用車両として導入された。19編成190両が製造される予定、席の幅も狭かった8000系が1人あたり430mmであったのに対して18000系は480mmとかなりゆったり、特に端の2人で区切られた席は男性2人でも窮屈ではなくなった。
(全駅スタンプ)
問題はここをスタートにどの順番で回るかである。スタートは人形町駅、600円で一日乗車券を購入、日比谷線中目黒行に乗る。茅場町駅で東西線に乗換、高田馬場駅を目指す。乗っている時間は18分、JRへの乗換口近くにスタンプはある。



スタンプの意匠は営団5000系電車、この車両は1964年の開業以来使用され、2007年までは東西線、その後北綾瀬支線で2014年まで使われた。ベースとしたのはJR山手線などで使われていたJR103系電車であり、これをマイナーチェンジすることで設計代を抑えたものである。


(全駅スタンプ)

東西線を反対側に乗り換えて竹橋駅まで行く。竹橋駅は前と後ろに出口があるが、KKRに出る方に行くと改札口近くにスタンプがあった。



スタンプの意匠は営団05系、これは5000系の置き換えとして1988年から共用された車両で10編成430両が製造され、2004年に製造を終えている。現在では東西線で使われている車両では最も古いタイプとなる。


(全駅スタンプ) 

東西線で大手町駅まで行き、丸の内線に乗換えて茗荷谷駅で下車する。かつて利用していた駅だが、東京メトロでは後楽園駅、四ツ谷駅と共に最も古い地上駅。



ただ、私が利用していた頃と異なり、立派なビルに生まれ変わり、出口も拓殖大学などが便利なように小日向方面への出口もできた。今回のスタンプもこの改札口を出たところにあった。



スタンプの意匠は丸の内線2000系。丸の内線では最も新しい2021年に共用を開始した車両で前面が曲面となったユニークな『顔』をしている。


(全駅スタンプ)

また、前方のライトは300系の形状をモチーフとした鍵形を使用、またグローイング・スカーレット色の車体には開業当時から受け継がれてきたサインウェーブが配されている。(以下、次回)

魚と米〜横山町ランチグルメ

2025-02-10 05:00:00 | グルメ
横山町付近に魚料理を得意とするお店が幾つかあり、先日は『小伝馬』でお得な海鮮丼を頂いた。これに味を占め、今回は『魚と米』にお邪魔した。

この店は伝統ある魚一という割烹料理屋が閉店、しかし、これを惜しんだ今のオーナーが引継いだ。その際に元の看板を改造、魚と一の間に『と』を入れ、さらに『一』を『米』と少し書き足したとアド街で紹介していた。

入口にはその日のメニューが書かれていて売り切れになるとメニューの上に売切というシールが貼られるシステム。また、テイクアウトコーナーには弁当、しかしその下には生の良い太刀魚がならんでいた。


店に入るとまずは注文をおばさんに告げ、席に案内される。(お勘定は後払い)あまり悩む時間もなく、反射的にまぐろ丼(1300円)をお願いしてしまう。

2階に案内されると入口に水槽、中にはフグが泳いでいる。席は6人席が2つ並んだ隣(6人席)、左側には女性が12人座っていたが、彼女たちは全員『黄金アジフライ定食』(1300円)を食べているのだ。


このお店の目玉は釣りアジのようである。大きさはそれほどではないが、身が厚く、かなり旨そう。

少し待つとマグロ丼が到着、ご飯の上にびっしりと中トロ(?)のように脂の乗ったマグロの刺身が乗っている。

他には小鉢はマカロニサラダ、マグロの煮物、さらに味噌汁が付いてくる。小皿はないので上から醤油を掛けて、ワサビをつけながら食べ進める。

このマグロが美味い。一切れ口に入れると刺身がトロッと溶けて、熱いご飯との相性抜群。ついついかきこんでしまう。

マカロニサラダは単調な刺身には味が変わって有り難い存在、コーンの甘さもいい。味噌汁はあっさり、具はもやしだった。

マグロの煮物は醤油などで甘辛く煮付けたもの。これがレベルが高く、まるで牛肉のしぐれ煮を食べているようである。夜ならつまみの一品として取りたくなる。

それにつけてもこのマグロ丼は美味い。特にマグロの刺身が実に美味かった。



他にも食べたくなるメニュー満載のお店、是非とも再訪。次は取り敢えずアジフライかな?2月8日のアド街で紹介された。ご馳走さまでした、大満足。



魚と米
中央区日本橋大伝馬町12ー8
0368108821


目黒川の最下流部分を歩く

2025-02-09 05:00:00 | 川と橋とダム
『ぶらり橋巡り』その118。旧東海道を歩くうちに目黒川の最下流に掛かる品川橋に通りかかった。それならばと少し上流から橋を巡ることにした。スタートは第一京浜(国道15号線)が上を通る東海橋から。



東海橋は幅広い国道が上を通るだけあって立派な造りとなっている。特徴的なのは親柱の上に置かれている『鳳凰像』、青緑色(緑青をイメージしているのか?)でかなり目立つ存在。これは日本橋の麒麟像との対比で造られたのかもしれない。



ただ、竣工は比較的新しく、1997年である。因みに目黒川は品物が行き交う川のため、江戸時代には品川とも呼ばれた、これが品川という地名の由来となった説の1つと言われる。



下流に向かい、京浜急行の目黒川橋梁、荏川橋(えがわばし)と続く。橋の名前は旧町名の荏川町に由来する。



荏原神社の正面に向かう朱塗りの橋が鎮守橋。目黒川の川筋が変わったため、1928年9月に完成したコンクリート橋ではあるが、橋柱が左右6個ずつ、計12個あるが、青銅製の擬宝珠がついている。


旧東海道が上を通る品川橋は江戸時代の立派な石造灯台風の欄干となっている。品川橋は東海道五十三次で日本橋の次の本格的な橋であった。北品川宿と南品川宿を分ける橋で位置から江戸時代は中ノ橋、境(堺)橋、行合橋などと呼ばれていたが、品川宿の真ん中にあることから品川橋と呼ばれるようになった。目黒川の改修に伴い川の流れは変わったが、今の橋は江戸時代とほぼ同じ位置にある。



橋の上には庭園や東屋も立っている珍しい形態の橋である。江戸時代は木橋だったが、現在の橋は1991年に竣工したものである。



新品川橋はすぐ下流に架けられている。橋のところで立体交差となっていて川沿いの歩道はトンネルのように下を行く。架橋されたのは1972年である。



江戸時代の浦高札場(うらこうさつば)が新品川橋の南詰にあった。浦高札は全国津々浦々に立てたもので元は4枚あったが、今は『御城米船が難破した時の処置や心得を発したもの』『抜荷買いを禁止する旨を記したもの』の2枚が残されていると説明板にあった。



洲崎橋は目黒川の川筋変更により洲崎の漁師町と南品川1丁目が分断されたためこの2つの地区をつなぐ目的で作られたもの。橋が完成したのは1928年である。



昭和橋は目黒川最後の橋で上を海岸通りが通る。新目黒川開さくによって元の河口に作られた橋、1930年(昭和5年)に作られたので昭和橋と名付けられた。



その先は天王洲南運河、さらに京浜運河につながり、太平洋に注いでいる。