三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで前川知大演出、仲村トオル主演の芝居「遠野物語・奇ツ怪 其ノ参」を観た。
仲村トオルは有名な「遠野物語」の著者柳田國男の役で登場する。他の登場人物も最初は警察官や専門の学者、柳田の娘といった役柄で登場する。
時代はいつの時代だろうか。日本語の標準化という政策が進められ、法律ができている。言葉狩りがはじまっていて、柳田の著書は、方言で書かれていることと事実でないことが書かれていることの2点で違法の疑いがあり、警察に任意同行を求められている、というのが最初の場面だ。
芝居は柳田の著書の内容を専門の学者が検証する形で進む。舞台設定が伝承の話に変わった途端、急に伝承の中の人物に役が変わる。伝承の登場人物をそれぞれが演じるのだ。制服は警察官のままで遠野訛りの言葉を喋ったりする。
岩手県の山間の集落である遠野には沢山の民間伝承がある。神隠しの伝説や幽霊に出会う話、失踪して3年後に戻った娘が予言者になった話など、次から次に伝承が展開し、時々最初の取調室の場面に戻ったりする。
芝居はめまぐるしく舞台設定が変わるが、暗転は一度だけで、あとは同じ衣裳のままで違う人間を演じたり、登場と退場の合間に衣裳が変わったり、場合によってはその場で服を脱いだり被り物を外したりする。自由な演出だが、物語がどんどん進むので気を取られることはない。
仲村トオルの台詞では、生者と死者の区別さえ難しくなる黄昏時のことを豊かな言葉で表現していた。日本語がとても美しい。そしてわかりやすい。
芝居では死は日常生活のなかに自然にあり、親しいものとして扱われる。死者も生者と同じように尊ばれ、或いは粗末に扱われる。伝承のすべてに死が影を落としている。
そもそも伝承に出てくる人物はすでにみんな死んでいる。死者たちがかつてどのように生きたか、そしてどのように死んだかを伝承することが、閉ざされた集落のなかで意味のあることだった。それは人間にとってどうしようもないこと、どうにもできないことに対する「畏れ」のようなものだった。
伝承は、死者や自然、或いは未知のものにたいする「畏れ」を伝え続ける。シャーマニズムの時代から、禁忌が形作られてきた。共同体には、触れてはいけないもの、壊してはいけないものがある。禁忌を犯した人間たちがどのような末路を辿ったのかを語り継ぐのが伝承である。伝承しなければ人間は「畏れ」を忘れ、「畏れ」を忘れることは共同体の存続を危うくする。
芝居のテーマは壮大だ。共同体の世界観がどのように生成され、どのように変質していったのかが伝承を聞くことによって浮かび上がってくるというものだ。日本人はどこへ向かい、何を求めているのか。現代人が見失った主題を真っ向からぶつけてくる。