健康寿命という言葉がある。何をもって健康とするのか議論の分かれるところではあるが、簡単に割り切る考え方がある。それは食事とトイレと入浴の三つをひとりでできるかである。生活の基本動作だ。
自動車の運転が下手になったら、運転するのをやめればいい。運転をやめたからといって、すぐに介護が必要になる訳ではない。ところが基本動作がどれかひとつでもできなくなったら、誰かのお世話にならないといけなくなる。それは長いこと自立して生きてきた人間にとって、堪え難い屈辱だ。人間としての尊厳の危機である。
歳を取ると身体が思っているように動かなくなるだけではなく、制御も利かなくなる。寝ているときの失禁つまりおねしょは、老いを迎える人間にはショッキングな出来事である。筋力が弱って立ち上がれなくなったときの絶望は計り知れない。
人間は悲しみや苦しみ、苦痛や不安や恐怖で自殺するのではない。明日という日に何の希望も期待も抱けなくなったら、躊躇うことなく自殺するのだ。今日が酷い一日だったとしても、明日はいい日になると思えば自殺することはない。明日は今日よりももっと酷い一日になるだろうとしか思えなければ、自殺以外に道はない。いじめ自殺の心理的な構造も同じである。
現実世界にはおいしいシャンパンや贅沢な食べ物や人との楽しいかかわりもあるが、それらを全部底に沈めてしまう大きな絶望がある。年老いた主人公はそんな絶望をひとりで受けとめ、ひとりで決着をつける決意をするのだ。
そしてそんな状況でも母としての優しさを失うことはない。息子の、死にたいのは老いるのが怖いんだろう、鬱だから薬を飲めば治るという愚かな言葉にも何も反論せず、ただ悲しみの涙を流すのだ。
フランス映画らしく極めて実存的なテーマを真正面から描いている。宗教的な価値観の介在する余地はない。自殺が禁忌とされているのは宗教的な価値観ではなく、大勢が自殺してしまうと共同体の存続が危うくなるからだ。人を殺してはいけないとされているのと同じ理由である。
だから主人公は共同体の禁忌や法律と折り合いをつける。家族が共同体による禁忌の束縛から離れ、尊厳死を選択する実存としての自分を理解してくれるように努める。見事な生き方、立派な生き方だ。
こういう映画がきちんと評価されるところに、フランスの精神的な健全性がある。フランス語の原題は、そのまま翻訳すると「最後の授業」となり、別の映画のタイトルになってしまうので、今回の邦題はいいタイトルだと思う。