三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

韓国大統領の末路

2016年11月01日 | 政治・社会・会社

南朝鮮の朴槿恵大統領が一般人に国家機密にも等しい情報を漏洩したとして大問題になっている。当該の一般人は逮捕されたようだ。韓国の憲法では現職大統領は刑事訴追を受けないという決まりがあるので、現段階では大統領の逮捕はない。任期はあと1年残っているが、その間に検察の捜査は着々と進み、大統領を辞任した途端に逮捕という段取りになるかもしれない。

韓国の歴代大統領の末路は、なんとも悲惨だ。
李承晩は不正選挙を実施したことで起きた革命によって失脚し、亡命している。
朴正煕は約16年大統領を務めたが、最後は射殺されている。
崔圭夏は全斗煥と盧泰愚の軍事クーデターで辞任させられた。
全斗煥は退任後に死刑判決を受けている。
盧泰愚は退任後に懲役刑を受けている。
金泳三は息子が逮捕されている。
金大中はノーベル平和賞を受賞したが、3人の息子が全員不正で逮捕されている。
廬武鉉は自殺。
李明博は退任後に告訴、告発をされた。
そして現職の朴槿恵だ。父親の朴正煕と母親の陸英修がいずれも射殺されたという悲惨な出自である。

韓国の国家公務員は100万人を超えており、日本の64万人よりも多い。韓国の人口は約4800万人で、日本の約12600万人の半分以下だ。
日本の官僚機構が国民よりも組織を守ることを第一義としているのと同じで、韓国の役人たちも自分たちの組織が第一だ。100万人もいれば悪事不祥事は日常茶飯事だろう。下っ端のこそ泥みたいな横領や袖の下から、上席の巨悪に至るまで、収賄や脱税、不正蓄財などのオンパレードだ。しかし日本と同じく、報道されることなく内々で処理されている。
日本の政治家は死ぬまで政治家で、官僚機構の支配下にあるが、韓国の大統領は辞任したらただの人だ。韓国の国家公務員にとってこれほど危険な人物はいない。お飾りみたいな大統領でも、対外的に国家の代表なのだからそれなりの情報を与える必要がある。完全つんぼ桟敷に置くわけにはいかないのだ。すると100万人の国家公務員にとって不都合な情報も自然に入ってしまう。そしてその情報を持ったまま辞任する訳で、公務員にとって脅威である。公務員は国家権力そのものであり、特に警察と検察は実力行使をする暴力装置だ。アメリカのCIAに倣ったKCIAもある。これは暗殺組織だ。設立した朴正煕自身がKCIAによって射殺されている。

韓国の歴代大統領の多くが悲惨な末路を辿るのは、国家公務員の自己保身のためである可能性がある。来年12月で任期が終わる朴槿恵は、今回の事件で支持率が17%と急落しており、再選は絶望的だ。となると退任ということになるが、果たしてどんな目に遭うのか。他人事ながら、今から気の毒な気がしている。 


映画「Il capitale umano」(邦題「人間の値打ち」)

2016年11月01日 | 映画・舞台・コンサート

映画「Il capitale umano」(邦題「人間の値打ち」)を観た。
http://neuchi-movie.com/

きれいごとを一切排除したリアルな映画だ。登場人物は基本的に自分の利益や欲望のことしか考えていない。にもかかわらず他人は自分のために動いてくれると思い込んでいる。イタリア人はそういう気質であると言われればそんな気もする。兎に角、他人は他人の都合で動いていると考える奥床しい国民性の日本人とはかなり違う。
思えば日本の経営者たちは、この映画の登場人物みたいな人間ばかりだ。従業員のことを給料さえ支払えば、自分のために馬車馬のように働く奴隷にできると思っている。
しかしそういう人間ばかりで馬車馬のように働く人間がいないと、経済はうまく回らない。実際に行ったイタリアが、みすぼらしく貧しい印象だったのは、経営者も従業員も互いに自分の利益と欲望だけに忠実で、組織の利益をあまり考えていないからかもしれない。
それでもイタリア人たちは、いつもニコニコしていて誰にでも挨拶するし、自由で幸せそうだ。働いてばかりでいつも暗い顔をして、恐怖と不安に慄きながら暮らしている日本人とは大違いだ。

この作品はまさに相反する欲望と相反する利益のぶつかり合いのドラマだ。しかし互いに思いやりなどまったくないかというと、そうでもない。別れた彼氏が酔っぱらってつぶれていたら迎えに行く優しさがある。そして彼氏の母親は送り届けてくれたことについてきちんと礼を言うという礼儀正しさもある。要するに普通の人たちだ。
映画は、普通の人たちが金儲けや性欲や承認欲求に突き動かされて行動している日常に、交通事故という非日常を絡めて、それぞれの立場でどのように状況を把握し、どのような行動をとるかを描く。同じ場面を3人の視点から3回描く手法で何が起きたのかが明らかになっていく。同じ場面だからくどくなってしまう危険性があるが、映像の視点と切り口を変えて飽きさせないように工夫をしている。うまい手法だ。

登場人物があまりにも普通の人たちで、哲学も世界観もなく夢も希望もないような映画だが、人間とはそういうもので、くだらなくて愚かだが愛すべき存在として描かれているように思える。隣に座っていた白人女性がときどき吹き出して笑っていた。彼女の笑いのツボは理解できなかったが、おそらくこの作品は人間のドタバタ喜劇なのだ。


映画「The Man Who Knew Infinity」(邦題「奇蹟がくれた数式」)

2016年11月01日 | 映画・舞台・コンサート

映画「The Man Who Knew Infinity」(邦題「奇蹟がくれた数式」)を観た。
http://kiseki-sushiki.jp/

日本人は一部の人を除いて宗教的な生活とは無縁だ。葬式仏教というあまり好ましくない言葉がある通り、結婚式では神父または牧師の案内によって愛を誓い、葬式では坊主の経や説教を大人しく聞くが、日常生活で宗教を意識することはあまりない。
これはイザヤ・ベンダサンが「日本教」と名付けた精神性のせいもあるだろうが、そもそも神道が八百万の神として万物に神が宿っているとしたことから、特定の神を想定するという習慣がない。日本人が関心を持つのはどうすれば利するかということだけで、金運がアップするという神社があればそこに人が押し寄せる。御利益(ごりやく)と利益(りえき)は同じなのだ。
しかし神道や仏教以外の宗教では唯一神があり、万能の力を発揮し続ける。神の存在には何の根拠もないが、根拠がなくても兎に角この宇宙に神が存在していると思い込むことが信仰だ。

科学者は現象を仮説によって説明し、その仮説を証明することが仕事だ。したがって存在を証明できない神を信じる科学者はいないと思われがちだが、欧米人の科学者の多くは神を信じているらしい。アインシュタインも熱心なクリスチャンだった。

本作の主人公シュリニヴァーサ・ラマヌジャンも熱心なヒンドゥー教徒だ。そして独学の数学者である。数学では定理や公理や公式は論理的に導き出せる結論としての証明を必要とする。ラマヌジャンはヒンドゥー教については数学的な思考をしない。映画ではラマヌジャンの発想がどこから出てくるのかを本人が説明することで宗教と数学がひとりの人間に同居する理由を表現しているが、無宗教の人間には理解し難い部分だ。
共同研究者のハーディも無宗教であり、ラマヌジャンの信仰を理解しなかったが、自分よりもずいぶんと若いインドの天才に、宗教や習慣の壁を越えて友情を抱く器量の大きさがあった。ラマヌジャンの活躍はハーディの懐の深さによるところが大きい。ラマヌジャンを王立協会の会員に推薦する演説はこの映画の一番の見せ所であり、名優ジェレミー・アイアンズの重厚な演技が光る。短い場面だが息を呑む迫力がある。
ラマヌジャンを演じたデブ・パテルは「チャッピー」でも真面目で思い込みの激しい研究者を演じていたが、こういう役が嵌り役なのだろう。若いが安心してみていられる役者だ。