三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「インフェルノ」

2016年11月09日 | 映画・舞台・コンサート

映画「インフェルノ」を観た。
http://www.inferno-movie.jp/site/#!/

おなじみのトム・ハンクス演じるラングドン教授シリーズだ。ミッキーマウスの腕時計も健在。となると、困難な状況に陥った教授が、持ち前の宗教学の知識と頭の回転の速さで次々にパズルを解いていくストーリーになるのは必須だし、お約束だ。そういう意味では安心感のある映画である。
とはいえ、今回はいきなり教授が怪我をしているシーンからスタートする。いったいどういう状況なのか、教授にもわからないが、観客にもわからない。そこに危険が迫り、記憶がはっきりしないままに追われて逃げることになる。教授は超物知りというだけで、特殊な能力を何も持たない普通の人間であり、暴力には極端に弱い。しかし時には蛮勇を発揮することもある。観客は教授とともに謎解きと逃避行の旅に向かうが、誰を信用していいのかもわからず、極めて心もとない心情を共有することになる。感情移入せずにいられない展開だ。

フィレンツェから始まり、ヴェニスのサンマルコ広場、そしてイスタンブールと、誰もが行きたい観光名所が舞台であるところも感覚的になじみやすい。どこも観光客で一杯だ。みんなが見ているはずの観光地に、みんなの気づかない秘密があるところがこの映画シリーズの一番の魅力である。
映画のタイトルはダンテの「神曲」の地獄篇を意味するが、ダンテのことを知らなくても、映画は十分に楽しめるようになっている。むしろ知らない方が一層面白いかもしれない。

そもそものきっかけを作った大金持ちの男性の、人類が地球上に増えすぎているという思想は、あながち間違っているわけではない。生物兵器を用いて人類の半分を減らそうという目論見は、手段として否定されるが、ラングドン教授はその思想自体を否定してはいないのだ。
地球の人口は80億に達しようとしていて、地球温暖化その他が齎す天災地変は人口増加が原因のひとつであることは誰もが認めざるを得ないところだ。「人口論」のマルサスが警告したのは食糧危機だったが、飽食の日本では、実感に乏しい。世界各地では貧困と飢餓にあえぐ地域があるのは情報として得られるし、それらの地域ではまぎれもなく食糧危機が現実である。だがそれは地球全体の問題というよりも、格差の問題であるように思われる。飽食の地域と飢餓の地域の格差だ。むしろ人口問題は、人口の増加が格差を生み出したというところに本質があるのだ。

映画はスリリングで息もつかせぬ面白いストーリーだったが、人口問題は映画で解決されはしない。戦争で人口が減るのが人間の自然淘汰だと主張する学者がかつていたが、人類は戦争を減らす方向で努力している。戦争をしないで人口問題を解決するには、子供を産まない選択をするしかない。そして高齢化が世界で最も進んでいる日本では、すでに国民がその選択をしはじめている。少子化は政策で解決できる問題ではない。人類にとってもっと根本的な、構造的な問題だ。人口増加が格差を生み、その格差が少子化を齎しているのだ。世界の人口減少の最先端に日本がある。

世界の人口増加はいつかは止まるだろう。そして減少がはじまる。そのときにたくさんの問題が次々に湧き上り、たくさんの人々が苦痛を味わうことになる。それはまさに現実のインフェルノとなるだろう。日本ではそれがもうはじまっている。


映画「湯を沸かすほどの熱い愛」

2016年11月09日 | 映画・舞台・コンサート

映画「湯を沸かすほどの熱い愛」を観た。
http://atsui-ai.com/

予告編の通り、余命数か月を告げられた母親が、失踪した夫を連れ戻し、いじめられている娘を立ち直らせ、休業していた銭湯を再開して、それまでの様々な経緯(いきさつ)に決着をつける物語だ。

ストーリーはそれほど波乱万丈ではないが、ディテールが結構凝っている。特に放浪の旅をする松坂桃李の拓海くんとのシーンはとても印象深い。拓海くんを助手席に乗せて宮沢りえの幸野双葉が運転する場面で、不自由なく育って小さなことで悩んで旅に出た拓海くんを、駄目な男として頭からはっきり否定する。そして拓海くんと別れる駐車場に車を止めたとき、子供たちから見えない車の背後に呼ぶ。てっきり拓海くんを平手打ちするか、どやしつけるのかと思ったら、双葉は拓海くんを思い切りハグする。駄目な人間だろうが、そんなことは関係ない。双葉にとっては出会った人間が無条件に愛しいのだ。この場面はこの映画の白眉である。世の中ににまだ女の優しさというものがあるとすれば、まさにこれが女の優しさの真骨頂だ。

宮沢りえは、2014年に渋谷のBunkamuraシアターコクーンで観た芝居「火のようにさみしい姉がいて」でなんとも中途半端な演技をしていただけに、これほど深い女の愛情を表現することができたのは驚きである。あのときは蜷川幸雄の演出が合わなかったのかもしれない。逆にこの映画の監督の中野量太さんとはよほど相性がいいのだろう。舞台の縮こまった演技とはまったく違って、役柄をのびのびと演じており、自由で心の広いヒロインが兎に角際立っていた。彼女の女優人生にとって最高のエポックとなった作品に違いない。

杉咲花の安澄がどのようにいじめに立ち向かうのか、中野監督のお手並み拝見というところだったが、予想もしなかった行動でいじめっ子の女子たちにカウンターパンチをお見舞いする。誰も責めず、誰も傷つけないが、極めて効果的なやり方だ。ただ、思春期の女の子にとっては清水の舞台から飛び降りるほどの勇気が必要な行動である。その行動に先立っては、双葉が下着をプレゼントするシーンと、さらにその前に安澄のスポーツブラを片づけながら呟くシーンがちゃんと伏線になっている。見事である。

中野監督が、自分で造形した幸野双葉という女性に心から惚れ込んでいるのがストレートに伝わってくる作品だ。愛情が深すぎて、タイトルまで大袈裟にしてしまったが、タイトルに沿ったストーリーもちゃんと用意されている。少しやり過ぎの感もないことはないが、登場人物の誰もが双葉の優しさに包まれていることを考えれば、こういうラストもあっていいだろう。双葉の最後のシーンはそのままポスターになれば日本中の男性が買うのではないかと思うほどの、息を呑む美しさだ。あと何十秒か長く見たかった。宮沢りえはまだまだSanta-Feの宮沢りえなのだ。