主人公ギャツビーを演じたティモシー・シャラメの演技が秀逸。世界観がなくて単にミーハーなだけのアホな女の子アシュリー役をエル・ファニングが見事にこなしていて、内向的で思索家のギャツビーと好対照のカップルとなっている。
ウディ・アレン監督らしく、主人公はかなりのオタクであり、人生に対して斜に構えている。中原中也の詩に登場する「僕」のようである。
さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂(わら)はれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤もと感じ
一生懸命郷に従つてもみたのだが
今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに
(「憔悴」より第Ⅴ節の一部を抜粋)
もうほとんどこの詩だけでギャツビーの人柄を言い尽くしている。詩の中の「あなたがた」には、ガールフレンドのアシュリーも含まれる。ギャツビーの居場所は「あなたがた」の思うところには存在しないのだ。寧ろProstituteのお姉さんのほうがよほど自分の居場所を生きている。
ニューヨークはやはりいい街だ。セントラルパーク、メトロポリタン博物館、ホテルカーライルなど、所謂ニューヨークオタクにはたまらない場所である。それぞれが美しく描かれ、居心地のよさが空気感で伝わってくる。
ウディ・アレン監督は雨が好きなのかもしれない。ラストシーンは無理や背伸びから解放されて「僕は僕らしく」というホッとした雰囲気だ。「男と女の観覧車」も「ミッドナイト・イン・パリ」も似たような筋書きを辿る。それがウディ・アレンにとっての人生の真実なのだろう。ただ本作にはこれといって魅力的な人物があまり登場しなかったのが憾み(うらみ)である。人生の真実を語るような年老いた人物が何人かいてほしい。セレーナ・ゴメスのチャンではあまりにも弱く、母親のシーンは機知に乏しかった。3.5かな。