三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Aos olhos de Ernesto」(邦題「ぶあいそうな手紙」)

2020年07月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Aos olhos de Ernesto」(邦題「ぶあいそうな手紙」)を観た。
 優しい老人の物語である。主人公エルネスト78歳。誰もがこんな風に老いることができればと願うような知性に溢れる老人だ。隣人ハビエルと老人同士のユーモアのある洒脱な会話を交わす一方、つつましい暮らしでさえ脅かすブラジル政府の福祉切り捨て政策もチクリと皮肉る。
 街で暮らす若者たちは定職がなく生活が安定しない。老人たちと同様に若者たちにも不安が広がっている。そんな中で貧しい老人エルネストと貧しい若い女性ビアが出会い、互いの人間性を探り合いながらもささやかな幸せの時間を楽しむ。エルネストには多くの経験と思い出があり、人生のいくばくかの真実は承知している。ビアは五感がよく働き、様々な知識や教訓を吸収できるし、最新の電子機器に関してはエルネストよりずっと詳しい。
 邦題の「ぶあいそうな手紙」も悪くないのだが、エルネストが口述しはじめた紋切り型の手紙ではなく、真情を率直に伝えたほうがいいというビアの提案を受け入れたことと、ビアが目の見えないエルネストに代わって手紙を書くことから、当方なら邦題を「ビアの代筆」としたい。
 本作品は老境を迎えたエルネストの生き方を描いているとともに、エルネストの優しさと人柄に触れることで、正直に真っ直ぐに生きることを選択したビアの成長物語でもある。若者の瞬発力は体力だけではなく精神面にもあって、何が正解なのかを一瞬で理解する能力がある。そしてこれまで抱えてきた過去や人間関係をあっさり捨てる能力もある。そしてエルネストにはどうやらそれを予見していたフシがある。目は悪いがなかなかどうして侮れない老人なのだ。
 人生は別れの連続だ。「さよならだけが人生だ」という漢詩もある。エルネストは抜け目がなくてずる賢いビアとの邂逅を楽しんだのだ。日常の損得だけで生きる家政婦にはそれが理解できなかった。終盤のエルネストの選択にはちょっと驚いたが、ビアの瞬発力を真似たのかもしれない。タクシーからいったん降りて、46年間暮らした街を港から眺めるシーンは、年老いたエルネストの寂寥がひたひたと波を打つようだった。いい作品だったと思う。

映画「SKIN」

2020年07月24日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「SKIN」を観た。
 コロナ禍の毎日、インターネットで猫の動画を見て癒やされている人もいると思う。猫の動画で何故癒やされるのかというと、医学的には脳内ホルモンと言われるセロトニンやドーパミン、愛情ホルモンと呼ばれているオキシトシンなどが分泌されるからとされている。どうしてそういうホルモンが分泌されるのかについては、医学は答えを持たない。種の保存本能だろうか。人は小さい哺乳類が傷つけられるのを嫌うのかもしれない。
 という訳で可愛らしい子猫を捻り殺すようなことは残忍な行為とされる。こちらに害をなさない動物を殺すのは、普通の人にとって実行するのがとても難しい行為だ。どうしてもやらなければいけない場合は、慣れるしかない。中国で大量の民間人を虐殺した日本軍の兵隊は、最初は殺せなかったが、チャンコロと呼ぶことに抵抗がなくなるのと並行して、殺すことにも抵抗がなくなっていったらしい。
 必要もないのに害をなさない動物を殺すのは異常者だが、生まれついての異常者というのは考えづらく、やはり幼少から生きてきた環境で異常になっていくのだと思う。つまり慣れるということだ。親から殴られ続けて育ったり、先輩から殴られる部活動にずっといたりすると、殴られることに慣れ、やがては殴る立場になる。同じように動物でも人でも、害のない相手を簡単に殺す集団にいると、殺すことに慣れてくる。そしてそれは不可逆である。一旦慣れてしまうと、慣れていない頃の精神性には戻れないのだ。
 人を殴れる人間、人を殺せる人間に、そうでない人間は恐れをなす。正常な人間は異常な人間を怖がるのだ。そして恐怖心から生じる主従関係になって人格を蹂躙される。実はこの図式が世界中の多くの集団に蔓延している。異常者が正常者を支配するという歪んだ図式である。暴力団も暴走族も学校の部活もあくどい企業も、皆同じなのだ。

 本作品の主人公も育ってきた環境から、異常な集団の一員になる。異常な集団の最後の踏絵は、自分に害をなさない人間を殺せるかどうかである。銃で撃ってくる敵なら反射的に撃ち返すし、殺すことも厭わないだろう。しかし見ず知らずの無抵抗な人間を殺せるかというと、普通の神経では殺せない。子猫の首を捻って殺すことができるかと同じだ。普通の人は子猫を殺せない。しかし慣れれば別だ。子猫の顔を掴んで黙らせる、別の手で首を親指と人差指と中指で掴み、手首を返して首の骨を折る。心を凍らせて手順を踏める人間だけが子猫を捻り殺せる。そして無抵抗の人間も同じように殺せる。

 そんな人間はおかしいと思うことから、主人公の戦いが始まった。それは暴力的な自分自身との戦いでもある。組織に矯正されて子猫を殺せる人間になる前に、殺せない人間でいることを選び、そこに踏みとどまるのだという強い意志があった。
 ヘイト集団だけが異常な団体ではない。異常者が指導するあらゆる組織、団体、そして共同体は、国家も含めて世に蔓延している。組織は抜け出そうとする者を許さない。裏切り者という言葉がある。会社でも部活でも暴走族でも、異常者の牛耳る集団をやめる人間はみんな、集団から裏切り者扱いされる。裏切り者に対する懲罰は苛烈を極める。次の裏切り者の出現を許さないためだ。
 主人公ブライオンは組織の中でも幹部だ。覚悟の証である入れ墨は顔にまで入っている。逆に言えば顔の入れ墨のおかげで幹部になれたのかもしれない。根っからのレイシストではないが、家族に恵まれなかった彼は組織を家族だと思いこんでいて、家族の意向は自分の意向だと考える。殆どネトウヨの精神性と同じである。
 本作品はヘイト集団から脱出しようとする物語であると同時に、ヘイト集団と似たような組織が世界中にあること、場合によってはそれが国家であることも含めて、勇気を出せばそこから脱出できるという物語でもある。