三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

こまつ座の芝居「人間合格」

2020年07月19日 | 映画・舞台・コンサート
 新宿TAKASHIMAYAサザンシアターでこまつ座の芝居「人間合格」を観劇。
 蜷川実花監督、小栗旬主演の映画「人間失格」は太宰治の人となりを割とストレートに表現していたが、本日鑑賞した「人間合格」は、太宰修に友人たちがいて、彼らと深く関わることで死なないでいられる話になっている。世を悲観した太宰を逆にポジティブに描いてやろうという井上ひさしの悪戯っぽい脚本が笑える。見どころは敗戦の前後で、国を挙げての戦争礼賛から戦後民主主義への掌返しに対する太宰の苦々しい思いがよく伝わってきた。
 観客はみな年配の人々ばかりである。芝居を観るという文化は若い人たちの間では既に消滅したのだろうか。

映画「The Public」(邦題「パブリック 図書館の奇跡」)

2020年07月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Public」(邦題「パブリック 図書館の奇跡」)を観た。
 傑作である。スリルもサスペンスもないのにスクリーンから眼が離せない。それは人が権力と対峙するときの、ある種のヒリヒリするような緊張感に由来する。権力との闘いは勝ち目のない闘争であり、将来を棒に振り、家族が酷い目に遭わされるかもしれない。公正な裁きを求めても、三権分立は機能していないことが多く、権力側が負けることは滅多にない。
 だから大抵の人は長いものに巻かれて生きる。それが賢い生き方だと思っている。しかしときには、長いものに巻かれていることに疑問を持つ。もし闘う生き方を選んだらどうなのかと想像する。その想像の先に映画があり、文学があり、歌がある。中島みゆきの「ファイト!」の歌詞は次のようだ。
 暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく
 光ってるのは傷ついてはがれかけた鱗が揺れるから
 いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね
 やせこけて そんなにやせこけて魚たちのぼってゆく
 勝つか負けるかそれはわからない それでもとにかく闘いの
 出場通知を抱きしめて あいつは海になりました
 ファイト!闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう
 ファイト!冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ
 (1983年アルバム「予感」より2番の歌詞を抜粋)
 こうして歌詞を書き出してみると、この映画にぴったりなことがわかる。そして世間は必ずしも闘う人を笑う人ばかりではないこともわかる。実際に闘えなくても、心の中では闘いたいと思っていたり、または闘う人を応援する人も意外といるのだ。マスコミのバイアスのかかった報道にも惑わされないで本当のことを嗅ぎ分けられる人がいるということである。本作品はそういった人々に向けて作られた気がする。判る人にだけ判ればいいのだ。そして中島みゆきの「ファイト!」の歌詞が理解できる人には本作品も必ず理解できると思う。
 シンシナティを襲った大寒波。市の中央図書館には寒さを逃れたホームレスがたくさん屯しているが、閉館時間になると追い出されてしまう。うまく雨風を凌げる場所に辿り着ければいいが、運が悪いと路上で過ごすことになる。朝になると凍死したホームレスが運ばれていく。生き残ったホームレスは開館時間になると再び中央図書館に入って屯する。
 実はいまでこそホームレスだが、その多くが退役軍人だ。ベトナム戦争やイラク戦争のPTSDに未だに苦しんでいる。J・F・ケネディは「国が何をしてくれるかではなく、国のために何ができるかを考えよう」と演説したが、国のために命がけで他国の人間を殺してきて、心に傷を抱えてホームレスになった彼らに、国は何もしない。悪臭漂う避難所(シェルター)に雑魚寝をさせるだけだ。そう言えば「ランボー」や「運び屋」の主人公も退役軍人だった。アメリカの病苦のひとつはそのあたりにありそうだ。
 本作品に格好のいい行為はない。普通の人が普通に対応したらこうなるだろうなという、至って淡々とした展開である。しかしリアリティがある。それでも大団円のシーンには驚いた。彼らは英雄なのか、一般人なのか。英雄的行為は印象操作によってあとから美化されるのが常で、実際の行為は地味でブザマだ。そしてそれでいいのだ。水の流れに逆らう魚のように、傷ついて剥がれかけた鱗を揺らしながら、見苦しくのぼってゆくのである。