三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「BALLOON」(邦題「バルーン 奇跡の脱出飛行」)

2020年07月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「BALLOON」(邦題「バルーン 奇跡の脱出飛行」)を観た。
 文句なしに面白い映画である。ストーリーも映像も音楽も言うことなしだ。暗い夜空に明るく浮かぶバルーンは美しくも危険であり、チェロやコントラバスの低音と打楽器の不気味な相乗効果で否が応でも緊迫感が募る。最初から最後までハラハラし通しだった。
 強権が国民を抑圧する東ドイツ。ゲシュタポがシュタージに代わっただけで、監視社会はそのままだ。ジョージ・オーウェルの「1984年」の世界である。おまけに全体主義的なパラダイムが支配的で、人々の中には国のためという大義名分で怪しい人間を通報する者も少なからずいる。密告を誇らしい行為だと思いこんでいるフシもある。
 反体制的な言葉は身の危険を招くから、本音は心の奥深くにしまっておくしかない。信頼できるのは家族と、ごく少数の知り合いだけだ。息が詰まるような暮らしの中で、ごく当たり前のまっとうな精神性を持った家族たちが主人公だから、自然に感情移入する。
 序盤で家族の置かれた息苦しい環境を紹介し、賭けに出た夫婦の失敗からさらに追い詰められていく場面を見せられ、不安に胸を締め付けられながらの鑑賞となる。一方で監視する側、取り締まる側にも焦点を当て、同じように窮屈な思いをしながら取り締まりをしていることも解る。当時の東ドイツは庶民も役人も抑圧されていたのだ。少数の非人間的な指導者のおかげで、誰もが声を上げられないでいた。
 互いに不幸な人々が取り締まる側と取り締まられる側に分かれて、緊迫のチェイスを繰り広げる。家族は逃げ切れるのか。そんな中で家族のドラマあり、小さな恋の物語ありという盛り沢山の内容が無理なく詰め込まれていて、とても濃厚な作品になっている。事実に基づく物語であるところも含めて、リアリティはこの上ない。
 映像と音響が非常に優れているので、映画館で観ないと損をする作品である。まだ観ていない人は、上映期間が終わらないうちに観たほうがいい。この大変な傑作映画の上映館が少ないのは、映画ファンにとって不運だと思う。

映画「WAR ウォー!!」

2020年07月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「WAR ウォー!!」を観た。
 ヒューマントラストシネマのodessa上映で鑑賞。odessaというのは新しい音響システムで通常の上映とは異なる音域での上映だそうである。簡単にいうと、音がでかいということだ。既にあちこちのシネコンでIMAXの上映を鑑賞しているので、特に驚きはなかった。
 本作品はアクションを楽しむ映画なので、大音響が向いている。その点ではodessa上映は悪くない。音楽と踊りも愉快だし、アクションも見事だった。インド映画といえば「バーフバリ 王の凱旋完全版」でお馴染みの俳優プラバースのようなややぽっちゃり気味のヒーローのイメージだったが、本作品の二人はボディビルダーみたいに脂肪を削ぎ落とした肉体で、マッチョであるにもかかわらず軽快なダンスを踊る。マイケル・ジャクソンみたいに細くてシャープな男が踊るのもいいが、ごつい男が太い腕を振り回してアップテンポに踊るのも見ていて面白い。
 ストーリーはミッション・インポッシブル風。アクションも同じくミッション・インポッシブルに似ている。軍人や諜報員といった現場で闘う役人が主人公だとどうしても似てくるのかもしれない。不死身すぎてリアリティに欠けるところがいまひとつで、あまりに超人的すぎる人物には誰も感情移入できない。
 鑑賞後に残るものは何もないし、雑魚キャラとして登場する沢山の男たちがむやみやたらに殺されるのはそれほど痛快なことではない。予想される危機の想定シーンがなくて、登場人物の台詞だけで説明されるから危機感や緊迫感がちっとも共有できない。危機感を覚えているのは登場人物だけだ。
 何も考えずにボケっと観る作品で、よほど時間が余ったとき向けである。

映画「ホドロフスキーのサイコマジック」

2020年07月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ホドロフスキーのサイコマジック」を観た。
 東京大学の脳科学者によると、意識と無意識の割合は最近の学説では1対数万と言われているそうだ。要するに人間の脳の働きの殆どは無意識ということなのである。
 解りやすくするためにいわゆる意識を顕在意識、いわゆる無意識を潜在意識と呼ぶ。顕在意識は潜在意識の海に浮かぶ漂流物みたいなもので、情緒や直感といった人生を左右する主要な働きは殆ど潜在意識が受け持っている。
 平凡な日常生活を送る中でも、人が選択を迫られる場面は1日に数百回もあるという。そんなに意識したことがないという人が多いだろう。つまり日常の殆どの選択は潜在意識が自動的に行なっているのだ。だからもし潜在意識をコントロールすることができれば、日々の選択は大きく変化し、つまりは人生も変化する。
 潜在意識が本人の人格や人生を否定する方向に働くこと、即ちそれが悩むということだ。逆に肯定する方向に働けば、恋や幸福感ということになる。しかし人間は顕在意識の方にばかり気を取られて病んでいく。鬱病は考え方の問題ではない。潜在意識のコントロールの問題なのだ。
 ホドロフスキーは潜在意識に直接的に働きかける。即ちそれは五感に働きかけるということである。身体に触る、声や音を聞かせる、光景を見せる、そして何かをさせる。脳は様々な情報を受け取っている筈だ。
 前出の脳科学者によると、脳は身体を通じてしか情報を得ることが出来ない、脳にはセンサーがないから、五感を始めとした身体の感覚から情報を得ているということである。自分の身体の動きも情報のひとつであり、たとえばホラー映画を笑顔で観たら、怖さが半減するらしい。脳はスクリーンに映った映像や音響と同時に、笑っている自分も情報としてインプットするから、笑っている自分=余裕がある=大丈夫だという図式が脳の中で瞬時に認識される。それで恐怖感が減少するとのことである。
 テレビで災害現場の被災者のインタビューを見ると、ときどき笑っている人を見かける。もちろん被災したことが嬉しいのではない。心が崩壊してしまいそうな状況で敢えて笑顔を浮かべることで自分は大丈夫なのだと脳に思い込ませるという、一種の防衛反応なのである。もう笑うしかない、という言い方はある意味真実なのだ。
 ホドロフスキーがやっていることも同じメカニズムで、潜在意識が抱えている漠然とした不安や恐怖感、偏見、憎悪、自己否定、絶望といったマイナスの情緒を減らす効果があると思われる。
 考えてみれば体に関する言葉には、潜在意識に働きかける内容のものがいくつかある。顔を洗って出直すという言い方は水に触ると気持ちが落ち着くことから来ているのだと思う。実際にスピーチの前などでアガっているとき、顔は洗えなくても手を洗うだけでも心が落ち着くものだ。この他に頭を冷やすとか、笑う門には福来たるといった言葉も同じだろう。潜在意識に働きかけて気持ちを変えようとする言い方で、多分昔の人は本当に頭を冷やしたり意図的に笑ったりしていたのだろう。笑うお祭りもあるし、お笑い芸人は社会的に必要な役割なのである。
 現代は鬱病の時代である。正論が幅を利かせていて、ともすれば何気ない行動が何かのハラスメントとして非難されるたりするし、SNSに投稿すれば炎上する。自粛警察という言葉が最近生まれたが、要するに社会のパラダイムに寄りかかった正義の味方である。自分の考え方や世界観ではなくいわゆる世の中の大義名分を振りかざして他人を否定する人々だ。そういう人も本質的には鬱病で、他人を否定する気持ちは諸刃の剣で攻撃は自分自身にも向けられる。
 コロナ禍で手を洗うことが奨励されているのは、期せずして鬱病の発症を防ぐことにも繋がっているのかもしれない。実際に自殺の件数は減っているようだ。今後は自粛しすぎて生活が苦しくなって自殺する人が増加していくだろう。必ずしも自殺を否定するわけではないが、少なくとも毎日入浴して一日に 何度も手を洗う人は鬱になりにくいのはたしかだと思う。
 ホドロフスキーのように個人個人の潜在意識を洞察して、五感を利用して特殊な働きかけをするのは一般人には難しいと思うが、絵を見る、音楽を聞く、花を眺める、森を散策するといった行為が潜在意識に澱のようにへばりついているマイナスの情緒を洗い流す効果があるのは誰もが知るところである。そういったことを命の洗濯というが、まさに潜在意識を洗濯するやり方である。悩んでいる人に説教や忠告をするよりも、一緒に水辺を散歩するほうがよほどいいという訳だ。