東京大学の脳科学者によると、意識と無意識の割合は最近の学説では1対数万と言われているそうだ。要するに人間の脳の働きの殆どは無意識ということなのである。
解りやすくするためにいわゆる意識を顕在意識、いわゆる無意識を潜在意識と呼ぶ。顕在意識は潜在意識の海に浮かぶ漂流物みたいなもので、情緒や直感といった人生を左右する主要な働きは殆ど潜在意識が受け持っている。
平凡な日常生活を送る中でも、人が選択を迫られる場面は1日に数百回もあるという。そんなに意識したことがないという人が多いだろう。つまり日常の殆どの選択は潜在意識が自動的に行なっているのだ。だからもし潜在意識をコントロールすることができれば、日々の選択は大きく変化し、つまりは人生も変化する。
潜在意識が本人の人格や人生を否定する方向に働くこと、即ちそれが悩むということだ。逆に肯定する方向に働けば、恋や幸福感ということになる。しかし人間は顕在意識の方にばかり気を取られて病んでいく。鬱病は考え方の問題ではない。潜在意識のコントロールの問題なのだ。
ホドロフスキーは潜在意識に直接的に働きかける。即ちそれは五感に働きかけるということである。身体に触る、声や音を聞かせる、光景を見せる、そして何かをさせる。脳は様々な情報を受け取っている筈だ。
前出の脳科学者によると、脳は身体を通じてしか情報を得ることが出来ない、脳にはセンサーがないから、五感を始めとした身体の感覚から情報を得ているということである。自分の身体の動きも情報のひとつであり、たとえばホラー映画を笑顔で観たら、怖さが半減するらしい。脳はスクリーンに映った映像や音響と同時に、笑っている自分も情報としてインプットするから、笑っている自分=余裕がある=大丈夫だという図式が脳の中で瞬時に認識される。それで恐怖感が減少するとのことである。
テレビで災害現場の被災者のインタビューを見ると、ときどき笑っている人を見かける。もちろん被災したことが嬉しいのではない。心が崩壊してしまいそうな状況で敢えて笑顔を浮かべることで自分は大丈夫なのだと脳に思い込ませるという、一種の防衛反応なのである。もう笑うしかない、という言い方はある意味真実なのだ。
ホドロフスキーがやっていることも同じメカニズムで、潜在意識が抱えている漠然とした不安や恐怖感、偏見、憎悪、自己否定、絶望といったマイナスの情緒を減らす効果があると思われる。
考えてみれば体に関する言葉には、潜在意識に働きかける内容のものがいくつかある。顔を洗って出直すという言い方は水に触ると気持ちが落ち着くことから来ているのだと思う。実際にスピーチの前などでアガっているとき、顔は洗えなくても手を洗うだけでも心が落ち着くものだ。この他に頭を冷やすとか、笑う門には福来たるといった言葉も同じだろう。潜在意識に働きかけて気持ちを変えようとする言い方で、多分昔の人は本当に頭を冷やしたり意図的に笑ったりしていたのだろう。笑うお祭りもあるし、お笑い芸人は社会的に必要な役割なのである。
現代は鬱病の時代である。正論が幅を利かせていて、ともすれば何気ない行動が何かのハラスメントとして非難されるたりするし、SNSに投稿すれば炎上する。自粛警察という言葉が最近生まれたが、要するに社会のパラダイムに寄りかかった正義の味方である。自分の考え方や世界観ではなくいわゆる世の中の大義名分を振りかざして他人を否定する人々だ。そういう人も本質的には鬱病で、他人を否定する気持ちは諸刃の剣で攻撃は自分自身にも向けられる。
コロナ禍で手を洗うことが奨励されているのは、期せずして鬱病の発症を防ぐことにも繋がっているのかもしれない。実際に自殺の件数は減っているようだ。今後は自粛しすぎて生活が苦しくなって自殺する人が増加していくだろう。必ずしも自殺を否定するわけではないが、少なくとも毎日入浴して一日に 何度も手を洗う人は鬱になりにくいのはたしかだと思う。
ホドロフスキーのように個人個人の潜在意識を洞察して、五感を利用して特殊な働きかけをするのは一般人には難しいと思うが、絵を見る、音楽を聞く、花を眺める、森を散策するといった行為が潜在意識に澱のようにへばりついているマイナスの情緒を洗い流す効果があるのは誰もが知るところである。そういったことを命の洗濯というが、まさに潜在意識を洗濯するやり方である。悩んでいる人に説教や忠告をするよりも、一緒に水辺を散歩するほうがよほどいいという訳だ。