映画「記憶の戦争」を観た。
瀬戸内寂聴さんが亡くなった。波乱万丈の人生を送った人だが、生涯を通じて、一貫して反戦を訴え続けた人でもあった。
個人が他人を虐殺すると、どの共同体でも犯罪になるが、戦争で他国の人間を虐殺すると、どの共同体でも英雄になる。つまり戦争は個人の残虐行為にお墨付きを与えることなのだ。愚かとしか言いようがないが、それが国家という共同幻想の本質だ。
国家主義は、国家が個人に優先し、個人は国家に従属して国家を褒め称え続けなければならないという考え方だ。北朝鮮の国民が常に独裁者を褒め称えているのと同じだ。
縫い目ひとつ変わらぬ同じ軍服を着せた兵隊に隊列を組ませ、一糸乱れぬ行進をさせる。指導者はそれを美しいと評価し、忠誠心の現れだと悦に入る。アベシンゾーが「美しい国」とするのがそういう光景だ。気持ち悪いとしか言いようがない。トリモロスとか言われても困るのだ。
本作品はベトナム戦争で韓国軍人に虐殺された家族の生き残りの女性が、謝罪を求めて韓国政府を訴える話である。従軍慰安婦が日本を訴えたのと同じ構図だ。だから賢い韓国人はベトナム女性を支援する。しかし頭の硬直した韓国軍人は、一切の虐殺を認めない。日本の国家主義者たちが従軍慰安婦問題や南京大虐殺を認めないのと同じ精神性である。
大切なのは寂聴さんが訴え続けた通り、戦争をしないことだ。タンおばさんの悲劇を二度と繰り返さないことだ。そのために過去を反省する。被害を訴え続ける。謝ったから、補償したからもういいだろうというのは間違っている。タンおばさんは補償なんかいらない、金も欲しくないと言う。欲しいのは謝罪と反省だ。反省し続ける気持ちがなくなったら、人間はまた戦争をする。
日本軍が朝鮮半島や中国、東南アジアで何をしたか、それを反省し続けることが、戦争で亡くなった人への鎮魂であり、反戦の決意である。平成天皇の明仁が戦地を巡って、頭を下げ続けたのも同じ理由だ。日本国憲法によって日本国および日本国民統合の象徴と位置づけられた天皇が、各地を訪れて頭を下げることが、現地の人々や各国の政府にとってどれだけ大きな意味を持っていたか、それを知らないのは当の日本国民だけである。
日本国民が平成天皇の戦地行脚の意味を知らないのは、報道がきちんと説明しないからだ。説明しないように圧力がかかったのかもしれない。天皇は政治的な発言をしてはならないとされているから、どこへ行ってもただ頭を下げるだけだったが、どんな思いでそうしたのか、マスコミはちゃんと伝えるべきだと思う。
平成天皇の「お言葉」の中で「先の大戦」という言葉が多く使われていたことは、割と多くの国民の記憶にあると思う。戦争に対する反省と、戦争で亡くなった人を悼む気持ちが伝わってきたが、感受性が欠如した人には何も伝わらなかったと思う。寂聴さんの言葉も、平成天皇の思いも、結局は国民に伝わっていないのだ。もし伝わっていたら、先の総選挙で自民党が大勝することはなかったはずだ。日本に未来はない。