三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「記憶の戦争」

2021年11月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「記憶の戦争」を観た。
 
 瀬戸内寂聴さんが亡くなった。波乱万丈の人生を送った人だが、生涯を通じて、一貫して反戦を訴え続けた人でもあった。
 
 個人が他人を虐殺すると、どの共同体でも犯罪になるが、戦争で他国の人間を虐殺すると、どの共同体でも英雄になる。つまり戦争は個人の残虐行為にお墨付きを与えることなのだ。愚かとしか言いようがないが、それが国家という共同幻想の本質だ。
 国家主義は、国家が個人に優先し、個人は国家に従属して国家を褒め称え続けなければならないという考え方だ。北朝鮮の国民が常に独裁者を褒め称えているのと同じだ。
 縫い目ひとつ変わらぬ同じ軍服を着せた兵隊に隊列を組ませ、一糸乱れぬ行進をさせる。指導者はそれを美しいと評価し、忠誠心の現れだと悦に入る。アベシンゾーが「美しい国」とするのがそういう光景だ。気持ち悪いとしか言いようがない。トリモロスとか言われても困るのだ。
 
 本作品はベトナム戦争で韓国軍人に虐殺された家族の生き残りの女性が、謝罪を求めて韓国政府を訴える話である。従軍慰安婦が日本を訴えたのと同じ構図だ。だから賢い韓国人はベトナム女性を支援する。しかし頭の硬直した韓国軍人は、一切の虐殺を認めない。日本の国家主義者たちが従軍慰安婦問題や南京大虐殺を認めないのと同じ精神性である。
 
 大切なのは寂聴さんが訴え続けた通り、戦争をしないことだ。タンおばさんの悲劇を二度と繰り返さないことだ。そのために過去を反省する。被害を訴え続ける。謝ったから、補償したからもういいだろうというのは間違っている。タンおばさんは補償なんかいらない、金も欲しくないと言う。欲しいのは謝罪と反省だ。反省し続ける気持ちがなくなったら、人間はまた戦争をする。
 
 日本軍が朝鮮半島や中国、東南アジアで何をしたか、それを反省し続けることが、戦争で亡くなった人への鎮魂であり、反戦の決意である。平成天皇の明仁が戦地を巡って、頭を下げ続けたのも同じ理由だ。日本国憲法によって日本国および日本国民統合の象徴と位置づけられた天皇が、各地を訪れて頭を下げることが、現地の人々や各国の政府にとってどれだけ大きな意味を持っていたか、それを知らないのは当の日本国民だけである。
 日本国民が平成天皇の戦地行脚の意味を知らないのは、報道がきちんと説明しないからだ。説明しないように圧力がかかったのかもしれない。天皇は政治的な発言をしてはならないとされているから、どこへ行ってもただ頭を下げるだけだったが、どんな思いでそうしたのか、マスコミはちゃんと伝えるべきだと思う。
 平成天皇の「お言葉」の中で「先の大戦」という言葉が多く使われていたことは、割と多くの国民の記憶にあると思う。戦争に対する反省と、戦争で亡くなった人を悼む気持ちが伝わってきたが、感受性が欠如した人には何も伝わらなかったと思う。寂聴さんの言葉も、平成天皇の思いも、結局は国民に伝わっていないのだ。もし伝わっていたら、先の総選挙で自民党が大勝することはなかったはずだ。日本に未来はない。

映画「スズさん 昭和の家事と家族の物語」

2021年11月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「スズさん 昭和の家事と家族の物語」を観た。
 
 淡々として静かな映画だが、どこか心を揺さぶられるものがあって、知らずしらず涙が溢れてくる。スズさんという名前から、アニメ映画「この世界の片隅に」の主人公北條すずさんが思い起こされた。戦争に翻弄されながらも、家族や地域の人たちと過ごす日常をとても大事にするという共通点に泣かされたのかもしれない。
 しかし本作品は反戦映画ではない。戦時中から戦後にかけて日本に存在した、一日中働いている主婦の日常を細かに描いた作品だ。5時から6時くらいに起きて身支度をし、朝食を作り、後片付けと洗い物をし、大量の洗濯物を洗い、絞って干す。家中の掃除が終わると、着物の縫直しや繕い物をする。漬物を漬け、季節によってはおはぎやおせち料理を作る。買物に出かけ、帰るとすぐに夕飯の準備だ。夕食、片付け、洗い物が終わると、夜は編み物をしたり、夫の翌日の準備をする。あっという間に真夜中になる。
 子どもたちが学校から帰って勉強していると、勉強なんかしないで手伝いなさいと言われる。綿入れに綿を詰めたりする仕事が沢山あるのだ。手が空いたらやろうと思っている懸案が山積みという訳である。家事に追われる主婦には、暇な時間などないのだ。
 
 それでもスズさんは幸せだったように見える。家族の世話をするスズさんにとっては、家族の幸せが自分の仕事の反映であり、そこに幸せを感じていたのだろう。最期まで働きづめの人生だったが、とても充実していた。あれこれとやることが沢山あり、仕事をこなす技術がある。料理と裁縫が得意なスズさんは、家族に美味しいものを食べさせ、見栄えのいい着物を着せる。家族の笑顔がスズさんにとってのご褒美だ。
 「かあさんの歌」に出てくる「かあさん」は昭和に実在したのだ。高度成長期は長時間働く企業戦士が活躍したが、彼らを支えたのは昭和の主婦である。誰からも褒められることなく、ただ家族のために一日中、一年中働き続けた。無死の精神性が昭和の主婦に宿っていたことを、本作品によって改めて知らされた。

映画「マリグナント 凶暴な悪夢」

2021年11月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マリグナント 凶暴な悪夢」を観た。
 
 人に悪意が生まれるのは、何歳ころだろうか。生まれたばかりの赤ん坊には悪意はない。しかし5歳くらいの子供で意地悪な子がいる。人を叩いたり、騙したりする。
 当方は4歳くらいの頃に近所の5歳くらいの悪ガキに「行けって言ったら走るんだよ」と騙されて、遮断器が閉じようとした踏切を走って渡ったことがある。自転車で通りかかった駅員にこっぴどく叱られたが、悪ガキは逃げていた。この悪ガキはこの15年後くらいに、二十歳で自殺した。
 もしかすると彼は死に関心があって他人の死が見たかっただけで、悪意はなかったのかもしれない。しかしそんなふうな言い方をすれば、世の中に悪意が存在しなくなる。他人が不利益を被ることを願うのはすべて悪意だと考えるのが一般的で、正解だと思う。
 では不利益とはなにか。痛い思いや辛い思いをさせられること、自分の持ち物を盗られたり取り上げられたりすること、他人と比較して不当に低い扱いを受けることである。子供は殴られたり罵倒されたり、服を脱がされて外に放り出されたり、おもちゃを壊されたりすると、それが自分の不利益であることを理解する。
 しかしそこから悪意に至るプロセスがわからない。子供に悪意はないと言い張る人がいるが、本当にそうだろうか。当方に列車で轢かれるかもしれないダッシュをさせた近所の5歳くらいの悪ガキに、本当に悪意はなかったのだろうか。
 
 本作品の冒頭に登場する病院は、まるでビデオゲーム「Resident evil」(邦題「バイオハザード」)の洋館のようで、怪しい雰囲気が満載だが、CGの出来はいまひとつかもしれない。当方には何故か新宿の都庁に似ているように見えた。
 そこに入院しているのは8歳児だ。8歳ともなれば、被害者意識が生まれているし、リベンジの思いから悪意が生じる場合もある。被害者意識が強ければ強いほど悪意は根深くなり、一生消えることはない。当方も、小学校2年生のときにモノサシで酷く叩いた教師のことをいまだに忘れていない。その理由が教師の誤解だったことで、すぐに謝ってきたが、謝られても痛みの記憶は消えることはない。もし将来会うことがあってもモノサシで殴ることはしないが、嫌味のひとつも言ってやりたい気がする。
 
 世の中には当方と同じように、被害者の思い出にいつまでも消えない怒りを抱えている人もいると思う。本作品はそういう人にとって、溜飲の下がるシーンを連発してくれる。権力と暴力に対してそれを上回る暴力で圧倒することは、リベンジできない被害者意識を持ち続ける人間にとっては、なんとも爽快である。
 謎解きのような前半から、真相が判明する後半へテンポよく進む。目が離せない展開の中で無残な殺人が繰り返される。特に広い留置場から警察署内のシーンは本作品の白眉で、チンピラや警官を相手の立ち回りは、日本の時代劇の殺陣(たて)のようだ。このシーンを観るだけでも本作品を鑑賞する価値はある。ストーリーといい、ディテールといい、とてもよく出来たホラーだと思う。