映画「The unforgivable」(邦題「消えない罪」)を観た。
人によっては観たら死にたくなる映画かもしれない。当方がそうだった。
映画の前半はサンドラ・ブロック演じる主人公ルース・スレイターに感情移入して世の中の全部が敵に見える。こんな世の中に生きる意味はない。主人公はどこかで死ぬ勇気を手に入れるべきだ。そう思ってこちらも死にたくなる。
しかし後半になって、ルースが自分の欲求を満たすために他人の迷惑も顧みないで頼みまくる姿に、徐々に嫌気が差してくる。ほぼ他人に命令するかのような厚かましくも図々しい態度である。こんな主人公は早く自殺するべきだと思ってしまう。そして自省すれば自分もルースと変わらないことに気づいて死にたくなる。
世の中が腐っているのか、自分が腐っているのか、それともその両方なのか、いずれにしろ死にたくなるのである。それだけ心を揺さぶってくる映画であり、サンドラ・ブロックの演技は凄かった。
タイトルの「The unforgivable」は直訳すると「許すことのできない人々」となる。刑法上の罰を受けて刑期をまっとうしても、世間は許さない。法律と人心は違うのだ。殺人罪で服役した者は、出所してもまともに生きていけない。であれば、殺人罪の刑罰はすべて死刑にすればよさそうなものだが、世界は死刑廃止の潮流である。
ルースは模範囚で刑期を短縮され、20年で出所した。ルースの命を支えたのも税金である。つまり刑務所が税金で運営されている以上、受刑者は税金で生かされている訳で、そのことも、犯罪者を許さない理由のひとつになっていると思う。
ネットの時代だから、名前でサーチすれば前科などはすぐに明らかになる。出所した死刑囚の就職は困難を極める。社会復帰などという言葉は世間を知らない法律家のお題目に過ぎない。
現行犯を除いて、すべての容疑者には推定無罪の原則が適用されることを人々は忘れている。警察に逮捕された瞬間に犯罪者となってしまうのだ。法律家は冤罪の場合に取り返しがつかなくなることを恐れて死刑を廃止したいようだが、40年も50年も収監されたあとで無罪になったとしても、人生は取り返せない。いっそ死刑にしてほしかったとなるのではないだろうか。
警察は検挙率を上げたい。一度、窃盗犯がでっち上げられている可能性の高い現場に遭遇したことがある。横断歩道で信号待ちをしているときに、横で待っていた自転車の中年男性に二人組の警察官が自転車の登録性はありますかと話しかけた。男性は不快感を隠そうともせずにないよと答えた。警察官は笑顔で、ではちょっとご同行願えますかと言った。笑顔ではあるが、有無を言わせない口調である。男性は仕事で忙しいと抵抗したが、結局は連れていかれた。
様々な問題が想定される作品で、それらの問題を一身に受けたようなルースの無表情が大変に重い。喜怒哀楽や警戒心、敵愾心などを全部合わせたら無表情になるのではないかと思わせる無表情なのだ。
犯罪は独善と不寛容である。子供を虐待する親は、子供が自分のものだという独善から、最悪の場合は子供を殺してしまう。ルースにも同じ独善があったのではないか。
鑑賞後に、解決されない問題が心にわだかまり続ける。名作ではないかもしれないが、問題作であることは間違いない。