三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「The Savior for sale」(邦題「ダ・ヴィンチは誰に微笑む」)

2021年11月30日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Savior for sale」(邦題「ダ・ヴィンチは誰に微笑む」)を観た。
 
 絵画や彫刻など形のある芸術に値段が付くのは、それを所有したい人間がいるからだ。部屋の壁が殺風景だと思ったら、絵を飾るといい感じの壁になる。無機質な長い廊下でも、壁に一定の間隔で絵を飾ったり、曲がり角に彫刻を置いたりすれば、心が和む。そのために芸術作品を手に入れたい。
 有名な芸術家の作品は庶民には手が届かないが、街角のギャラリーで時々見かける無名の作家の作品は、それほど高くない。版画や印刷はもっと安い。最初はそういったもので満足するが、徐々にもっといい絵、もっといい彫刻が欲しくなる。所有欲には限りがない。
 
 趣味で一定のカテゴリーの物品を所有する人達がいる。いわゆる道楽だ。知人に靴道楽や腕時計道楽の人たちがいて、他の出費を削ってでも靴や腕時計を買っている。高い靴は修理しながら履き続けるそうだ。腕時計も同じだろう。当方は、靴は足を快適に守ってくれればそれでいいし、腕時計は正確な時刻を教えてくれればそれでいいと思っているが、道楽の人たちはそうではないようだ。いい靴やいい腕時計を身に着けることで満たされるものがあるらしい。
 芸術作品や骨董品を集めるのも道楽の一種だろう。価格はピンキリだから、購買能力に応じて集める物品も変わる。庶民的な価格のものは好き嫌いだろうが、ある程度以上の価格のものになると、本当にいいものなのかどうか、本当に作者とされている人の作品なのかといったことが問題になる。そこで専門家なるものが登場する。テキトーな専門家もいるが、X線検査機などを使って科学的に分析する専門家もいる。ルーヴル美術館は後者の代表だ。
 
 芸術作品の価値は客観的な物差しでは計れない。自分で描いた絵を売る人がいれば、それを買う人がいる。値段は互いの交渉で決まる。普通は買い手は安く買いたい筈だと思うが、高く買いたい場合もある。芸術作品の価格は需要供給曲線では決まらないのだ。
 作品の価値が買い手が買った値段に等しくなってしまうことは、由々しき問題である。しかし往々にしてそうなっている。そこには買い手の虚栄心が隠れている。数十万円から数百万円程度の芸術作品なら、個人が飾って来客に見せて、聞かれたら値段を言って感心させるという虚栄心がある。しかしそれ以上の価格になると、庶民の関心は作品そのものではなく、その価格だけである。
 買い手の意図が好き嫌いや虚栄心を通り越して投資目的になってしまうと、価格だけが独り歩きしてしまう。作品の価値が置き去りにされるのだ。
 本作品ではその典型例としての「サルバトール・ムンディ」を取り上げている。学者や専門家、美術商にジャーナリストに大金持ちと狡猾な代理人や競売会社が絡み、それぞれの思惑を紹介する。実にスリリングで虚飾に富んだ世界だ。庶民とはあまりにもかけ離れていて理解し難い部分も多いが、結局は芸術作品が虚栄心と拝金主義のおもちゃにされているということだ。
 
 本来の芸術作品の価値は心を和ませることにあったと思う。子供が描いた絵でも、その両親にとってはプロ画家の絵よりも心が和むだろう。しかし普遍的ではない。その子供が死んだりグレたりしたら、その絵は悲しい絵になってしまう。
 それに対して、芸術作品はどんなときでも無意識に働きかけて心の揺らぎを抑制してくれる。ベートーベンやモーツァルトを聞いて暴れる人はいないだろう。絵も彫刻も音楽も、作品として独り歩きしはじめれば、見る人、聞く人のものになる。
 当方自身も含めての話だが、価格を度外視していいものはいい好きなものは好きという自分自身の判断だけを信じることができればいいのだが、どうしても値段が気になってしまう。芸術を享受する側のレベルはいまだにそんなものである。我ながら情けない。