三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ウェディング・ハイ」

2022年03月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ウェディング・ハイ」を観た。
 本作品はバカリズムの脚本と大九明子監督の演出がとにかく秀逸。主演の篠原涼子をはじめ、役者陣は概ね好演。特にひっかかるところもなく、全体にスムーズな流れである。コメディはあくまでも平凡で常識的なモデルがベースだから、このスムーズさには相当の苦労が窺える。
 岩田剛典と向井理のくだりは要らなかった気がする。披露宴だけで十分に面白かった。流石はバカリズムの脚本だ。笑いを取ろうとする人の心理が事細かに描かれる。高橋克実のシーンが一番ケッサクだった。

 結婚式でスピーチや余興を頼まれたら、誰でも内容をどうしようか考える。一生懸命になってしまう気持ちはよく分かる。
 当方も一度結婚式のスピーチを頼まれたことがあって、考えた末に自作の短い童話を披露した。拍手はもらったものの、あまり受けていないことは空気でわかった。もっと普通のスピーチにすればよかったのかもしれないとも思った。しかし数年経ってその結婚式の出席者の一人に会ったら、当方のスピーチを覚えていてくれた。
 当方も、覚えている他人の言葉はたくさんあるが、そのときにほぼ無反応だったことを思い出す。印象に残る言葉を受け取ったときは、思い切り拍手したり頷いたりする場合と、無反応の場合がある。反応したときは、自分が反応したことの方を覚えていて、相手の言葉の内容を思い出せないことがある。自分が無反応だったときのほうが、相手の言葉の内容をよく覚えていることが多い。多分であるが、心の中で反芻しているから無反応になるのだと思う。
 だから会話で相手に頷かれたり感心されたりされなくても、安心していい。大仰に頷いたり賛同したりするのは、言葉が相手の心に届いていない場合が多い。ほぼ社交辞令なのだ。

 そんなふうに考えるようになってからは、人との会話が楽になった。相手の反応を気にしないから、自分をよく見せようとしたり、言葉を飾ったりしない。虚心坦懐に話すことが一番で、こちらにとっても相手にとっても楽なのである。ノンバーバルコミュニケーションに配慮すればいい。
 本作品では片桐はいりが演じた先生のスピーチがそれに当たる。鑑賞した誰もが彼女の言葉を覚えているとおもう。「蛍の光」の2番の歌詞のように、万感の思いをこめたひと言は、千の言葉を並べるよりもずっと心に残るものなのだ。





映画「アンネ・フランクと旅する日記」

2022年03月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アンネ・フランクと旅する日記」を観た。
 戦時中の日本では、空襲爆撃を避けて田舎に避難することを疎開と言っていたと思う。島国の日本ではどこへ行っても日本語が通じるから、言葉の苦労はない。
 しかし他国と地続きのヨーロッパでは、疎開先が外国の可能性もあり、必ずしも言葉が通じるとは限らない。言葉が通じないことは衣食住の確保を困難にし、死や病気になる可能性を高くする。必然的に他の言語をマスターするようになった筈だ。特にユダヤ人はディアスポラと呼ばれる離散以後は、世界各地に散り散りになって、住み着いた地方の言葉をネイティブと同じように話した。ヘブライ語も喋るから、たいていのユダヤ人はバイリンガルだ。中には女優のナタリー・ポートマンのように6ヶ国語を話す人もいるくらいである。
 
 アンネ・フランクは4歳の頃に危険なフランクフルトからアムステルダムに移住したから、4歳までに覚えたはずのドイツ語よりもオランダ語のほうに馴染みがあったに違いない。オランダ語で日記を書くのは当然である。アンネは日記にキティという名前をつけた。
 ユダヤ人迫害の閉塞状況の中で、それでもティーンらしく未来への希望や広い世界の想像がキティに記されていく。アンネは迫害されても人を信じていたのだ。それは父オットー・フランクが人格者であったことに由来するものだ。アンネは心が広くて優しい父親が大好きだった。母親は嫌いだったけれども。
 
 本作品は日記であるキティが現代のアムステルダムに現れて、世界がアンネの願った状況とはかけ離れていることに衝撃を受ける話である。プーチンが戦争を始めたときに公開されたのは、偶然とはいえ、奇跡的なタイミングであった。
 世界中で出版されていて、タイトルは広く知られているにもかかわらず、世界はアンネの苦しみをちっとも理解していない。精神性の弱い人たちが、自分勝手な思い込みと狂った被害妄想で、他人を傷つける。キティはそのことが耐えられない。アンネの苦しみの全量を背負って現代に現れたキティだが、苦しみは増すばかりだ。
 世界がどんなに平和に見えても、人の心には悪意があり、被害妄想がある。戦争はあなたたちの心にあることを、どうしてわからないの?と、キティに責められているようだった。