三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ニトラム NITRAM」

2022年03月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ニトラム NITRAM」を観た。
 映画の紹介サイトには、子供の頃からバカにされて本名を逆から読んだNITRAMと呼ばれているとあるから、主人公の本名はMARTINだ。
 マーティンのキャラクターについて、映画は現在の振る舞いと家族と医師の言動しか描かない。どうしてこんなキャラクターが出来上がったのか。推測するに本作品は俳句のようにシーンを削ぎ落としているから、不足しているところは観客が推測するしかない。そして観客それぞれのマーティン像が出来上がる訳だ。

 当方なりの推測は次のようである。
 マーティンは子供の頃から悪戯(いたずら)が過ぎる。それで母親を泣かせたこともある。しかし優しい父親は彼を叱らない。彼は他人に迷惑をかけてはいけないという基本ルールを学ばないまま大人になった。母親は権威主義によってマーティンを教育しようとしたが、権威主義は人権を教えないから、マーティンは他人の人権を認めない。だから大人になっても他人に迷惑をかける。マーティンが認めるのは人間関係の順列であり、母親は自分の上にいて、父親は自分より下だ。しかし学校に行くと自分は一番下で、みんなから見下されてニトラムと呼ばれる。犬ならそれで諦めて済むが、マーティンは人間で、しかも男だからプライドがある。
 権威主義は既存の価値観、つまり社会のパラダイムによりかかるから、マーティンは自分なりの価値観を築くことができない。他人の価値観の中で自分の順位を上げたいと願うのみである。そのためには他人に認められなければならない。マーティンの奇行がはじまり、持て余した学校から退学を告げられる。そして10年が過ぎた。

 マーティンの奇行は続いている。それが本作品の冒頭だ。母親は自分の権威主義がマーティンが価値観を深めることを妨げて人間関係の順列だけにこだわる犬のような人間にしたことに気づいていない。しかし父親は気づいていた。逆に父親は自分の過度な放任主義がマーティンの奇行を生んだことに気づいていない。しかし母親は気づいていた。両親は年月をかけて丁寧にマーティンの精神を崩壊させたのだ。しかしふたりともそのことに気づいていない。
 誰からも認められず、順位も上がらないマーティンだが、権威主義の母親に命じられるままに、両親以外との人間関係にも挑戦する。しかし認められることはないし、順位が上がることもない。どこまでいってもマーティンはニトラムなのだ。

 もともとあった破壊衝動がここに来て急激に増大する。もしその破壊衝動が既存の価値観を破壊する方向に向かっていたら、マーティンには別の生き方があったかもしれない。既存の価値観を破壊するということは、新しい価値観を自分で創造するということだ。壊すことは作ることなのである。
 しかし母親の権威主義が染み付いているマーティンの破壊衝動は、既存の価値観を破壊する方向に向かうことはない。そちらに向かうにはこれまでに蓄積してきた被害者意識が大き過ぎるのだ。だから当然のように憎悪に直結する。自分や自分より順位が下の父親を蔑んできた連中への憎悪だ。
 燃え上がる怒りと破壊衝動を抱えて悶々としていたマーティンが、たまたまテレビで見たのが銃乱射事件である。そこから先は一本道だ。マーティンの母親は、無差別乱射事件を起こした原因が自分にあるとは夢にも思わなかっただろう。権威主義者は想像力に欠けるからだ。

 マーティンのような人間は世の中にたくさん存在していると思う。権威主義で人間関係の順列を気にする人間である。そういう人間は自分の順位に満足していない。自分はもっと評価されていいと思って不満を抱えている。しかし銃を乱射するわけにはいかないから、自分より順位が下だと勝手に考えている人間をいじめたりバカにしたりすることで憂さを晴らす。マウンティングは日常茶飯事である。権威主義者はすなわち差別主義者なのだ。
 順位が最下位になってしまったら、誰にも当たりようがなくなる。憂さ晴らしができず、溜め込んだ被害者意識は怒りと憎悪の感情を募らせる。そしてある日、その感情が爆発する。「マーティンのような人間」がマーティンになる瞬間だ。
 本作品はジェンガのように被害者意識を積み上げたマーティンが、ジェンガが倒れるように人格を崩壊させる過程を見事に描いてみせた。かなりの傑作である。

映画「ハングリー 湖畔の謝肉祭」

2022年03月27日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ハングリー 湖畔の謝肉祭」を観た。
 ホラー映画は人の心の闇をデフォルメし、増幅して表現する。そのことだけでも、考えてみればかなり怖い話だ。何が恐ろしいと言っても、人間ほど恐ろしいものはない。そして巻き込まれた人たちが常識的で大人しいほど、怖さは増すはずである。しかし実際の映画には、常識的で大人しい人たちはあまり出てこない。叫んだり暴れたりしないから間が持たないと思われているのだろう。
 そこで本作品だが、被害に遭うのはあまり常識を弁えているとは言い難い若者たちである。当然ながら叫んだり暴れたりする。悲鳴というのは、聞くと不安と疑問が湧き上がりはするが、悲鳴自体は怖くはない。ホラー映画が怖いのは、登場人物に感情移入して、その恐怖を共有するからである。その点で本作品は失敗している。アホな若者たちにはあまり感情移入しないのだ。
 そういう意味では、中田秀夫監督の「リング」は凄く怖かった。登場人物がごく普通の人々であり、日常的な場面に恐怖があったからだ。
 本作品ではグロテスクな描写は短時間で済まされている。予算がなかったのだろうか。どうでもいい若者同士のやり取りのシーンを少なくして、人肉食のグロテスクな場面を多くしたり、登場人物をきわめて常識的な人々にすれば、少しは怖かっただろうし、見ごたえもあったと思う。
 日本のホラー映画の金字塔である「リング」と比べるのは可哀想だが、本作品はちっとも怖くなかった。