三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Comandante」(邦題「潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断」)

2024年07月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Comandante」(邦題「潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断」)を観た。
映画『潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断』オフィシャルサイト

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極限海域を突破せよ!実話を基に描かれる、海の男たちの誇りと絆の戦争秘話/原題:Comandante

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 カッペリーニと聞いて真っ先に浮かぶのは、冷製パスタに使われる細麺だ。モモやイチゴやサクランボなどと合わせて、ちょっと甘いパスタにすることもある。イタリア語では髪の毛という意味があると教わった。潜水艦の名前がカッペリーニ?

 船の名前はともかく、本作品のタイトルでもある艦長は、潜水艦の隅々までを知り尽くし、大局から局所まで、大胆な決断を行ない、正確な指示を出す。なにせ戦争状態だ。統率を保つために、上官の命令は絶対である。しかしカッペリーニ号には、命令系統よりも、信頼関係が優位にある印象がある。艦長の人格の賜物だろう。

 艦長の言葉はいずれも独特の世界観がある。戦争だからな、と言うときには、本当は戦争なんかしたくなかったが、参加した以上、義務は果たさなければならないという、諦観と悲壮感がある。俺たちは船乗りだ、と言うときは、海の男としての誇りがあり、イタリア人だから、と言うときには、出身地の風土と国民性に対する愛着がある。

 この艦長なら、海に投げ出された人を必ず助けるだろうという安心感がある。裏切られても相手を殺さず、食料も平等に分け合う。それは戦争中でも人間性を失わないという矜持でもある。艦長はイタリア人で、海の男なのだ。

 部下はおしなべていい奴ばかりだが、中でも調理担当のジジーノは素晴らしい。料理のことなら何でも知っていて、大量調理にもかかわらず、繊細で美味しい料理を作る。おまけにマンドリンが弾けて歌も上手い。スーパースターである。しかしこのような優れた才能を、戦争は海の藻屑にしてしまう。

 愛しい妻に思いを馳せる艦長は、戦争が何かを知りつつ、自分たちを危険に晒しても、見ず知らずの男たちを助ける。本作品は、人間性と戦争の理不尽とのせめぎ合いを、潜水艦の狭い空間で描き出してみせた。

映画「先生の白い嘘」

2024年07月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「先生の白い嘘」を観た。
映画『先生の白い嘘』公式サイト

映画『先生の白い嘘』公式サイト

7月5日(金)全国公開

映画『先生の白い嘘』公式サイト - 映画『先生の白い嘘』7月5日(金)全国公開

 オトコに人格を蹂躙されて、心底オトコを憎んでいるオンナ。
 オンナの人格を認めず、性のはけ口としての利用価値だけを求めるオトコ。
 オトコの愚かさを理解し、利用しようとするオンナ。
 オンナの欲望が恐ろしくて二の足を踏むオトコ。

 四者四様のバイアスが、それぞれの生き方に影響し、全員が不幸という絶望的な状況からスタートする。そして徐々に関係性が変化していく様を描く。微妙な演技が求められる訳で、奈緒と風間俊介の卓越した演技力があればこそ成立した作品だと思う。

 前日に、女性の立場の苦しさを体現した作家シャーリー・ジャクスンをモデルにした映画を観たばかりだったので、同じく女性差別をテーマにした作品かと思う部分もあったが、どうやらバイアスを手がかりに、人間の精神の闇を表現するのが主眼のようだ。
 ただ世界観は狭く、人物像がなべて浅い。マウント争いみたいなシーンも登場するので、もう少しマシな登場人物がいてもよかった気がする。人間はそれほど単純ではない。原作も同じなのだろうか。

 あまり面白い作品ではないが、性と生殖という、動物にとっては同じ意味のふたつの言葉が、人間にとっては実は決定的な違いがあるものだという着眼点は、古くて新しい。性に振り回され、生殖に未来と安定を夢見る人間という生物の不条理は、俳優陣の見事な演技で存分に表現されていた。

映画「Shirley」

2024年07月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Shirley」を観た。
SENLIS FILMS

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 シャーリー・ジャクスンという作家は、本作品で初めて知った。著書がいくつか日本でも販売されているようなので、機会があれば読んでみたい。

 人間は本当のことはなかなか言えないものだ。良識や常識といったベールを被り、理性の仮面をつけて生きている。しかしそれは本当のことではない。ときに狂おしいほどの怒りを覚えたり、絶望的に捨て鉢になったりする。世間のパラダイムをひっくり返したいとも願う。画家は世界の本当の姿を表現しようとして絵を描く。作家は本当のことを言おうとして小説を書く。

 シャーリーの台詞の端々に、怒りや絶望や価値観の否定が垣間見えるのは、作家が本当のことを書きたくて苦しんでいることの現れだ。エリザベス・モスは凄い。プロデューサーに名を連ねているだけあって、女性作家が苦しんだ事実を、現代に表現することの意義をよく理解している訳だ。本物のシャーリー・ジャクスンもかくありなんと思わせる。

「あんな女に友だちはいない」と、シャーリーを否定するフレッドには、友だちがいるのがいい人間だというバイアスがある。そして妻のローズには、夫の愚かさを察していたフシがある。作家は日頃の言動ではなく、作品で評価されなければならない。そしてシャーリーの作品は、その精神性の豊かさを物語っている。冒頭でローズがシャーリーの作品を読んで感動するシーンは、本作品に必須のシーンだったのだ。オデッサ・ヤングの見た目は18歳のローズを演じるにはやや無理があったが、その演技は見事だった。

 1949年にシモーヌ・ド・ボーヴォワールが「第二の性」を刊行してから75年。女性解放はまだまだ道半ばである。