映画「越境者たち」を観た。
原題は「Les savivants」で、直訳すると「生き残った人々」である。それぞれの事件や事故から生き残った二人が出逢う物語である。二人の名優ドゥニ・メノーシェとザーラ・エミール・アブラヒミの掛け合いは、臨場感といい、緊迫感といい、とても見ごたえがあった。
サミュエルは何故、チェレーを助けたのか。そこに本作品の核心があると思う。自由のない国から、自由を求めて越境してきたチェレーは、更に進んで、山の中にある難民施設を目指す。一方、サミュエルには罪悪感と義務感がある。過失は償わねばならないが、育てることを放棄することもできない。苦悩を抱えたサミュエルは、気持ちを整理し、考えをまとめるために別荘の山小屋に行く。
山小屋に侵入していたチェレーを見つけたサミュエルは、状況を瞬時に理解する。難民や越境者は、フランスでは日常茶飯事である。受け入れに対する賛否の議論も喧しい。フランス人のサミュエルがチェレーが難民であることを理解するのに、数秒もかからない。
おそらくではあるが、サミュエルはハムレットよろしく、生か死かに悩んでいたが、本人にはその自覚はなかった。チェレーを発見すると、助けが必要であることに気がつく。山に慣れていなければ、ちょっとしたことですぐに死んでしまうだろう。
助けることは自分の身を危険に晒すことを意味する。サミュエルは、それで死んでも構わないと考えたのではないか。自決を選ぶのは育児義務の放棄だ。しかし人を助けるために死んだのなら、八方に言い訳が立つ。助けられなかった記憶が、サミュエルの行動を決めたのだ。
多くのテーマが錯綜した作品だ。難民に対するヘイトのパラダイムがある。その主体は愚かな国家主義者だ。フランスは、自由と平等のパラドクスを解決するのは友愛であるという世界観を生んだ。しかし革命から200年以上の時代を経て、友愛の精神が薄れつつある。そして台頭したのが、ヘイトクライムを繰り返す極右の国家主義者たちである。
ヘイトは、自分の欲望の充足を阻害されるかもしれないという被害妄想から生じる。被害妄想は怒りに直接結びつく。同じ怒りを抱えた連中が連帯して、困っている人々を助けたい人々の行動を否定し、邪魔しようとする。怒りに駆られた人間は、自分の愚かさに気づくことはない。
サミュエルにとってチェレーとの逃避行は、自分の苦悩との戦いであり、世間の愚かさとの戦いでもある。ヘイトの連中にも人権はある。困っている人々にも同じ人権がある。廃れようとしている友愛の精神がサミュエルの心に蘇ったとき、未来が見えてくる。
チェレーがサミュエルにあるものを託すのだが、それは、何もかもが終わったら帰って来るという意味なのか、もう二度と帰ることはないという意味なのか、そのどちらでもないのか、よくわからない。ただ悪い意味ではないことだけはわかる。サミュエルが笑ったのはそのためだ。素晴らしいラストだった。