映画「めくらやなぎと眠る女」を観た。
以前から思っていたのだが、村上春樹の文体は、平易なのに読み進めるのが困難だ。未だに読破できていないサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝さん訳)の文体にも、同じような難解さを感じた。読者を自分の世界に引きずり込もうとする、底なし沼のような文体なのだ。足を取られまいとすると、前に進めない。多分、ハマる人とハマらない人に極端に分かれるのだと思う。ハマる人にはわかりやすく、あっという間に読破できて、読み終えた途端にファンになる。村上春樹ファンとサリンジャーのファンには、共通する部分があると思う。しかしハマらない人は、読破すらままならない。
両作家には、複数の短編小説が、寄せ集めると長編になるような関係性を持っているところも、共通している気がする。それぞれの作家の世界観が、現実世界の世界観と、決定的に相容れないところも、多分共通している。
本作品のポスターには、英語で based on works by Haruki Murakami とあるから、村上春樹の複数の仕事に基づいている訳で、それはつまり、いくつかの小説をひとつの映画にしたという意味合いなのだろう。村上春樹を読んでいなくてもそこは理解できる。
主人公というべき登場人物はふたりいる。コラージュのような作品だが、あまりとっ散らかっても困るので、ふたりの勤務先は同じになっている。部署も同じで、仕事はオーバーラップしている。
共通しているところは、世界への接し方だろう。ふたりとも、世界にも自分にも、多くを望まない。仕事は真面目だが、自分のやりたいことが何なのか、考えることはしない。ふたりの日常生活を描いたところで物語にはならないが、東日本大震災のもたらした心的ダメージと、同時に生活を一変させるような外的な変化を持ち込むことで、ふたりの日常を異化させる。ふたりは、追い込まれることで、これまで意識の外に追いやってきた、現実世界と自分の関わり合い方を考え直さざるを得なくなる。現実世界と自分の生、現実世界と自分の死。
勝手な推測だが、村上春樹の文章は、英語を翻訳したみたいなところがある。だから翻訳のサリンジャーと同じような読みづらさを覚えたのかもしれない。本作品は、日本語の小説がベースのフランス映画だが、言語は英語だ。それがよかったのだろう。
小説ではあれほど晦渋に感じた村上春樹の世界が、本作品ではいともわかりやすく、そして愛おしく受け入れられる。その世界観は至って普通で真面目で率直で、共感できるところも多かった。ストーリーよりも、現実に直面する主人公の心象風景が興味深く、楽しく鑑賞できた。
恐怖の克服という、般若心経とニーチェに共通する哲学をカエルが滔々と述べ立てたり、物語を説明するのに別の物語を披露したりと、村上春樹ワールドが自在に広がっていて、映画としては実に面白い。いろいろと腑に落ちた作品である。