三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「墓泥棒と失われた女神」

2024年07月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「墓泥棒と失われた女神」を観た。
映画『墓泥棒と失われた女神』オフィシャルサイト

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アリーチェ・ロルヴァケル監督(『幸福なラザロ』)最新作。《幻想》を追い求める墓泥棒たちの数奇な物語。7月19日(金)公開

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 アリーチェ・ロルヴァケル監督の作品では、2019年に「幸福なラザロ」を鑑賞した。ドストエフスキーの「白痴」に似た雰囲気と世界観を持つ作品として、高く評価した記憶がある。

 本作品の主人公アーサーは、イタリア語でアートゥーと呼ばれる。田中という苗字の人が中国ではディエンツォンと呼ばれるようなものだろう。特技はダウジングで、棒や振り子がなくても探せる。
 気になるのは、アーサーの能力はいつから目覚めたのかということだ。当方は、恋人ベニアミーナの失踪の後だという気がする。ベニアミーナを探そうとすると、気が遠くなることがあって、その地面の下には古代エトルリアの墓がある。
 古代エトルリアは、現代のトスカーナ地方を中心に広がっていた都市国家群で、古代としては珍しく、女性の地位が低くなかったらしい。ベニアミーナの失踪は、古代エトルリアの遺跡と関係しているに違いないが、詳しいことは何も語られない。
 ただ、ストーリーの上で女性が活躍するという点では、古代エトルリアに共通するものがある。そして何故かアーサーの周囲には女性がたくさん集まる。アーサーは考古学愛好家だから、ベニアミーナも同じように古代に詳しかったのだろう。特に古代エトルリアについては、彼女は好んで研究していたと思われる。

 墓泥棒のろくでなしたちに重宝されて仲間に加わっているアーサーだが、仲間と違って、金儲けにはあまり興味がない。ベニアミーナを探し出して、また一緒に考古学の研究をするのが夢だ。アーサーがその意味の台詞を言うシーンはないが、物語の中でアーサーの真意が浮かび上がってくる。
 毛糸のような赤い糸が、いくつかのシーンで登場する。運命の赤い糸のようだ。ベニアミーナとアーサーを結ぶ赤い糸。いつか赤い糸の端を探し出し、それを辿ってベニアミーナのもとに行く。そう願っているアーサーだが、行き着くのはいつも古代エトルリアの墓や遺跡だ。
 現実と幻想が錯綜したアーサーの精神性を上手く描いた作品で、現実なのか夢なのか分からぬまま、赤い糸の端に出逢う。その先にベニアミーナがいるに違いない。アーサーは糸を掴む。しかしすぐに現実を知ることになる。糸は切れるのだ。それはたぶん、女神像の頭部を折ったのと同じだ。だからあのときアーサーは激怒した。

 古代と現代、生者と死者。時の流れがすべてを忘却の彼方に押しやるが、忘れられないものもある。欲に塗れた世の中だが、美しいものはまだ残っている。アーサーは優しさに巡り逢えるだろうか。

 ところで、トスカーナと言えば、葡萄のサンジョヴェーゼ種。サンジョヴェーゼと言えば、赤ワインのキャンティである。キャンティはたくさん種類があって、置いているレストランも多い。これからキャンティを飲むたびに、この映画を思い出すことにしよう。

映画「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」

2024年07月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」を観た。
映画『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

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映画『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』7月19日(金)全国の映画館で公開!人類初の月面着陸に関するあの噂!歩いたのは月の上?それとも?

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 黒猫が前を横切ると縁起が悪いというのは、魔女狩りの歴史に関係している。黒猫は魔女の使いで、不幸をもたらすというのである。迷信だ。黒猫は幸運を呼ぶという迷信もある。夏目漱石の「吾輩は猫である」のモデルは黒猫だったという話がある。街角で見かける「シャノアール」という喫茶店は、フランス語の Chat noir(黒猫)に由来する。ちなみにChatはオスの猫でメスの猫はChatteだが、Chatte noire と言うと大変な意味になるので、ご注意を。

 本作品では黒猫がある種のトリックスターとして登場する。不幸をもたらすのか、幸運を呼ぶのか、それともその両方なのか。個人的な話だが、前日に映画「化け猫あんずちゃん」を観たので、猫に縁がある気がしたが、こんなシンクロみたいな話も迷信の一種か。

 商売人はプロモーションをとても大事にする。どのようにすれば売れるか。それにはPR(パブリックリレーションズ)の捉え方が重要だ。同じ商品でも、プロモーションが上手くいけば売れるし、そうでなければ売れない。実は公職の選挙でもプロモーションが大事で、戦略に失敗したらどれだけ人格や政策が優れていても、当選できない。
 逆に言えば、上手くやれば無能な人間でも当選させることができる。マーケティングやプロモーションのプロは、有権者には人格や政策の優劣を判断する能力がないと決めつけている訳だ。
 中国の諺で朝三暮四というのがある。プロモーションが成功した典型的な事例で、本質を理解できない民衆の愚かさを表現している。日本では萩生田百合子の都知事3選の事例もある。有権者の大半は愚かだと言われても、何も反論できない。アメリカでも事情は同じだ。バイデンかトランプの二択という絶望的な状況を作り出したのは、政党というよりも愚かな有権者だと言える。

 詩人の中原中也は、民衆の愚かさを次のように表現している。

さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂(わら)はれないですむだらうか、とかと
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
僕はあなたがたの心も尤もと感じ
一生懸命郷に従つてもみたのだが
(「山羊の歌」より「憔悴 Ⅴ」の一節)

 スカーレット・ヨハンソンが演じるケリーは、民衆が何に利益を感じるか、恥をかかないために何を求めるか、よく知っている。PRの本質がそこにある。だからそこに時間と労力とカネをかける。資本の投下だ。つまり海老で鯛を釣るのが資本主義なのである。誠実さとは正反対だ。嘘をつけない人間は、稼げない人間として切り捨てる。そこには、女だからとして不当に切り捨てられた過去の恨みもあるに違いない。
 そんなケリーの改心はやや安直すぎるきらいがあり、またキリスト教の熱心な信者である議員との会話に違和感を覚えたが、アメリカのパラダイムを考えれば、納得できる部分ではある。誰もが知る歴史的な偉業を、当事者でも科学者でもない視点から描き、異化させた点は評価されていいと思う。映画として面白かった。

 本作品では、シーンごとに変わるスカーレット・ヨハンソンの衣装にも目を奪われた。女盛りのふくよかな身体には、どんな衣装もよく似合うが、女性が女性であることを武器にしなければならない時代でもあったということだ。現代でもそれは変わらない気がする。

映画「化け猫あんずちゃん」

2024年07月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「化け猫あんずちゃん」を観た。
映画『化け猫あんずちゃん』公式サイト

映画『化け猫あんずちゃん』公式サイト

森山未來が37歳の化け猫に!世界が注目する才能が集結!日仏合作アニメーション『化け猫あんずちゃん』絶賛公開中!

映画『化け猫あんずちゃん』公式サイト

 37歳のあんずちゃんは人間並みの大きさで、箸も箒も釣り竿も使える。地域に馴染んでいて、もはや誰も驚かない。原付に乗ってマッサージの仕事に行く。受注は直電の携帯だ。

 鑑賞前の印象では、落ち着き払ったあんずちゃんが、快刀乱麻を断つように難題を解決してスカッとする物語かなと思っていた。ところがあんずちゃんは、人間の基準で言えば、典型的な俗物で、これといった特技もない。近所をほっつき歩くような平凡な日常風景が続く。

 どうなることかと思っていたら、後半になると、ゲゲゲの鬼太郎を彷彿させるアクションシーンが登場する。このあたりが本作品のハイライトなのだろう。サラリーマンみたいなノリの鬼たちが面白い。そして小柄なのに体重1トンはあろうかという迫力満点の閻魔大王が、圧倒的な存在感で場を支配する。
 あんずちゃんはと言えば、突出はしていないが、人並みに活躍する。そして撃沈。死に対する戦いなのだ。もともと勝てるはずがないのである。それを思い知るのが、もうひとりの主役のかりんだ。化け猫あんずちゃんは、かりんを成長させるトリックスターだったという訳だ。納得。