三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ある一生」

2024年07月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ある一生」を観た。
映画『ある一生』公式サイト

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アルプスの山とともに生きた、名もなき男の生涯。困難を背負いながらも至福と愛の瞬間に彩られた人生が胸に迫るー世界的ベストセラーを映画化 7月12日(金)より新宿武蔵野館...

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「人はどこでも幸せになれる」
 主人公エッガーが年老いてから出会った年配女性は、経験に裏打ちされた人生観を述べる。エッガーは頷く。それはエッガーの人生観でもあるのだろう。そして本作品の世界観でもある。

 静かな作品である。弦楽器とピアノのBGMが心地よい。静けさはエッガーの無口に由来するところが大きい。なにせ少年期のエッガーは何も話さない。アルファベットのいくつかを口にするだけだ。どうやら文盲だったようで、エッガーの母親の姉の夫の母親が文字を教えてくれるシーンがある。

 別れがあり、出会いがある。多くの悲運を無言でやり過ごすエッガーだが、一度だけ、饒舌になったシーンがある。それはエッガーの恋だ。人はどこでも幸せになれる。エッガーにとって最高に幸せな時間だった。

 本作品には、いくつか洒落た仕掛けがある。
 高山植物のエーデルワイスは、日本語では深山薄雪草で、花言葉は大切な思い出、それに忍耐と勇気だ。エッガーが終点まで乗るバスの名前がエーデルワイスなのである。思わず拍手したくなった。
 朽ちた柩から落ち葉のように零れ落ちた手紙のシーンは、マリーが返事をくれたかのようである。エッガーの人生は彼だけのものだが、マリーとの時間は、エッガーにとって宝石のような時間だった。

 原題も邦題と同じ「一生」である。ある無名の男がある時代に生きた。ひと言で言えばそういうことだ。人生に何か意味があるとは言わない。しかし軽んじていい人生などない。強いメッセージ性のある作品だと思う。

映画「お母さんが一緒」

2024年07月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「お母さんが一緒」を観た。
映画『お母さんが一緒』公式サイト

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 ペヤンヌマキの脚本がすべてと言っていい。ペヤンヌマキは今年1月に公開されたドキュメンタリー「映画 ◯月◯日、区長になる女。」の監督を務めていて、いい距離感の撮影と効果的な編集で、インパクトのある見事な作品に仕上げていた。

 本作品は、3人姉妹の会話劇である。そもそも姉妹というのは、互いに親しみを覚えつつも、嫉妬心や虚栄心、優越感と劣等感が入り混じった感情があって、一筋縄ではいかない関係だ。互いに相手を尊敬しあえれば良好な関係になるが、尊敬できないときは、おどろおどろしい関係になる。
 本作品はまさにおどろおどろしい関係で、知性のない会話は優位争いに堕して、発言するたびに発言者が優位に立つ。言い返せないと負けになってしまう。勝ち負けの判断基準は世間の基準であり、パラダイムだ。自分で考えた世界観は皆無である。姉妹それぞれに悩みはあるが、哲学のない苦悩は喜劇だ。本作品はまさに喜劇そのものである。

 ブザマであさましい姉妹の姿は、人によっていろいろな受け取り方があると思う。人間は単純で可愛い存在だという受け取り方もあるし、人間は愚かで救いようのない存在だという受け取り方もある。映画は答えを出さず、ただ姉妹のありようを見せるだけだ。
 人々が日頃は隠している負の感情や悪意を、姉妹はさらけ出してみせる。そんなものを正面からぶちまけられたら、誰でも怒りに顫えるが、それでもまだ関係性を維持しようという気持ちがある。それを怒りが超えてしまうと、場合によっては殺人事件にまで発展する。兄弟間の殺人事件は数え切れないほど起きている。

 姉妹の、かろうじて殺人に至らないような危ない関係は、ある意味で他人から見れば笑える関係である。危険だからこそ笑えるのかもしれない。本作品には、人間から気取りの仮面を取り去った、自然主義文学みたいな面白さがあった。女優陣は揃って怪演。プライドや羞恥心をかなぐり捨てた、本気の演技を堪能することができたと思う。