三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「クレオの夏休み」

2024年07月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「クレオの夏休み」を観た。
映画『クレオの夏休み』公式|7月12日(金)公開

映画『クレオの夏休み』公式|7月12日(金)公開

映画『クレオの夏休み』公式|7月12日(金)公開

 クレオにはある思い出がある。わずか3年か4年前のことだ。しかし6歳のクレオにとっては、人生の半分以上前のことである。だからクレオはずっと前のことだと話す。忘れたい気持ちがあるのだ。しかし本当は一度も忘れたことはない。
 ずっと付き添ってくれた乳母のグロリア。その母の墓の前。クレオは泣いた。思い出したのだ。グロリアは、クレオがどうして泣いたのか、もちろん分かっていた。それでもクレオが自分の母のために泣いてくれたように思えた。クレオはいい娘だ。

 人は幼い頃、自分が世界の中心でないことに気づくときがくる。そしてはじめて、客観視した自分のことを記憶する。物心つくとはそういうことだ。クレオはもう一度世界の中心に戻りたいと願うが、その願いは理に適っていない。もはや戻れないのだ。
 セザールもまた、クレオの存在によって、同じことに気づかされる。自分は世界の中心ではない。そんなことは分かっている。いや、分かっているつもりだった。クレオが来て、自分のことをちっぽけな存在だと顧みる。そしてセザールは、自分は愛情を注がれて育てられたのだと、やっと理解する。
 クレオは、新しく母親になったナンダにも影響を与える。幼いクレオが示した身勝手さは、そのまま自分の身勝手さだ。ナンダは来し方を振り返る。自分も愛情いっぱいに育まれた。今度は自分が愛情を注ぐ番だ。

 脚本、監督はマリー・アマシュケリ。心象風景を象徴的なアニメで表現する手法を取り入れ、低予算でも内容の濃い作品が作れることを証明した。そして、登場人物の情緒の変遷と、変化していく人間関係のダイナミズムを、僅かなシーンや微妙な表情で見事に表現してみせた。短い作品ながら、見ごたえは重量級だ。凄い才能である。

映画「大いなる不在」

2024年07月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「大いなる不在」を観た。
作品情報 I 映画『大いなる不在』公式サイト

作品情報 I 映画『大いなる不在』公式サイト

近浦啓監督作品『大いなる不在』2024年7月12日(金)テアトル新宿、TOHOシネマズシャンテ他 全国順次公開

作品情報 I 映画『大いなる不在』公式サイト

 1972年に出版された有吉佐和子の小説「恍惚の人」が、痴呆症もしくは認知症を扱って有名になった最初の作品だと思う。恍惚はうっとりする様子だが、惚は惚ける(ぼける)にも惚れる(ほれる)にも使われる漢字だ。もしかしたら同じ意味なのかもしれない。

 ひとつの屋根の下に10人かそれ以上が暮らしていた大家族の時代には、惚けた老人をみんなで面倒を見ていたから、ひとり当たりの負担はそんなに大きくなかった。高度成長期で核家族化が進むと、惚けた老人の介護負担が徐々に問題になってきた。有吉佐和子の小説はその頃に発表されたので、すこぶるタイムリーでベストセラーになった。

 現代は核家族化どころか、ひとり世帯が多く、親類縁者のいない老人は、惚けても誰も世話をしてくれないから、孤独死することがよくある。一時は老人の孤独死がニュースになっていたが、あまりに事例が多いので、最近はあまり報道されない。しかし実際はたくさん起きていると考えて間違いない。
 報道はされないが、ドラマになることはある。吉高由里子がヒロインを務めたテレ朝のドラマ「星降る夜に」で、北村匠海が演じた相手役の職業が遺品整理士で、孤独死の部屋を片付けるシーンがある。強烈な臭いがしたり、ゴミが溢れていたりする悲惨な現場だ。そういう職業が成り立つということは、需要があるわけで、すなわち孤独死が多発している証左でもある。

 さて本作品も認知症がテーマだ。大学教授が認知症になったら、こんなに理屈っぽくて嫌味な人間になるのかと思ってしまうほど、藤竜也の演技は凄かった。82歳が71歳の認知症を演じたわけだが、藤竜也クラスになると、もはや年齢はハードルにならない。森山未來は、妻がいて生活基盤のある中年男性らしい、落ち着いた息子を存在感十分に演じた。この人の視点があるから、物語が安定したと思う。

 認知症そのものよりも、症状が進んでいく過程で、どんどん変化する周囲の人間との関係性に重点が置かれていると思う。シーンの並びは、変化する前と後の関係性の対比になっているから、観客は時系列を整理するのに苦労する。
 それに喪失の物語でもある。喪失した時間を取り戻せたと思いきや、再び喪失してしまうという不幸の話だ。そして幸福な時間と不幸な時間は、記憶の中にだけ存在する。違う言い方をすれば、現実の幸福が失われても、記憶の中の幸福は生きている。逆もまた然りだ。
 そこにあったものと、なかったもの。そこにいた人といなかった人。記憶は薄れていき、変化して、思わぬ妄想となることもある。しかし、そもそも人生そのものが、妄想としてスタートしたのではないか。
 時系列を整理する必要などなかったことに気づくのは、鑑賞後である。人生は、妄想なのだ。とても面白かった。