映画「クレオの夏休み」を観た。
クレオにはある思い出がある。わずか3年か4年前のことだ。しかし6歳のクレオにとっては、人生の半分以上前のことである。だからクレオはずっと前のことだと話す。忘れたい気持ちがあるのだ。しかし本当は一度も忘れたことはない。
ずっと付き添ってくれた乳母のグロリア。その母の墓の前。クレオは泣いた。思い出したのだ。グロリアは、クレオがどうして泣いたのか、もちろん分かっていた。それでもクレオが自分の母のために泣いてくれたように思えた。クレオはいい娘だ。
人は幼い頃、自分が世界の中心でないことに気づくときがくる。そしてはじめて、客観視した自分のことを記憶する。物心つくとはそういうことだ。クレオはもう一度世界の中心に戻りたいと願うが、その願いは理に適っていない。もはや戻れないのだ。
セザールもまた、クレオの存在によって、同じことに気づかされる。自分は世界の中心ではない。そんなことは分かっている。いや、分かっているつもりだった。クレオが来て、自分のことをちっぽけな存在だと顧みる。そしてセザールは、自分は愛情を注がれて育てられたのだと、やっと理解する。
クレオは、新しく母親になったナンダにも影響を与える。幼いクレオが示した身勝手さは、そのまま自分の身勝手さだ。ナンダは来し方を振り返る。自分も愛情いっぱいに育まれた。今度は自分が愛情を注ぐ番だ。
脚本、監督はマリー・アマシュケリ。心象風景を象徴的なアニメで表現する手法を取り入れ、低予算でも内容の濃い作品が作れることを証明した。そして、登場人物の情緒の変遷と、変化していく人間関係のダイナミズムを、僅かなシーンや微妙な表情で見事に表現してみせた。短い作品ながら、見ごたえは重量級だ。凄い才能である。