映画「AGANAI 地下鉄サリン事件と私」を観た。
当方は無宗教である。神は信じる人の心の中には存在するのかもしれないが、当方の心のなかに神は存在しない。だからといって宗教を否定することもないし、信者を侮ることもない。憲法にある通り、信教の自由は守られなければならない。オウム真理教や創価学会といったカルト宗教も例外ではない。
しかしと、さかはら監督は言う。地下鉄サリン事件を起こしてもなお、オウム真理教と麻原彰晃を信じるのかと、現役の信者でありオウム真理教の広報部長であった荒木浩さんに迫る。痩せて弱々しい荒木さんは、見かけとは裏腹の芯の強さを見せて、それでも信じると断固として信仰を曲げない。
さかはら監督は、なんとしても荒木さんに謝らせたいようで、何かにつけて謝罪しろと言う。荒木さんは不本意であることをあからさまに示しつつも、何度かに一度は謝罪する。太って強気なさかはら監督が痩躯の荒木さんに謝罪しろと迫るのは、クレーマーが謝罪に来た企業の人に土下座しろと迫るのに似ている。
荒木さんには山ほどの反論がある筈だ。当方が先ず浮かんだのは、十字軍である。キリスト教の聖地奪回の大義名分の基に略奪と破壊と虐殺を繰り返した。それでなくてもキリスト教は宗派の違いによる戦争でたくさんの犠牲者を出している。それらの犠牲者に対してさかはら監督は、現在のキリスト教徒に謝罪しろというのだろうか。バチカンに行ってローマ法王に謝罪を求めるのか。
次に浮かんだのは日中戦争である。関東軍は南京大虐殺をはじめ、多くの無辜の中国人を虐殺し物資を奪い女子供を強姦し家に火を放った。当時の日本人はマスコミの大本営発表にも踊らされ戦争に熱狂していた。頑張れニッポンだったのである。結果として中国から東南アジアの広い地域に数多の犠牲者を出した。それらの犠牲者に対して、当時の日本人全員に謝罪させるのか。
原子爆弾の被害者は広島、長崎の被爆者とビキニ環礁での被曝者である。何十万人も死んだ。加害者は米軍だ。米軍の誰に謝らせるのか。または当時のアメリカ国民全員に謝罪させるのか。広島、長崎は戦争の当事国だったからまだしも、ビキニ環礁の水爆実験の被害者はまったく無辜の人々である。誰が誰に謝罪して、誰が誰に責任を取るのか。
アメリカの同時多発テロ事件を起こしたアルカイダはイスラム原理主義者である。さかはら監督はイスラム教徒に対して、テロ事件の犠牲者に謝罪しろというのだろうか。ジョージ・ブッシュは人気取りのためにテロとの戦いを標榜し、軍需産業の後押しもあって、ありもしない大量破壊兵器を隠し持っているとしてイラク戦争を始めた。小泉純一郎は「ブッシュ大統領があると言ったらあるんだ」と根拠のない主張でアメリカを支持し、イギリスのブレアは自国の軍隊を参加させた。イラク戦争の犠牲者は数十万人と言われ、民間人も多く含まれている。ブッシュも小泉もブレアも人殺しである。さかはら監督は小泉をイラクに連れて行って謝罪させればいい。
しかし荒木さんはさかはら監督にひと言の反論もしない。出てくる言葉は非常に内省的で、自分がどのようにして麻原彰晃を信じ、オウム真理教に救いを求めるようになったかを切々と語る。京都大学で直接麻原彰晃と対峙した後で食欲と性欲を感じなくなってしまった話や弟の病気の話をする。特に弟の病気については、自分の精神性について家族と決定的な隔たりを覚える。それは存在と関係性についての認識そのものの危機であったが、さかはら監督には通じない。家族を大事にしろと説教し、両親に会いに行けと強要する。この人は荒木さんの話を聞いていなかったか、理解しようとしなかったか、あるいは理解できなかったのだ。さかはら監督の言葉に「京都大学まで出て」という意味の言葉があった。権威主義の現れである。
ここで改めて申し上げるが、当方は無宗教である。オウム真理教も荒木さんたちの会も支持することはない。しかしさかはら監督の態度には違和感を覚えざるを得ない。
非常に考えにくいことだが、本作品は荒木さんによるプロパガンダかもしれない。映画を観れば分かる通り、荒木さんとさかはら監督の関係性は被害者代表と加害者代表のようでありながら、部下と上司のようでもある。荒木さんが部下でさかはら監督が上司だ。部下は上司に逆らえないし、反論も出来ない。さかはら監督が悪役で荒木さんが脅されているみたいに見えるのだ。あるいは権威主義で家族第一主義の単細胞の政治家と思慮深い沈思黙考型の官僚のようにも見える。
取材の申込みから撮影に至るまで1年間かかったとのことだから、荒木さんの準備は相当なものであったのではないか。さかはら監督は知ってか知らずか、怒りの感情にまかせて謝罪しろと迫り、期せずして悪役を演じてしまった。単純に謝罪を要求するさかはら監督に対して、エピソードトークから信仰の本質に迫る話をする荒木さんの立ち位置は、一連のオウム事件とは無関係の、信心深いひとりの信者といったところだ。それを見事に演じきってみせたように感じた。しかし本当のところは定かではない。多分永遠に分からないだろう。