三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「まともじゃないのは君も同じ」

2021年03月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「まともじゃないのは君も同じ」を観た。
 女子高生と予備校講師という組み合わせは、恋愛ドラマとしては初めて見た。予備校という施設の性格からして、その場所で恋愛が育まれることは考えづらい。しかし本作品ではいくつかの条件をクリアすることでそれを可能にしたと思う。あくまで当方の勝手な想像ではあるが、以下のような条件だ。
・予備校はマンツーマン形式である
・女子高生は数年前から同じ講師に講義を受けていて気心が知れている
・女子高生は成績が優秀で、志望大学の入試に心配がない
・成績優秀が示すように、頭がいいから大人との会話ができる
・講師側も女子高生の合格見込みが高いので講義や時間に余裕がある
・講師はリベラルで女子高生の人格を尊重している
・女子高生の親は放任主義または娘を全面的に信頼している
 まだ考えられる条件はあるかもしれないが、恋愛成立に直接的に必要な条件はこのくらいではないかと思う。しかしこれらの条件を満たしたからと言って、すぐさま恋愛がはじまる訳ではない。では他に何が必要なのか。それを上手に描いたのが本作品である。
 成田凌はここ数年で鑑賞した映画では「スマホを落としただけなのに」のサイコパスみたいな犯人役や「カツベン!」の活動弁士役が印象的で、それぞれ全く異なる役を見事に演じているように、演技には太鼓判を押せる。清原果耶も成長著しく、本作品では演技上手なふたりがプラトニックではあるがトリッキングな恋愛模様を上手に演じてみせた。
 脚本と演出がいい。演技がワンパターンの小泉孝太郎や表情の乏しい泉里香が脇を務めたが、脚本に助けられてのっぺりしたシーンにならずにすんでいた。ただ脚本にひとつだけ減点をつけるとすれば、泉里香とのシーンで主人公大野が突然饒舌になったのは違和感があった。その後に説明のシーンがあるが、ここはシーンを前後させたほうがよかった気がする。そのあたり以外は自然に台詞がつながっていて、最後まで楽しく鑑賞できた。
 とにかく主人公ふたりの演技が完璧だということに尽きる。成田凌の大野は数学オタクの塾講師ならさもありなんという典型的な演技だった。普通ってなんだというオタクらしい心の叫びが非常に頷ける。「普通」というのはありふれたという意味だ。「普通はこうでしょ?」とイチャモンをつけてくるクレーマーがいたが、同じような意味で「普通」を間違って使う人が多い。大野の言い分は至極もっともなのである。
 清原果耶の秋本香住の演技は大人になりかけの18歳の女子高生らしい揺れる心が伝わってくる。切なくて愛しくて悔しくてという乙女心をストレートに表現する映画は、なんだか懐かしい気がした。青春ラブストーリーの秀作である。

映画「シティーコップ 余命30日?!のヒーロー」

2021年03月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シティーコップ 余命30日?!のヒーロー」を観た。
 映画は静かに観る方だが、本作品ではいくつかのシーンで思わず笑ってしまった。フランス映画らしいエスプリの効いた笑いが炸裂している。兎に角アホなシーンの連続で、登場人物がみんな大真面目だから、その対比がとても面白い。さり気なくエロティックなシーンも入れているところもフランス映画らしくて、そういう部分でもかなり満足する。
 フランスは事実婚が多いと聞くが、事実婚ならではの割り切りにくさもあるようだ。強い嫁はそれほど悪人ではないようだが、その思惑に年甲斐もなく乗っかってしまったおばあちゃんのぶっ飛びぶりがケッサクである。歳だからといって恋愛に消極的になったりしないフランス女性の本領発揮というところだ。
 コメディらしく、登場人物はみんな不死身で元気一杯だ。こちらも元気を分けてもらった気がする。それにしても、メキシコ政府から抗議が来なかったのか心配になった。

映画「すくってごらん」

2021年03月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「すくってごらん」を観た。
 いやはやなんとも、どうにもレビューの難しい作品である。
 ミュージカル映画と知らずに見はじめたので、尾上松也がいきなり歌いはじめたのには驚いた。ミュージカルといえば名作「シェルブールの雨傘」を思い出すが、本作品を名作と比べてはいけない。月とスッポンはおろか、アンドロメダ大星雲と芥子粒ほどの違いがあると言ってもまだ足りないくらいだ。
 この映画を観る3日前に日生劇場でミュージカル「ウェイトレス」を観劇したのがいけなかったのかもしれない。主演の高畑充希はじめ、歌が皆上手だった。しかし本作品は、歌声がどこかおかしい。機械的な声に聞こえるのだ。まるでフォトショップで修正した写真のようである。そのせいなのか、柿澤勇人を除いて、尾上松也とその他の人の歌は、まったく上手く聞こえない。特に百田夏菜子の歌は聞くに耐えなかった。
 ストーリーは小学生が書いたみたいで必然性も何もなく、序盤からこれは駄目な作品だと分かったが、もしかしたら中盤で盛り返すかもしれないと席を立たずに我慢して鑑賞。しかし挽回するどころかどんどん酷くなり、最悪に駄目になったところでエンディングである。これほど酷い作品は久しぶりで、ある意味、貴重な体験だった。

映画「わたしの叔父さん」

2021年03月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「わたしの叔父さん」を観た。
 肉親の存在だけが唯一の生きる拠り所というのはなんとも淋しい限りだ。しかしそれは傍から見た他人の勝手な言い草である。人生に何が大切なのか、本人にしか決められない。
 本作品の主人公クリスは、おそらくただひとりの肉親である叔父さんと農場で暮らしている。牛の世話と牛舎の維持に追われる日々は、単調に見えるかもしれないが、微妙な変化に富んでいる。時には新たな命が生まれ希望が増える。変化は確実な時の流れを感じさせる。年老いていく叔父さんを見て、過ぎていく自分の時間を振り返る。自分の将来、自分の恋愛。クリスはつらい思いをした。男は皆いなくなるだけだ。種付けしたいならするがいい。
 自分自身が年老いていく前に可能性を考える。首都コペンハーゲンでの時間。それは農場だけではなく叔父さんからも離れた時間だ。クリスの選択。都会での根無し草の生活よりも、他からは頼りなく単調に見えるかもしれないが、叔父さんと農場で生きる。少なくとも叔父さんは自分からいなくなったりしない。
 牛の鳴き声が聞こえ、牧草の青臭さと牛のフンのムッとする臭いが漂ってきそうだ。大地に根ざした人生。土の香りがする作品である。

映画「国民の選択」

2021年03月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「国民の選択」を観た。
 原子力発電所を題材にした映画はいくつか鑑賞した。最近観たのは邦画「太陽の蓋」とスイス映画の「地球で最も安全な場所を探して」である。前者は東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故当時の様子を首相官邸のシーンを中心に、原発事故の前に如何に人間が無力であるかを描いていた。タイトルの「太陽の蓋」は、原子炉を同じように原子力で燃えている太陽に見立て、太陽に蓋など出来っこないという意味だと思う。後者は原発推進派のひとりの学者にフィーチャーして、原子力発電によって発生する高レベル放射性廃棄物の処理について、原発のあるすべての国が困っている様子を描いていた。
 原子力発電は稼働時の安全性の問題の他に、核のゴミの安全な捨て場所について、問題の解決ができていない。遠い将来には鉄腕アトムのように超小型化した原子炉を搭載して自由自在に動けて強力なパワーを発揮するようなロボットも誕生するかもしれないが、現時点では原子力発電のメリットとデメリットを比較すると、デメリットのほうが大きいように思える。
 本作品は何かの講習会の際に見せられるビデオみたいな作品で、ドラマ仕立てだから完結するために国民投票の結果のシーンがあるが、観客に同意を促すものではない。原発賛成派も反対派も、未来に結論を先送りするという点では同じだ。しかし既に生み出されている核のゴミの問題が解決されていない以上、高レベル放射性廃棄物を生み出し続けるべきでないのは、人類共通の結論になるのではないかと思う。「地球で最も安全な場所を探して」の原発推進派の学者もそれを認めていた。
 原発推進派の人の中には、自動車が危険だからといって自動車を廃止するかといった議論をする人がいるが、自動車を原発に擬えるのは無理がある。自動車を廃止するメリットよりも自動車を使うメリットの方がずっと大きい。自動車は排気ガスを出すが、石油の生成技術や自動車自体の改良で、いまでは排気ガスの有害性が極端に少なくなった。しかし原発は生身の人間が近寄ることが出来ない危険なゴミを出し続けている。
 廃炉には巨額の経費がかかる上に、廃炉そのものは何の利益も生み出さない。原子力ムラの人々が廃炉を嫌うのも当然だ。だからといって稼働をすれば核のゴミを出し続けるから、ゴミの処分問題が解決するまでは稼働はありえないはずだ。しかし実際には日本の原発は8基ほど稼働している。何を考えているのだろうか。

映画「ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実」

2021年03月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ラスト・フル・メジャー 知られざる英雄の真実」を観た。
 いつも思うことだが、先進国の外国人は話が上手だ。政治家はたいていスピーチが上手いし、一般人の街頭インタビューでもきちんと自分の考えを話す。いきなりマイクを向けられても、自分の考えをまとめながら率直に意見を言う。日本人はどうかというと、当たり障りのないことを言う人が多い気がする。もしかしたら本当は本質を突くような鋭い意見を述べている人もいるのにテレビ局がボツにしているのかもしれない。接待漬けらしい総務省に牛耳られた日本のテレビ局なら不思議ではない。
 本作品では官僚は上手に話をしたりスピーチをするが、ベトナム戦争の帰還兵たちは、他のことは別にして、こと戦争の話となると上手に話せない。あの戦争は何だったのかという包括的な考えや、地獄のようだった戦場における個々の戦闘の意味は何だったのかという各論が、いずれもまとめきれないまま情緒不安定に陥る。
 アメリカの将軍というと軍服に数多くの勲章を付けた人を思い浮かべるが、アメリカの兵士というと偽装網のついたヘルメットをかぶってジャングルを進んだり、ハマーで走りながら機関銃を連射したり、沖に停泊した輸送船から浜辺に向かって走っていったりするイメージで、いずれも泥や埃にまみれながら死と隣り合わせの戦場にいる感じである。本部や本国にいて命令を下す将軍と、戦場で命がけで任務を遂行する兵士。勲章をもらうのはいつも後方の本部にいる高級将校たちである。
 名誉勲章と言われても、アメリカ人ではないのでピンとこないが、軍功よりも他の兵士たちや将校から推薦され、多くの人間から信頼され尊敬される行動をした軍人に贈られる勲章らしく、陸海空のそれぞれにあるそうだ。授与の決定にあたっては、本来の基準よりも政治的な力関係によって決まるところが多分にあり、誰が見ても授与されるべき人物が授与されず、大したことのない将軍が授与されることがあると、本作品は指摘している。
 将校でない一兵卒でも、一緒に戦った兵士たちの尊敬を受けながらも戦死した戦友が名誉勲章を受勲することがあれば、ベトナム戦争のPTSDに悩む戦友たちの魂が少しは救われるかもしれない。主人公である軍官僚のハフマンは考えた。
 アメリカ映画らしく予定調和のラストではあるが、ベトナム帰還兵たちが想い出す戦場のシーンは恐ろしくリアルで、戦争がいかに理不尽な場所に若者を追いやったかを思い知らされる。ベトナム戦争の反省をすれば、アメリカ軍は店じまいするはずだ。しかしアメリカは未だに世界各地に軍を派遣し続けている。
 本土が戦争による被害を受けていないアメリカは、軍需産業が政治を動かしている。はじめてのアメリカ本土攻撃となった9.11同時多発テロ以降は、ブッシュの政治的な人気取りの活動も加わって、イラク戦争へと突き進んだ。またしても兵士が地獄のような戦場に送り込まれ、PTSDを量産したのだ。アメリカは殺人国である。刃物にされた兵士は心を病んで帰還する。こんなことをいつまで続けるのか。しかしアメリカ軍はいまだに多くの国に兵士を駐留させている。そして軍服を着た我が子を「誇りに思う」親がたくさんいる。アメリカの病巣はどこまでも深い。

映画「ワン・モア・ライフ!」

2021年03月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ワン・モア・ライフ!」を観た。
 設定がいい。主人公パオロを典型的な俗物としたことで、天国の受付から短時間だけこの世に戻るというアイデアが生きている。聖人君子の主人公だったら物語にならなかった。
 しかし、それにしても主人公の俗物ぶりがひどい。小心者のくせに見栄っ張りで女好きの浮気症で飽きっぽく、浪費家のくせにケチである。何でも他人のせいにする根性なしで、何かにつけ「愛している」と言えば許してくれると思っている。どうでもいい小さなことにこだわって肝心なことを忘れてしまう。
 そんなトンデモ男のパオロなのに、背が高くてハンサムだからなのか、女にモテる。ベッドシーンは省略されているが、きっとあっちの方もなかなかに違いない。もしかしたらこういうタイプが典型的なイタリア男なのかもしれない。そう考えるとかなり笑える。
 人間は人生の時間が限られたときに聖人に生まれ変わろうとする、、、かもしれない。少なくともパオロは一生懸命、残された時間をいい夫、いい父親であろうと努力し、妻と子供に残される自分の思い出をなんとか美化したいと望む。しかしよく考えたらそういう行動は聖人ではなくナルシストの行動だ。
 最後に交わす妻とのキスはどんどんディープになっていく。パオロの本領発揮だ。結局のところちっとも変わっていないパオロは、俗物根性丸出しのまま再び天国に向かう。よく見ればパオロの周囲の人間たちも俗物ばかりだ。誘惑は無数にある。死ぬときは死ぬのだ。ビバ人生!酒を飲み女を口説いて、ときどき仕事もした。それでいいじゃないか。イタリア人の陽気で無責任な快楽主義も悪くはないと思わせるコメディである。意外と面白かった。

映画「フィールズ・グッド・マン」

2021年03月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「フィールズ・グッド・マン」を観た。
 マット・フューリーという漫画家が生み出したキャラクター「カエルのぺぺ」がインターネット上で様々な使われ方(ミーム)をする話で、マットがほったらかしにしている間にぺぺがトランプ支持者、過激な白人至上主義者のキャラクターとして使われるようになってしまった。ネットだけならまだしも、流石のマットも立ち上がる。
 難しいのは、キャラクターには著作権がないということだ。マットが描いたぺぺのイラストや漫画は著作物だから当然著作権があるが、ぺぺというキャラクター自体は著作物ではないから著作権は生じない。商標登録をすれば、有効期限は権利を守ることができる。
 ぺぺは香港の民主化運動の象徴としても使われているらしい。マットはそちらは特に反対しない。極右に使われるのは嫌だが民主化運動ならいいというのは、バランス感覚としては至極まともである。
 アベシンゾウやガースーやヘイトのキャンペーンにドラえもんや鬼滅の刃が使われてしまうことを考えれば、キャラクターを守るための何らかの規範が必要だと思うが、知的財産権というアメリカ由来の考え方が種子にまで至って世界の農家を苦しめている現状を顧みれば、規範が諸刃の剣になりうることも含めて、難しい問題だと改めて思った。

映画「ビバリウム」

2021年03月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ビバリウム」を観た。
 人間存在の意味を問うという新しい感覚のホラー映画である。次はどうするのか、主人公ふたりの選択をあれこれ想像しながら、面白く鑑賞できた。
 序盤でカッコウの托卵のシーンがある。主人公のひとりトムが穴を掘って、落とされた雛を埋葬するのだが、それが何かのメタファーであることは薄っすらと想像がついた。
 母性は少なくとも極限状況に於いては正しい判断の邪魔をする。特に人間の母性は動物のそれとは違って厳しさに欠けている。本作品でも主人公のひとりジェマの、おそらく母性に因すると推測される選択が、トムの行動を必定の方向に促してしまった。結末はメタファーの通りになってしまう。
 ストーリーとしては一本道だが、元の世界と隔絶された、巨大な閉塞空間が舞台であり、主人公ふたり以外の人間との接点が皆無であることが、じわじわとした恐怖感を生み出す。変な化け物が登場するようなありふれたホラー映画よりもよほど怖い。
 さらに怖いのが、変化のない毎日にただ年老いていくだけのトムとジェマの、人間としての存在意義の喪失感が引き潮のようにふたりからエネルギーを奪っていくことだ。熱気、活気、元気といった概念の対極にあるかのような底しれぬ寂寥感がふたりを包む。
 リインカーネーションはホラー映画ではお馴染みだが、少なくともこれまでのホラーでは憎悪や怨恨といった動機も一緒に転生する。しかし本作品のリインカーネーションは何も継承しない。そこが逆に恐ろしい。人間は意味もなく生まれて意味もなく死んでいくだけなのだという知りたくない真理を事務的に開示されているかのようである。フランス映画みたいに哲学的な作品だ。傑作である。

ミュージカル「ウェイトレス」

2021年03月14日 | 映画・舞台・コンサート
 ミュージカル「ウェイトレス」を観劇。
 高畑充希がほぼ出ずっぱりである。相変わらず歌が上手い。前半75分休憩25分後半65分の合計2時間45分。飛んだり跳ねたりはないが、動き回るのとパイを作る手の動きをしながらの熱唱はさぞかし体力を消耗するに違いないが、それでも最後の最後まで声の張りは保っていたから、芝居の稽古の他に走り込みなどもしたのだろうと思う。役者は大変である。
 高畑充希の他に光ったのはおばたのお兄さん。宮澤エマ演じるドーンの彼氏役だが、こちらは本当に飛んだり跳ねたりしながらの歌である。オタクぶりがケッサクで、かなり笑えた。多分何度観ても笑えると思う。
 ミュージカル・コメディだから難しいことは考えずに歌と芝居を笑いながら楽しめばいい。時間に余裕がある人は観劇するといいと思う。東京公演は日生劇場で3月30日まで。