三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド」

2022年01月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド」を観た。
 
 面白かった。AIの活用が多方面に亘るようになった現在であればこその作品である。ハリソン・フォード主演の映画「ブレードランナー」に登場するレプリカントと呼ばれる人型ロボットも人間そっくりに作られていたが、あまりにも似すぎていたために、学習して感情を身に着けて人間そのものになってしまうことを恐れて寿命が設定されていた。
 
 本作品でもレプリカントと同じくらい人間そっくりな人型ロボットのトムが登場するが、「ブレードランナー」とは違って、肯定的に扱われている。アイザック・アシモフのロボット工学三原則に則っていると想定されるトムは、ヒロインをどこまでも大切にする。それにAIの学習能力が物凄い。トムはヒロインの身体だけでなく、精神を守るために命令に背くこともある。二足歩行だけでなく二足走行や物品の取扱いもスムーズだ。こうなるともはや人間である。
 最近ではラブドールにもAI搭載機が開発されているようで、物理的な生産作業だけでなく、人間の性生活にまでAIが何らかの役割を果たそうとするようになっている。そしてトムはそれに加えて人間の日常生活や精神生活にまで、重要な役割を果たすように出来ている。しかも新しい情報を常に吸収し続け、アルゴリズムは随時修正する。人間が時の流れで変化するのに合わせて、自分も変化するのだ。変化しないのは外見だけである。最近は年の差を気にする必要がないから、年配女性が若い男性と一緒にいても違和感がない。
 下世話に言えば、ラブドールが自分で動いて喋って表情も変えて、掃除洗濯をして食事を作ってコーヒーを入れてくれる訳だ。もちろん本業?の夜の相手もしてくれる。ほとんど妻である。旅行でも映画でもコンサートでも、どこでも一緒に行ける。生活面の提案もしてくれるが、もう少し痩せたほうがいいなどと、こちらが不愉快になるようなことは決して言わない。本当の妻よりも優れているかもしれない。
 
 いいことばかりのようだが、ひとつだけ、人格の問題が立ちはだかる。ヒロインのアルマが気にしていたように、どこまでいってもトムは人型ロボットなのである。人間と同じ人格を認めるのは、心理的な抵抗もあるし、トムをパートナーとすることは自分が人間から品物のレベルに下がってしまうような気もする。
 しかし人には愛着という感情がある。ペットを飼っていると離れ難くなり、期間が長くなると人によってはペットの人格を認めたり、死んだらペットロスに悩んだりする。人型ロボットに対しても当然同じことが起きる。アルマがトムに感じたのは愛着なのだが、トムはペットと違って老化はしないし、AIが常に学習してコミュニケーションを取るから、トムとは飼育ではなく共生の関係である。つまり人生のパートナーだ。愛着が愛に変わる可能性は大いにある。
 
 トムはプロトタイプで、商品としてはほぼ完成している。購買するのにどれだけの金額がかかるかわからないが、将棋のAIソフトが最善手を導き出すように、トムはその無謬で大容量の記憶と理論的に導き出す答えによって、様々なビジネスで成功を収めそうな気配が満々だ。購買金額を取り戻すのにそれほど時間はかからないかもしれない。
 
 トムのような性生活も日常生活も精神生活も経済面も支えてくれそうな人型ロボットがいれば、満ち足りた人生を送ることができそうだ。しかしそうなると人間は何をすればいいのか。
 本作品は考古学者で大学教授で博士というインテリをヒロインにすることで、人間とは何か、人格とは何かという問いが彼女の頭の中を目まぐるしく回り続けていることがよく伝わってきた。当方も同じことを考えながら鑑賞したが、トムが万が一悪意のある人間にハッキングされたらどうなるのかも考えた。そうなると一巡りして「ブレードランナー」の世界になるのかもしれない。AIロボットは便利なものではあるが、厄介なものでもあるのだ。

映画「フタリノセカイ」

2022年01月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「フタリノセカイ」を観た。
 
 俳優陣がやや経験不足で演技が熟(こな)れていないように感じたのと、登場人物の見た目の経年変化が一切考慮されていない点で、作品としての評価はあまり高くできない。しかし物語としては面白い。男女がくっついたり離れたりするのはよくある話だが、それがトランスジェンダーのカップルとなると、話が複雑になると同時に、社会性も帯びる。
 
 第一次性徴の性別が異なるカップルであれば、トランスジェンダー同士でも生殖は可能だが、もともとが同性のカップルは子供を作ることができない。子供がいらないのであれば問題ないが、子供を欲するカップルの場合はいろいろな努力が必要になる。ノーマルなカップルでも不妊に悩む場合があるのと同じだ。
 
 誰でも将来は不安だ。トランスジェンダーであれば尚更だろう。将来のことを考えて節約し、預金している人も多いと思う。欲しい物があってもなるべく買わないで我慢する。本作品のユイがそうだ。しかしシンヤは違う。将来も考えるが、いまの時間を充実させることも考える。掃除機を買い、ユイのための買い物もする。
 ユイはシンヤよりも不安だ。それにセックスの不満もある。子供をどうするか。将来の願いを叶えようとすれば、相当な金がかかるのは誰にでもわかる。何がなんでも節約して金を貯めなければならない。だから最低限の生活必需品でないものに金を使うシンヤの能天気が許せない。ふたりは金の使い方の違いから、人生の方向性の乖離を自覚することになる。
 
 結論から言うと、シンヤが正しいと思う。人生は不確定要素が満載で、10分後に大震災が起きないとも限らない。帰宅したら火事で家がなくなっているかもしれない。綿密な計画を立てても、そのとおりに進むことはまずない。順風満帆な人生などというものは、振り返ったときに初めてそう言えるのであって、未来に順風満帆な人生が約束されることはあり得ない。
 金を貯めることに執着して、いまを我慢し続けることは精神衛生上もよくない。金だけでなく時間を節約することも大事だ。掃除機や洗濯機を買って時間と労力の節約になるのなら、買ったほうがいい。出来た時間で仕事をすれば、すぐに元が取れるし、費用対効果も十分である。ユイがシンヤの考え方を理解するまでに相当な時間が必要だった。
 
 金は必要なことに使うべきだ。何が必要で何が必要でないかは人それぞれでいい。それが生き方というものだ。ユイとシンヤが互いに惹かれ合う理由は不明だが、生き方が共鳴して互いに共生感を感じられる相手と一緒なら、コンプレックスや疎外感から救われる時間もあるだろう。それが多分「フタリノセカイ」なのだと思う。

映画「ゼイリブ」

2022年01月17日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ゼイリブ」を観た。
 
 物語は前半と後半に分かれていると思う。前半は主人公が摩天楼の林立するニューヨークと思しき町にやってきて仕事を探し、ホームレスが集う場所を紹介されて寝場所にありつく話だ。盲目の牧師が演説するシーンが後半への伏線となる。
 後半は襲撃された教会の隠し場所からサングラスを見つけるところから始まる。ただのサングラスかと思っていたのが、かけてみると見えなかった本質が見えてしまう。そこからは怒涛の展開で目が離せないが、取っ組み合いのシーンが長くてひと息つける。
 
 説明はないが、主人公もフランクもベトナム帰りではないかと思う。武器の扱いといい、徒手の格闘といい、素人ではない。ベトナム戦争の終結が1975年で本作品が1988年、主人公が町に来る前に別の場所で10年働いたと言っていたから、辻褄も合う。
 後半に登場するメグ・フォスターが演じたホリー・トンプソンの眼が恐ろしい。妙齢の女性にしては胆の据わり方が尋常ではない。BMWに乗って山の手に住む金持ちだ。ただのOLの筈がないのだが、サングラス越しの顔だけで分別する主人公はそこに気がつかない。
 
 納得のいくラストシーンはとてもスッキリするのだが、ベトナム帰還兵の問題や格差の問題、差別的な政治、放置されるホームレスなど、カーペンター監督が本作品に盛り込んだテーマは未だに解決を見ていない。そしてこれからも解決することはないと断言できる。
 それは人間が本質的に他人を差別し、迫害して、自分の利益を確保しようとするからであり、強者同士が徒党を組んで弱者から搾取する傾向にあるからだ。そういう時代が続く限り、本作品はいつまでも新しい。

映画「クライ・マッチョ」

2022年01月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「クライ・マッチョ」を観た。
 
 クリント・イーストウッド監督のヒューマニズムがよく解る作品だと思う。
 人の優しさは強さに担保される。強さとは勇気のことだ。人は人に優しくなければならないが、往々にして臆病風に吹かれ、優しさを捨てて自分の身を守ろうとする。しかし勇気があれば、一歩を踏み出すことが出来る。それが強さだ。強さとは即ち、優しさのことである。
 同じ考え方をしている人は多い。アメリカのミステリー作家レイモンド・チャンドラーは「プレイバック」の中で「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格がない」と書いている。吉田拓郎は「我が良き友よ」の中で♫男らしいはやさしいことだといってくれ♫と歌った。作詞家の吉田旺はクールファイブの歌「東京砂漠」の中で♫空が哭いてる煤け汚されて人は優しさをどこへ捨ててきたの♫と書いた。
 
 優しさを知らずに育った子供は優しくなれない。少年ラファエルはエゴイストの母親の元で心が荒んでしまったが、父親とともにいた幼い頃は、随分と優しくしてもらった。だから心の中に優しさの種は残っている。クリント・イーストウッドの演じる主人公マイク・マイロは、そのことを初見で見抜いたのだろう。ラファエルは助けるに値する子供だ。
 しかし優しさへの道は困難な道だ。その日暮らしの荒んだ生活は絶望的だが、安易ではある。ラファエルがどれだけの覚悟があるのか、確かめないうちは連れて行くことはできない。マイクはラファエルを突き飛ばす。困難な道を選ぶのか、安易な道に残るのか。
 
 ラファエルは優しさへの道を選択する。しかしマイクにはまだ懸念がある。ラファエルは人のことを許すことができない。優しさとは人を許すことでもある。いまのラファエルにはまだ勇気がない。だから人を許す優しさがない。マチョの強さを自慢するのは弱い証拠だ。
 父親は大した人間ではない。マイクの元の雇い主だ。くだらない男だということはよくわかっている。そんな男の元にいまのラファエルを戻せば、小賢しくてスケールの小さい、つまらない男に育つだろう。ではどうするか。
 
 マイクは寄り道をする。そして偶然飛び込んだ店で、大きな優しさに出逢う。マルタである。不運のあとに訪れた幸運だ。その後も幸運が重なり、ラファエルはマイクの指導でスキルを身につけ、同時に自信も身につける。もはやマチョは必要なくなった。
 
 ラファエルがどれだけ強くなり、優しくなったのかは本人にしかわからない。マイクは出来る限りのことはした。あとはラファエル自身が決めることだ。
 別れはさりげないのがいい。人の人生はそれぞれの選択だ。誰も他人の人生を生きることはできない。微かに微笑んで、少しだけ手を上げる。そして振り返ることなく去っていく。クリント・イーストウッドの遺言のような作品に思えた。

映画「春原さんのうた」

2022年01月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「春原さんのうた」を観た。
 
 平日の13時からの上映だというのに、ポレポレ東中野はかなり混んでいる。舞台挨拶が好きではない当方としては、まさか舞台挨拶付きの上映かと危惧したが、そうではなかった。ということは、作品自体に人気があるのだろうか。
 それにしては解りづらい作品だ。恐らく書を嗜むヒロイン?が大きな書を書く場面以外は、極めて日常的なシーンが断片的に並べられる。距離感も時系列も凡そ不明だ。妙に間延びしたシーンの連続も気になる。不要なシーンをカットすれば、上映時間が半分になる映画だ。
 
 全体的な印象で言えば、誰かの思い出の写真をばらまいてコラージュにしたようだ。理解できるのは写真の持ち主だけである。これを観客の前に投げ出されても、持ち主の思うようには理解されない。当方もよく解らなかったし、登場人物のうちで感情移入できる人はひとりもいなかった。
 登場人物が芝居をしているように見えないほど日常的な表情や仕種をして台詞を話しているところはそれなりに評価できるが、考えてみればそんなことは役者なら当然のことである。肝腎なのはその表情や仕種や台詞が観客の心を揺さぶるかどうかだが、少なくとも当方は本作品に心を揺さぶられることはなかった。断っておくが、これは個人的な感想なので、当方の感受性を責めるのはお門違いである。
 
 ぼんやりした喪失感があり、個人的な哀愁がある。思い出は残るが、思い出の持ち主が死んでしまえば、もう何も残らない。生きることは即ち失うことだ。人生のなんと虚しく、悲しいことだろう。
 シェイクスピアではないが、そんなふうな人生観が薄っすらと感じられる映画ではある。文学作品だから、観た人それぞれの解釈があっていいとは思うが、せめて同じ向きの解釈がされるように作ってほしい。
 あらゆる表現は他人に伝えるためにある。伝えるからには理解してもらえるように努力するのは当然のことである。映画監督は同時に映画の観客でなければならないのだ。ばらまかれた他人の写真を見ても、そこに感動はない。

映画「マークスマン」

2022年01月16日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マークスマン」を観た。
 
 知り合いのアメリカ人女性は、死ぬまで日本で暮らしたい、アメリカに帰りたくないと言う。アメリカは安全ではないからだ。銃を持っている人が沢山いて、ホールドアップで金を奪われるのは日常茶飯事だ。おまけに自分は女性である。いつレイプされてもおかしくないし、レイプされたあとはたいてい殺される。この女性が大袈裟なのかもしれないが、アメリカは日本よりは危険であることは間違いないと思う。
 ではメキシコはどうなのだろうか。古い映画では、強盗が奪った金を持ってメキシコに逃れようとするパターンが多い。メキシコに行けば、アメリカの当局は追ってこないのかもしれない。メキシコに逃げても強盗が急にカタギになるわけではなく、メキシコでもやっぱり強盗をして生きていくのだろう。
 となるとメキシコは犯罪者だらけなのかというと、そうではないはずだ。窃盗や強盗、詐欺などは、他人が築き上げた富を横取りする行為である。メキシコに住む全員が犯罪者だと、横取りするものがない。社会が成立しないのだ。だからメキシコに住む人々の大半は、生産性のある行為、つまり仕事をしてまっとうに生きていると考えられる。摩天楼も建設すれば、大きな橋も建造する。そうして更なる経済成長を目指す訳だ。そうやって富を生む人々がいてはじめて、窃盗や強盗や詐欺ができる。犯罪者は何も生まないから、カタギに比べたら理論的に少数でなければならない。
 とはいえ、現実にはアメリカでもメキシコでもたくさんの犯罪者が跋扈している。日本に比べて相当に荒っぽい連中だ。件のアメリカ人女性が帰りたくない気持ちはよく分かる。当方もアメリカやメキシコに案内もなしで一人で行くのは気が進まない。
 
 そういう訳で、本作品のようにメキシコとの国境に住む人は、銃で武装するのが当然なのかもしれないが、考えてみれば、農家が武装しなければならないのはおかしい。
 感覚的な話ではあるが、武装している農家が作った作物よりは、武装していない農家が作った作物を食べたいと思う。それはそうだ、武装しているということはその分だけ農業に費やす集中力が削がれるわけだから、作物の出来にも影響するだろうことは容易に想像できる。本作品の主人公の牧場で出来る乳製品も牛肉も、貧相なものに違いない。
 メキシコとの国境付近が物騒なら、そこは政府が土地を買い取って、警戒地域として国が直接管理すべきだ。民間人、ましてや農夫に武装を余儀なくさせるのは間違っている。
 
 ということで、映画の冒頭部分で頭が疲れてしまったが、本作品のリーアム・ニーソンはいつもの熱い家族主義者とは違って、ニヒルで渋い。戦争に二度も行った退役軍人であり、元狙撃兵である。
 狙撃兵が銃撃戦で圧倒的に強いかというと、実はそうでもない。拳銃の弾丸が届かないような遠距離からの狙撃なら断然有利だが、接近戦はハンドリングのいい拳銃のほうが勝っている場合がある。
 本作品はそのあたりをきちんと踏まえたリアルな演出が光る。銃撃戦の一方で、ロードムービーでもあるから、一緒に旅をする二人の関係性が微妙にぶれながら変わっていくさまも見事である。タフなヒーローを演じるイメージが強いリーアム・ニーソンだが、実は本作品のような哀愁漂うニヒルな男を演じるのが真骨頂だという気がした。

映画「マジック・ロード 空飛ぶ仔馬と天空の花嫁」

2022年01月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「マジック・ロード 空飛ぶ仔馬と天空の花嫁」を観た。
 
 当方はロシア語はさっぱりだが、本作品の中でひとつだけ分かる単語があった。「ナロード」である。「民衆」という意味だ。たしか高校の世界史で習った。「ヴ・ナロード」で「民衆の中へ」となり、ロシア革命の勢力であるボルシェビキの活動のスローガンだったと記憶している。
 
 本作品での「ナロード」は、王が自分の人気を気にする母体の意味合いで使われている。王は人気がなくなると自分の立場が危うい。だから自然と民衆に迎合するようになる。もしかしたら人気取りの政策を連発するアホな政治家を皮肉っているのかもしれない。
 そんなことを知りもしない田舎の青年である主人公イワンは、王が人々から漏れなく愛されているものだと思いこんでいる。民主主義という概念が生まれるよりもずっと前の時代の話だから無理もない。家父長制のパラダイムの時代に育てば、それ以外の考え方を思いもしないだろう。
 
 ストーリーは一本道で、若者がいくつかの試練を与えられてそれに見事に応えるというのはファンタジーでは王道中の王道であり、ハズレが出にくい。本作品もそのひとつだが、主人公が持って生まれた才覚を発揮するのではなく、一緒にいるポニーが大活躍するところが面白い。
 フェニックスやリスやクジラやカニなどの動物がそれぞれの役割を果たすディテールがよく出来ていて、基本的に動物が好きな子供たちには受けるだろう。イワンが美女に夢中になって「ワーニャ」と呼ばれても気づかない場面では、その理由が分かる人は分かるだろう。ワーニャはイワンの愛称で、親しい人が使う。ワーニャと呼ばれても気づかないのは、イワンがそれほど親しい立場の存在が近くにいないと思っていたからだろう。だから「イワン」と呼ばれて初めて振り向く。
 
 王の側近たちがまるで忖度する官僚のようだったりとか、ロシアも日本も似たようなものだと思わせるところは大人向けでもある。善か悪か、敵か味方かというところでしか判断できない子供たちには、そのあたりのことまで理解出来ないかもしれないが、なんとなく割り切れないものは残るはずだ。その割り切れなさは、子供たちが大人になったときに役立つと思う。
 
 表面的には子供向けの童話のような作品だが、深読みすれば、現在の政治を揶揄しているようにも受け取れる。ロシア製ファンタジーも悪くない。

映画「決戦は日曜日」

2022年01月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「決戦は日曜日」を観た。
 
 起承転結のはっきりした作品である。窪田正孝が演じた主人公谷村が勤める静かな議員事務所に、病気で倒れた川島議員の後継者として川島議員の娘が登場するが、宮沢りえ演じる川島有美は、更年期くらいと思しきその年齢にも関わらず、自分が衆院選の候補者であることの意味も何も解っていない。おまけにお嬢様育ちの高慢で自信過剰の性格が、頭を下げ続けなければならない候補者の立場と相容れず、谷村たちを困らせる。そして非常識と勉強不足が掛け算となって、言うべき場所で言うべきことを言わず、言うべきでない場所で言うべきでない言葉を大声で言い放つ。
 このあたりが起承転結の「起」で、観客としてはかなり笑える。コメディは基本的に反骨精神を軸にするものだ。権威や権力者、金持ちなどをコケにするから庶民が笑えるのである。弱い人を笑うのはいじめであり、笑えないし、弱い者いじめはコメディではない。最も笑えるシーンは記者会見で「各々」が読めないところで、列席した記者からも笑われる。そういえば「云々」を読めずに「でんでん」と言ってしまった暗愚の宰相がいた。脚本を書いた坂下雄一郎監督にもその記憶はあっただろうし、むしろ元首相のバカさ加減を嘲笑する意味合いの台詞だと思う。朗々と読み上げる宮沢りえの演技が見事だった。コメディエンヌもいけるのだ。
 
 起承転結の「承」は、谷村たち政治秘書によって既存の型に嵌められたり、後援会の老人たちや地方議員たちからチクチクと叱られたりするのが我慢ならない有美が、何度も反旗を翻すところである。頭の悪さに反比例するようなプライドの高さも、どこぞの暗愚の宰相にそっくりである。ここまでは素直に笑って鑑賞できた。
 
 起承転結の「転」のきっかけとなるコーヒーマシンのシーンは比喩に満ちていて、谷村の繊細な表情の変化は、演技派俳優である窪田正孝の真骨頂だ。コーヒーマシンが古くなってカスやカビやその他の不純物が詰まっていては、どんなにいいコーヒー豆を入れても、出るのはドブ臭い液体である。プライドは高くても、純粋培養されたお嬢様には、不純物のない善意がある。コーヒーをドブ臭くしているのは、むしろ自分たちではないか。
 話はここからが見どころで、谷村と有美の謀略が悉く裏目に出る。まるで「トムとジェリー」のアニメのようだ。SNSが選挙戦を左右するのはもちろん、隠しカメラや隠しSDカードまで登場する。2017年の衆院選で自民党が大勝した理由のひとつとなった北朝鮮情勢も見逃さない。そういえば、その年の夏に、ミサイル発射!というアラートがテレビを占拠したことがあった。あれはいくらなんでも自民党のやりすぎだと思ったのだが、選挙で大勝したところを見ると、それなりの効果があったのだろう。有権者もアホである。
 
 起承転結の「結」が比喩的であり過ぎて、インパクトに欠けているが、もしかしたら続編を意識しているのかもしれない。続編があったらこんな感じだろう。非常識で低能だが、純粋培養でプライドだけは高く、決してくじけないお嬢様育ちのおばさんが国会に乗り込む。不純物のない善意は空回りの連続で、与党からも野党からも国民からも馬鹿にされるが、谷村のアイデアと根回しでいつの間にか・・・というストーリーだ。見てみたい気もする。

映画「truth 姦しき弔いの果て」

2022年01月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「truth 姦しき弔いの果て」を観た。
 
 シチュエーションコメディである。佐藤二朗がカメオ出演している死んだ彼氏は、3年前から3人の女と同時に付き合っていた。しかし曜日を分けて、ひとりと会うのを週一回にして、それを厳格に守っていたから、女同士が3年間、奇跡的にバッティングしなかった。葬式のあと、3人がそれぞれの鍵を使って彼氏の部屋に入室したときが、互いに初見だったという訳である。
 映画はその瞬間から始まる。そして同じ場所で終わる。だから出演者は3人の女だけだ。多少のアクションもあるが、大部分は会話劇である。互いにマウンティングをしたり、差別化を図ったり、優劣を主張したり、怒ったり笑ったり泣いたりと、いろいろ忙しい。しかし不思議なことに、女たちは3股をかけていた「彼氏」のことは少しも非難しない。3人の女たちはただひたすら、自分こそ「第一夫人」だと互いに張り合うのだ。
 
 映画のタイトルは「truth」だが、副題は「~姦しき弔いの果て~」である。3人の女たちは、昭和の時代に活躍した漫才トリオ「かしまし娘」の登場ソング♫女三人揃ったら姦しいとは愉快だね♫の歌詞のように、大変に賑やかであるが、それは亡くなった彼氏に対する彼女たちなりの弔いの形でもあったのだろう。それが「姦しき弔い」の部分である。
 続く「果て」の部分が本作品のラストシーンとなるが、その前にタイトル「truth」の種明かしがある。なるほどねと思った。おそらくではあるが、プロデューサーも兼ねた3人の出演者の原案は「姦しき弔い」としての会話劇から「truth」を跳躍板として「果て」のラストに至るというものだったと推測される。
 なんともベクトルに富んだこの原案を貰えば、堤幸彦監督の脚本は筆が勝手に滑るように出来上がったに違いない。演出は流石にドラマチックだ。将棋のトップ棋士同士の対戦が指したほうが有利に見えるように、喋った女が有利になったように思えるような、ヒリヒリする会話を展開する。百戦錬磨の堤監督にとってはお手の物だったのかもしれない。
 とても濃密な70分間だった。印象に残る作品である。

映画「Escape from New York」(邦題「ニューヨーク1997」)

2022年01月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Escape from New York」(邦題「ニューヨーク1997」)を観た。
 
 警察は時としてカタギよりもヤクザを信用する。カタギは日常的に死ぬことをあまり意識せずに生きているが、ヤクザは常に、いつ死んでもいいと思いながら生きている。勿論カタギにも死の恐怖はあるだろうが、覚悟が違うのだ。命を惜しむようなら、もはやヤクザではないが、
 本作品のように圧倒的に悪い連中が揃っている場所にひとりで潜入するには、警察官では物足りない。警察官とは言っても、カタギだからである。究極の死の覚悟はないのだ。それに警察官は上司の命令で動く公務員である。臨機応変に対応しなければあっさりと死んでしまうような極限状況にひとりで派遣しても使い物にならない。特殊な潜入訓練を受けたCIAの工作員なら本作のミッションもこなせるだろうが、そう簡単にイーサン・ハントはいないのである。
 そのあたりのことを、リー・ヴァン・クリーフ演じる警察のボスが知らないはずはなく、お誂え向きにその場に悪党のスネーク・プリスキンがいて、おまけに元特殊部隊ときている。胆は据わっているし、闘争能力も申し分ない。それに乗り物の操縦や運転はお手の物だ。こいつを使わない理由はない。
 
 現場に到着してからのストーリーはジョン・カーペンター監督らしくリアルである。主人公は決してスーパーマンではないし、奇跡も簡単には起きない。まだCGが普及していない時代である。模型のチープ感を指摘するのは野暮というものだ。リボルバーやMAC10が無限に撃てたりすることにも目をつむる。
 カーペンター監督はSF映画やホラー映画に世界観や政治的なテーマを盛り込む。本作品もその例に漏れず、第三次大戦を始めたアホな大統領と、クズを集めて図に乗るギャングのボス、そのボスに知識を切り売りして生き延びる知識人のヘルマン。ヘルマンに大統領の側近のことをいう「ブレイン(脳)」と名乗らせたのは、カーペンター監督一流の皮肉だろう。
 
 たくさん人が死んだことを悲しみもしない大統領に、プリスキンが密かな反撃を食らわせるラストは洒落ている。主人公のニヒルな世界観は、SF映画では類をみない。プリスキンをモデルにしたと言われるビデオゲームの「メタルギア・ソリッド」のビッグボスは、自身の世界観を明らかにしてない。小島秀夫さんがエンタテインメントに徹したということだろう。