三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

かかとを意識する

2022年01月07日 | 健康・病気

 15年来の坐骨神経痛である。30分も立っているとお尻からつま先にかけての坐骨神経が痛む。神経が痛む訳だから、筋肉をどれほどほぐしても痛みが軽減することはない。寝ていても痛みで起きることがある。医者は治らないと言った。腰椎間板ヘルニアに加えて、腰椎分離すべり症だとのことだ。手術すれば治る可能性もあるが、それよりも車椅子生活になる可能性のほうがよほど高いとのことだ。痛くても歩くようにすれば、日常生活は送れると言われれば、そうするしかないだろう。

 それから15年が経過した。悪くなってもいないが、よくなってもいない。じっと立っているよりも歩くほうが楽である。ただ立っていると徐々に痛みが湧いてくる。電車の中が最もつらい。自分の体重を支えているだけでもつらいのに、電車が揺れたりすると他人の体重までのしかかってきて、これは本当につらい。しかし歩くのは一定時間は歩ける。痛みが増してきたら、少し休むとまた歩けるが、その間隔がどんどん短くなって、最後は歩けなくなる。

 赤坂の整形外科で打たれた神経根ブロック注射で逆に症状が悪化した。3週間ほど、立つこともできなかった。その後はあちこちの整形外科や整体、整骨院、カイロプラクティックなどに通ってみたが、一向に治らない。しばらく諦めていた。しかし1日に8000歩は歩いている。筋肉は衰えていないのだ。痛みさえなければ富士山だって登れるかもしれない。そこでペインクリニックを思いついた。一昨年の話だ。善は急げと硬膜外ブロック注射を打ってもらった。そして神経に効くというタリージェを処方してもらって、少し楽になった。

 歩いたり立っていたりするのが楽になると、歩き方について考えるようになる。歩くと決めるのは意識だが、歩き方は無意識が担当しているようで、自分がどんな歩き方をしているのか、考えたこともなかった。歩くメカニズムはかなり複雑である。大まかに言うと、腸腰筋が働いて脚を持ち上げる。それから大腿筋やその他の筋肉が一体となって動いて、足を前方に出す。着地と同時に片方の脚が持ち上がる。そのときは背筋や腹筋も働く。つまり歩くということはほぼ全身運動である。
 では歩幅はどのように決まるのか。歳を取ると歩幅が小さくなると言われる。若いときに比べて歩くのが遅いのだ。同じ歩数でも歩幅が大きいほうがより効率的に歩ける。当然だ。一歩が10センチも違うと、8000歩では80000センチ、つまり800メートルも違う。800メートルというと結構な距離である。大股で歩くに越したことはない。そうすると、次は大股で歩くにはどうすればいいのかという話になる。
 大股で歩くにはどうすればいいのか。これが意外と難しい。意識して大股で歩くようにすると、前につんのめりそうになるし、濡れている路面や雪の上では滑ってしまう。靴を歩きやすいものに変えてみたり、腕の振り方や荷物の持ち方を変えてみたりもしたが、どうにも上手くいかない。体重の移動がスムーズにいかないのだ。歩き方そのものも考えた。胸を張る、お腹を引っ込める、なるべく足を前方に出す。全部を意識して歩くのは、数分がせいぜいだ。歩いているときには歩き方以外にも気にしなければならないことが沢山ある。信号、障害物の有無、脇から飛び出してくる子供がいないかなどの確認もしなければならないし、木々の花や紅葉、道端のきれいな花も愛でる必要がある。歩いているときに自分の歩き方を意識し続けることは難しい。

 いろいろと試行錯誤した挙げ句に、ひとつだけ意識すればいいことに気がついた。かかとを意識して歩くということだ。かかとで歩くのではない。とにかくかかとを意識する。すると自然に姿勢がよくなる。足がちょっと前に出て大股になるし、かといって前につんのめることもない。それに何故か濡れた路面や雪の上でも滑りにくくなる。そういえば、2014年のバレンタインデーに東京で大雪が降った翌日、当方が四苦八苦しながら雪道を歩いているとき、ひとりだけスタスタと他を追い越しながら歩いているサラリーマンがいた。どうしてあんなに滑らずに歩けるのか不思議だったのだが、いまになって考えてみると、彼の歩き方は踵を意識して歩いていたに違いないと思う。

 かかとを意識して歩く歩き方をしばらく続けていると、ちょっと痩せてきた。座っているときにもかかとを意識すると、座っている姿勢もよくなる。それに坐骨神経痛も少し緩和してきた。富士山登山は無理だが、ある程度の長い距離を連続して歩けるようにもなった。ペインクリニックの治療が効いているのかもしれないから、坐骨神経痛との関係については一概には言えないが、かかとを意識することの悪影響はいまのところない。今後もかかと意識生活を続けていく予定である。


映画「Gertrud」(邦題「ゲアトルーズ」)

2022年01月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Gertrud」(邦題「ゲアトルーズ」)を観た。
 
 監督のカール・テオドラ・ドライヤーを知らなかった。1889年生まれで、映画が誕生した頃だから、映画の歴史とともに生きてきた人物であるといっていい。本作品は1964年の発表だから、ドライヤーが75歳のときである。その年齢で製作したにしては、随分と艶っぽい物語だ。
 
 タイトルの「ゲアトルーズ」はヒロインの名前だが、何度聞いても「ゲアトルー」としか聞こえない。自由奔放なゲアトルーは、肉欲と愛と孤独に悩む。それにしてもこの女優さんは上手い。相手を見るでもなくカメラ目線でもなく、どこか上の方を見ながら愛や孤独を語るが、頭の中で想像しているのが生々しいセックスであることが強く伝わってくる。
 どうして夫とは駄目で、若い愛人とだったら満足するのか。大きさ?硬さ?持続力?回数?それともテクニック?などと、よからぬ想像がどこまでも膨らむ。しかしゲアトルーが話している言葉は、もう愛していないとか、愛していると言ってとか、要するに身体も心も満たされなければ幸せじゃないと主張する。
 
 自由なゲアトルーを取り巻く、情けない男たち。社会的な地位や才能があっても、ベッドや言葉で満足させないと、容赦なく捨てられてしまう。しかし男たちはゲアトルーに執着する。ゲアトルーはよほどの床上手だったのだろうか。夫はセックスレスでいいから、愛人を作ってもいいから、そばにいてくれと懇願する。ゲアトルーがそれほど床上手ではなかったということなのか、それとも妻に逃げられた大臣はシャレにならないという世間体か。
 
 ゲアトルーの男性遍歴は、その性欲の強さだけが理由ではない。生きた時代である。女が自立して生きていけるようになったからこそ、男性遍歴ができる。そうでなければ大人しく夫の言うことを聞くしかない。本作品は愛と孤独についての台詞が殆どを占める会話劇だが、その背景には女の自立と女の欲望という、発表当時にしては相当にセンセーショナルであっただろうテーマが隠されている。ドライヤー監督の遺作にして集大成という謳い文句も、あながち間違いではない。
 映画としては退屈で面白みには欠けると思う。作品を理解するだけなら原作を読めばこと足りるが、美人なんだかどうだかよくわからない主演女優の、全編を通じた上の空のような演技と、そこはかとない妖艶さを楽しむには、映画を見るほかない。なんとも言えない悩ましい作品である。

映画「The Tragedy of Macbeth」(邦題「マクベス」)

2022年01月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「The Tragedy of Macbeth」(邦題「マクベス」)を観た。
 
 シェイクスピアの戯曲はレトリックを多用して、言葉遊びのようでもある。同じ言葉を繰り返しているようで、少しずつニュアンスが変わっていったりする。音楽で言えばラヴェル作曲の「ボレロ」のようで、同じメロディの繰り返しのようでありながら、楽器の組み合わせとボリュームが変化することで、徐々に盛り上がり、最後はすべての楽器が参加して壮大な楽曲となる。
「女の股から生まれた者はマクベスを倒せない」というのは、シェイクスピアが本作品に仕掛けたなぞなぞのような有名なレトリックだ。こういう台詞があるから、シェイクスピアの芝居は一言一句を聞き逃がせない。本作品の鑑賞後は誰もがぐったりとするだろう。
 
 シェイクスピアの物語は一般に性格悲劇と呼ばれる。人生に躓くのは性格に由来するということを基礎にしてストーリーを積み上げていく。世界観は単純明快で、人間の欲望には際限がない。欲望に従って能動的に行動する人と、運命を受け入れる受動的な人に分かれる。権力者は当然ながら能動的で欲望に素直であり、支配される人々は禁欲的で状況を受け入れる。ドラマは前者の側にあり、それは常に悲劇である。
 
 本作品の主人公マクベスの場合は、簡単に言えば気が弱かったということだ。気が弱い人というのは、想像力に優れている人である。最善の事態から最悪の事態までを広く想像することができて、最悪の事態を恐れるあまり、気が弱くなる。
 しかしいざとなれば火事場の馬鹿力を出すことができる。それを何度も繰り返すと慣れていって、ポテンシャルが上昇する。マクベスは体格がよくて運動神経も優れていたのかもしれない。人を殺すことに慣れて戦場で勇名を轟かせる。しかしそれは大義名分に裏打ちされた勇名だ。本来は気が弱くて権威に弱いマクベスは、臣下でいるうちは能力を発揮できたはずである。妻に唆されたとはいえ、大義名分のない自分の行為を恐れ、自省し、悪い想像に慄く。その上、王は気にする必要さえない群衆の視線まで気にする。気の弱い人の典型のような人物である。
 気の弱い人は百面相のように表情が豊かである。表情が豊かであるということは人間的であるということだ。デンゼル・ワシントンはまさに気の弱さを表面に出して、表情豊かなマクベスを演じてみせた。人間的な魅力に溢れている。
 
 マクベスを悲劇に突き落としたのは、気の強い妻だ。気が強いというのは想像力が偏っている人のことである。想像力が劣っていると言ってもいい。自分に都合のいいようにしか予想しないし、事態が悪化しても動揺しない。そして自分の選択を絶対に反省しない。他人が酷い目に遭っても気にしない。マクベスの妻はマクベスが殺されても気にせず、どうすれば自分が有利になるかだけを考える。気が強いということは、ある意味で人間性に欠けているということでもある。
 気が強い人は能面のように表情が変わらない。表情が変わらないということは即ち非人間的だということである。フランシス・マクドーマンドがまったくの無表情で演じ続けたことにはそういう意味があった。人間的な魅力も何もない、恐ろしい怪演だった。見事である。
 マクベスの悲劇は、そういう時代だったからではない。たとえば経営手腕に優れて人格的にも尊敬できる社長がいるとして、その会社の社員に、社長を殺したら代わりに社長にしてやると言っても殺す人はいないと思うが、一億円やると言ったらどうだろう。殺そうとする人がいるかもしれない。十億円だったら殆どの人が完全犯罪を模索するだろう。マクベスと何の違いがあろうか。
 
 いつの世も人は悲劇を生きる。あらかじめ死ぬことが決まっていてこの世に生を受けるのだ。悲劇以外の何がある。しかしいつの世も演劇や映画で悲劇が上演され、上映される。そして人は悲劇を観ることで、自分の悲劇を相対化することができる。そこで漸く精神のバランスを保つのだ。
 古いは新しい、新しいは古い。シェイクスピアは常に新しい。

映画「I still believe」(邦題「君といた108日」)

2022年01月04日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「I still believe」(邦題「君といた108日」)を観た。
 
 映画の冒頭で、主人公ジェレミー・キャンプが障害のある弟に対して見せる優しさと、その様子を両親が誇らしげに眺めるシーンに、先ず感動する。この感じで進む物語なのだと思った。引越し先の大学寮に向かうバスのシーンで期待が膨らむ。
 ところが、ライブイベントで当方の予想は裏切られる。歌われる歌詞はすべて神に捧げられるもので、要するに本作品はキリスト教の信仰の映画なのだ。申し訳ないが、無宗教の当方にとっては理解し難いところがある。
 
 ヒロインのメリッサは天文学の基礎知識があるようで、プラネタリウムのシーンでは、天の川銀河とアンドロメダ銀河について解説し、無人のコンサートホールのシーンでは超新星爆発について解説する。超新星爆発はマイナス15等星とも言われるほどの明るさだ。ただ恒星の最後は、超新星爆発の他に白色矮星になることもあるので、メリッサの解説は必ずしも正確ではないが、星の最期は明るく光り輝くことを言いたかった訳だ。ロウソクの炎の最期と同じである。ここまではまあいいとしよう。
 しかしそこに神という概念を持ち込むと、科学が一転して、妄想になってしまう。多分キリスト教徒にも理解し難いのではなかろうか。アルベルト・アインシュタインがキリスト教徒だったからといって、物理学に神の概念が入り込む余地はない。神が宇宙に遍在すると言いたいのかもしれないが、それだと日本の八百万の神みたいになってしまう。キリスト教は一神教だから八百万の神とは違う。メリッサの信仰告白は理屈っぽいが、何が言いたいのかさっぱり解らない。雰囲気だけで話している気がした。
 
 ジェレミーの優しさと献身は解るのだが、そこに神の加護を求めるのが、ちょっと違う気がする。日本で一昔前まで行なわれていたお百度参りみたいである。民間信仰だ。日本のお参りは宗教ではなくて、ご利益(りやく)を求める迷信だ。キリスト教は罪を悔い改めるのが基本だから、ジェレミーが神にご利益を求めるシーンに違和感があったのは当然だと思う。ジェレミーの信仰は迷信と同じなのか。
 
 そういう訳で、感動的なのは冒頭だけ。ライブイベント以降は、見知らぬサークルのイベントに初めて参加した新入生みたいに、居心地の悪い思いで鑑賞することになった。無宗教の当方にとっては残念な作品である。しかしもしかすると、クリスチャンの方々が観ると感動するのかもしれない。決してキリスト教を貶めている訳ではないので、誤解のなきよう。

映画「明け方の若者たち」

2022年01月01日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「明け方の若者たち」を観た。
 
 荒井由実作詞の「スカイレストラン」という歌がある。日本のコーラスグループのハイ・ファイ・セットが歌った。ソプラノの山本潤子の美しい歌声が記憶に残る。次の歌詞で結ばれている。
 
 なつかしい電話の声に 出がけには髪を洗った
 今だけは彼女を忘れて わたしを見つめて
 
 北村匠海が演じる主人公にとって、来ないで欲しいけれども確実にやって来るその日がある。それまでは自分だけを見つめてほしい。男も女も同じだ。「かっこいい男になれ」と尚人は言う。その通りだ。それしか生きる道はないじゃないか。でも、かっこいい男って何だ?
 
 アニメ映画の高校生の恋じゃない。大人の恋だ。エロティックな部分も当然描く必要がある。ならぬ恋の最初のセックスは、これでもかというほどいやらしく激しく盛り上がらなければならないのだ。監督のその思いを汲んで、黒島結菜はキスするときに一生懸命に舌を突き出していた。
 しかし北村匠海がそれに応えたとは言い難い。そこは思い切りよくいってほしかった。ちなみに互いに舌を出して、舌先を舐め合ったり舌を絡ませたりするキスのことをピクニックキスと言うらしい。
 松本花奈監督がラブホで二人にやらせたかったのはピクニックキスに違いないと直感した。しかし北村匠海にはまだ覚悟が足りなかった。そして若い松本監督は北村匠海に遠慮したのか、そこまでの演出ができなかったようだ。少し残念である。
 
 社会人になって淡々と仕事をこなすだけの日常になると、馬鹿をやった学生時代のように時間を濃密に感じることができなくなる。性風俗に行ったり、ガールズバーでエロティックな会話をしたりする。
 学生時代に「内定をもらった俺たちは勝ち組だ」と叫んでいた奴の末路が悲惨である。悲惨だが笑える。勝ち組だと喜べなかった自分は間違っていなかったのだ。少しだけホッとする。電通女は社員寮から飛び降りたりしていないかしら。
 
 ガールズバーで「エロく聞こえるけど普通の言葉、山手線ゲーム」というのをやっていて、これが面白かった。そのシーンで聞いた言葉は「アナリスト」しか覚えていないので、少し足してみる。
 
 パチ、パチ、アナリスト!
 パチ、パチ、尺八!
 パチ、パチ、水戸黄門!
 パチ、パチ、オマンジュウ!
 パチ、パチ、チンチンデンシャ!
 パチ、パチ、アイナメ!
 パチ、パチ、簿っ記!
 パチ、パチ、フェラーリの千代ちゃん
 ブブー。ひとつの言葉じゃねえし。
 おあとがよろしいようで。
 
 ガールズバーに行っても性風俗に行っても、主人公の心についた傷は一生消えることはないだろう。しかし誰もが傷ついて生きているのだ。
 寄らば大樹の陰の大企業。生活は保証されるが人格はスポイルされる。自由を放棄すれば楽な暮らしができるが、自由を求めると生活に困窮するだろう。しかしどこかで勝負をかけなければならない。
 やりたかったことを忘れるなと尚人が言う。そんなことは解っていると主人公は言う。主人公が「かっこいい男」になれる日も、そう遠くないかもしれない。