三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「almost people」

2023年10月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「almost people」を観た。
映画『almost people』

映画『almost people』

映画 | Movie「almost people(オールモストピープル)」4人の監督が紡ぐ『感情の欠けた4人兄弟姉妹』を描いた1本の映画A film about "four brothers and sisters w...

映画『almost people』

 いながききよたかが脚本を書いた映画「忌怪島」が不出来だったので、本作に期待するみたいなレビューを書いたが、タイミングが合わなくて、公開から3週間過ぎてようやく鑑賞することができた。しかし4話のオムニバスだから、どの作品の脚本を担当したのか、不明である。喜びがテーマの長男の話「Voice Recorder」か、怒りがテーマの長女の話「Humanoid」のいずれかだろうとは思う。一方は感性の話で一方は理屈っぽい世界観だが、いながききよたかなら、どちらも書けそうだ。

 現代ではAIの登場で、人間とは何かという疑念が、社会全体に霧のようにたゆたう。論理的に思考を積み重ねていく人もいれば、ぼんやりと無意識の中で想念を巡らせる人もいる。AIが人間に代わって仕事を担うのであれば、人間にしかできない仕事をするしかないとか、そうではなくて、例えば将棋やチェスのように、AIが人間より強いことが判明しても、人間同士のゲームが楽しまれているように、AIのできる仕事でも、人間がやる価値があるかもしれないとか、そういったことを考える。
 人間の思考においては、自分が人間であることを前提にする必要はない。地球にとって一番の害悪は人類の存在だと、人類の現状を否定することもできる。思考は常に自由でなければならない。日本の現状を否定すると日本から出ていけと怒る人がいるが、思考も表現も肯定も否定も、人間の精神的な活動として、それらの自由が保障されなければならない。
 無条件に人間や人類を肯定する人々は、人間や人類が自らを滅ぼす方向に進み続けていることを指摘されたくないらしい。自己矛盾は怒りを呼び、暴力に結露する。フランクな車座会議が一瞬にして暴力の場となるのは、人間の醜さと浅ましさの表現だろう。出産を否定されると、自分が否定されたように感じるのだろうか。

 喜怒哀楽の感情が抜け落ちていても、人間は人間である。当方は高校生のときに、国語教師が言った言葉をいまでも覚えている。それは「親が死んで泣かない奴は人間じゃない」というものである。国語教師の一元論的な決めつけは不快だったし、自分は親が死んでも泣かない予感がした。その後、その予感は的中した。
 子供の頃から、飼っていた犬猫の死に多く直面している。自分で鶏を殺して捌いたこともある。植物が枯れるのを何度も見たし、親族の葬式には何度も参列した。親の死とはいえ、生物の死に何の違いがあろうか。いちいち泣いていたら生きていけない。

 エピクロスによれば、最高の快楽=喜びとは、心の平安であるらしい。心の平安をもたらすものは不安と恐怖だから、不安と恐怖の欠如が喜びという訳だ。随分と消極的というか、引き算の喜びであるが、人間の不幸が不安と恐怖に由来すると考えれば、エピクロスの言葉は真実を突いている。喜怒哀楽がないほうがむしろ幸せなのだ。
 つまり本作品は、不幸を背負っていることが人間の条件なのではないかと、そう問いかけている訳である。不安と恐怖に苛まれ、顫えながら生きるのが人間で、そうでない者は人間としての資格がないのかもしれないというアンチテーゼが前提にあるのだ。
 しかし顫えながら生きる人間は、暴力に走り、別れに泣き、束の間の喜びに我を忘れる。そういう結末を示しつつ、改めて人間とは何かを突き詰めると、むしろ喜怒哀楽から解放されたところに存在価値があるのではないかと、そう思えてくる。そんな作品である。

映画「La Syndicaliste」(邦題「私はモーリーン・カーニー 正義を殺すのは誰?」)

2023年10月26日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「La Syndicaliste」(邦題「私はモーリーン・カーニー 正義を殺すのは誰?」)を観た。

 原題は「La syndicaliste」(直訳=組合活動家)である。邦題は少し気負い過ぎの感があるが、穿った見方かもしれないと思った。誰が正義で誰が悪なのか、誰が真実を話して、誰が嘘を吐いているのか、そこを考えながら観ると、実に奥の深い物語であることが分かる。

 原子力に関する利権は、構造的に日本もフランスも同じだ。原子力ムラのようなものがあり、関係者は利権で潤っている。関係者の中には政府の機関も当然含まれているから、反対する人は、学者でもジャーナリストでも人権を脅かされることになる。
 本作品では、その被害者は労働組合の書記長だ。イザベル・ユペールが颯爽と演じるモーリーン・カーニーは、原子力施設への中国の参入が、世界最大の原発会社アレバ社の5万人の雇用を脅かしていると訴える。そして何者かによる被害を受ける。

 本作品は、あえて曖昧さを残していて、もしかしたらモーリーンが嘘を吐いているかもしれないと思わせるし、逆に、あるいは警察が嘘を吐いているかもしれないと思わせる場面もある。
 もし警察が嘘を吐いているとすれば、現場にDNAも指紋も他の物的証拠も何も残されていない理由が分かる。現場を調査するのは警察で、あったものをなかったことにするのは簡単だ。証拠は捏造するよりも隠滅するほうが遥かに容易である。警察が証拠を隠滅する理由を考えると、戦慄の推測が成り立つ。つまり犯人も警察だということだ。
 モーリーンの自動車からバッグを奪った犯人はバイクに乗っていた。そして取り調べの中心となる憲兵もバイクに乗っている。こいつが犯人だと観客を誘導しているのかもしれない。本当のことがわからないままというのは、いかにも実話がベースの物語である。事実は小説よりも奇なりだ。

 人類はもはや、電気のない生活を送ることが考えられないほど、電気に依存している。マサイ族もスマホで仕事をしているくらいだ。電力の安定供給は人類にとって最も重要な課題のひとつである。原子力発電は効率的かもしれないが、事故の発生や核のごみ処理の問題が解決されていない。国民の安全が第一のドイツが危険な原子力発電から撤退して、再生可能エネルギーにシフトしたのは賢明な選択だと思う。

 アレバ社の労働組合はアレバ社の存続がないと雇用が維持できない訳だが、一方では原発の危険性もよく認識している。モーリーンは組合員の代表の立場を一ミリも崩さないが、内心では原発の将来性について危惧していた面もある。イザベル・ユペールは、この微妙な役柄を微妙なままに演じきった。流石としか言いようがない。