三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」

2023年10月22日 | 映画・舞台・コンサート
映画「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」を観た。
映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』公式サイト

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マーティン・スコセッシ監督作品『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』大ヒット上映中。

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 206分の大作だが、感覚的にはまったく長く感じない。ただし鑑賞前にはトイレに行っておくべし。

 ヨーロッパ人がアメリカ大陸に渡って支配を開始したときから、ヨーロッパ人には根拠のない奢りがあった。世界史では大航海時代にコロンブスやバスコ・ダ・ガマによって新大陸やインドが発見されたとされているが、それは明らかにヨーロッパ人からの主張である。発見された側は、明らかに侵略された側だ。
 インディアンや南インド諸島という呼称は、新大陸に着いたのにうっかりインドだと思ってしまったコロンブスの勘違いに由来するが、その後すぐに、インドではないことが判明した。しかし本作品を観ると、20世紀初頭になっても、相変わらずインディアンという呼称が使われていたことがわかる。

 本作品は、元々住んでいた土地を追われたオセージ族が行き着いた土地を購入して、ようやく終の棲家を見つけたものの、そこから石油が吹き出して大金持ちになったあとの顛末が描かれる。コロンブスからすでに400年経っているが、ヨーロッパ人の奢りは相変わらずで、インディアンには財産を管理する能力がないから、白人が代わりに管理してやらないといけないと、実に身勝手な論理を振りかざす。

 主人公アーネストの妻モリーは、管財人に名前を名乗るのに「無能力者」と付け加えなければならない。暴力では白人に敵わないから、唯々諾々と従うしかないが、人間としての尊厳が蹂躙されていることは自覚している。つまり白人の横暴を理解している訳だ。
 実に賢くて気高いモリーに対して、アーネストは愚かで臆病だ。それでもモリーは、アーネストの自分への愛が本物であることを見極める。だから結婚するのだが、モリーが石油の利権の正統な継承者であることから、この結婚は周囲の人々の様々な強欲を誘発することになる。特にアーネストの伯父であるウィリアム・ヘイル=キングは、自分の利益のためには他者の不利益や生命さえも軽んじるという鬼畜ぶりだ。
 アーネストはというと、持ち前の臆病と利己主義から、キングの言いなりになってしまう。それでもモリーへの愛はあるから、モリーを守るのかキングに従うのかで引き裂かれそうになる。物事を深く考えた経験がないから、アーネストには哲学がない。だから自分の行動を勘で決めることになる。整合性も顧みないから、行き当たりばったりだ。モリーがアーネストの誠実さを試す最後の質問をするシーンは、とても行き詰まる場面だが、アーネストは臆病風に吹かれて保身を優先してしまう。一度も勇気を出すことなく、アーネストはクズの人生の残りを過ごすことになる。

 ドキュメンタリー映画であれば、オセージ族の受難の歴史の数々が時系列に従って並列的に紹介されるのだろうが、本作品はドラマである。マーティン・スコセッシ監督らしく、人間の不条理を徹底して描く。
 不条理の大きな源は、ロバート・デ・ニーロが演じたキングである。強欲を絵に描いたような人物で、他人の人格も人権もまるでないかのように振る舞う。得をすると思えばでまかせも言うし嘘もつく。脅もすれば騙しもする。人殺しも厭わない。もはやデ・ニーロではなくて根っからの悪党にしか見えない。大したものだ。
 レオナルド・ディカプリオは、愚かで臆病なくせに欲深い守銭奴のアーネストを、モリーへの無条件の愛情も含めて、余すところなく演じきった。本作品ではFBIの初代長官であるジョン・エドガー・フーヴァーが話の中でさり気なく紹介されているが、2011年のクリント・イーストウッド監督の映画「J・エドガー」では、主役のフーヴァーをディカプリオが演じている。何かの縁かもしれない。

映画「ザ・クリエイター 創造者」

2023年10月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ザ・クリエイター 創造者」を観た。
ザ・クリエイター/創造者|映画/ブルーレイ・デジタル配信|20世紀スタジオ公式

ザ・クリエイター/創造者|映画/ブルーレイ・デジタル配信|20世紀スタジオ公式

『ザ・クリエイター/創造者』公式サイト。『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のギャレス・エドワーズ監督がすべての映画ファンに捧げた、実際に起こりうる人...

20世紀スタジオ

 AIロボットの映画にはどうしても付きまとうテーマがある。それは「人格を認める要件とは何か」である。
 人間は生まれてきた瞬間から人格を認められ、人権が保護される。しかし胎児の段階では人間とは認められず、人権もない。だから堕胎手術は殺人とはならない。これについては宗教的または倫理的観点からの異論もあるし、堕胎を認めていない共同体もあるが、その議論はひとまず横に置いておく。
 人間以外の生命は、人格を認められることはない。食料にされたり、実験材料にされたり、発酵に使われたりする。人間とコミュニケーションが出来ず、明確な意思表示や感情表現が出来ないのが大きな理由のひとつだろう。
 しかし言葉が喋れて意思疎通が出来る動物がいたらどうだろうか。犬や猫ならまだしも、豚や牛だったら、殺して食べることにいささかの抵抗が生じるだろう。ゴキブリだとどうだろう。喋るゴキブリはもはや悪夢である。反射的に叩き殺してしまうかもしれない。

 そう考えると、我々は見た目をかなり重視していることがわかる。猫や犬や鳥や、時には爬虫類や魚でも、見た目を気に入ると愛着が生じる。名前をつければ愛着はますます強まるだろう。そこで動物保護団体などが出来るが、大抵は脊椎動物が対象だ。ゴキブリを保護しようという主張は見たことがない。

 本作品も実は見た目重視になっていて、重要なAIロボットはヒューマノイドの外見で、表情豊かに話す。その他大勢のAIロボットは、機械的な外見に描かれている。兵士や警察官など、爆弾や銃弾で破壊されるロボットの大半は無機質な見た目である。しかし彼らにもAIが搭載されていて、自分で考えることも意思疎通もできるはずだ。にもかかわらず、その他大勢という理由だけで、見た目を人間から遠くし、やたらにたくさん殺される役を引き受けさせる。
 人がたくさん殺される映画の殆どが同じ構造になっていて、その他大勢のひとりひとりに人格があるにも関わらず、一瞬で殺されて顧みられることがない。本作品に登場するAIロボットも、個性的で重視されるものと、画一的で軽んじられるもののふたつの役割に分けられる。見た目もその通りになっている。

 AIロボットに戦争をさせるのは、人間の節約にはなるものの、それ以上に莫大な予算が必要となるが、その話は出なかった。
 AIロボットに戦争を任せて通信とプログラムを制御させれば、当然核兵器もコントロールできる。しかし本作品に核兵器が登場するのは冒頭の経緯説明のシーンだけである。核兵器を廃絶したシーンはないから、AIロボットが核兵器を制御しているのは間違いなく、どうしてそれを使わないのか、または交渉の切り札にしないのかも不明。

 という訳で、違和感をいくつも覚えながらの鑑賞となった。前述した疑問も最後まで解決されないままだ。
 ベトナム語に似せた言語は、ベトナム戦争に似た本作品の構造を暗示しているのは分かったし、子供型のAIロボットが祝福されるシーンが、聖書に記されている、ヨルダン川でヨハネがイエスにバプテスマを施したのに似ているとも思った。
 しかしAIの子供が世界の救世主になる訳ではない。人格の要件や見た目の問題、廃絶されない大量の核兵器などの問題は、依然として未解決のままである。鑑賞後のそういったもやもやを残すことが、実は監督による深謀遠慮なのかもしれない。邪推が過ぎるだろうか。

映画「春画先生」

2023年10月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「春画先生」を観た。
映画『春画先生』公式サイト

映画『春画先生』公式サイト

映画『春画先生』公式サイト

 内野聖陽は数年前に新宿で舞台「化粧二題」の一人芝居を観劇した。引き締まった身体で張りのある声を出す。迫力満点の演技が印象に残っている。本作品はその身体の印象をもって鑑賞した。とても面白かった。担当編集者の辻村はアグレッシブなバイセクシャルで、狂言回しの役も兼ねている。柄本佑は見事だった。

 かつて春画は外国で話題になったことがあるらしい。描かれている巨大な男根は「ウタマロ」と呼ばれて、驚きやジョークのネタにされていた。戦後の日本人を見て、春画のデフォルメに感心したり、ガッカリしたりしたようだ。年配の外国人男性に「ウタマロ」と言うと、ニヤリとする人がいるかもしれない。
 鰹節が何度も登場するのが意味深である。イタリア語の Cazzo は発音すると「カツオ」に聞こえる。男根の意味だから、イタリアで迂闊にカツオの話は出来ない。この話はタモさんの講演で聞いた。ちなみに魚のカツオは英語でもイタリア語でも Bonito(ボニート)だ。

 鑑賞前の予想では、春画は文化ということで、その歴史や蘊蓄を垂れるシーンばかりかと思っていたが、春画が醸し出す劣情には逆らえないというシーンが多かった。編集者の辻村によると、春画は心のブレーキを解き放つらしい。別の言い方をすれば理性を失う訳だが、理性を失って何かに没頭するのは、悪いことではない。

 禁忌(タブー)は共同体の存続のために必要だが、多すぎると息苦しくなる。何をやってもハラスメントと非難される現代は、大らかだった江戸の人々には、息が詰まる世の中だろう。セックスの声や音がうるさいという隣人の苦情がまかり通れば、安アパートに住むカップルは困る。むしろお盛んでよろしいと笑えるくらいでないといけない。

 森繁久彌は美人を見かけると「一回どう?」と声をかけていたらしい。試してみて、身体の相性がよければ繰り返すし、そうでなければ一度きりだ。割り切っていて、とてもいい。もちろん、相手の人格を尊重するという寛容が前提である。人格を尊重すれば、乱暴なことはしないし、意に反することを強要することもない。

 現在、巷を騒がしている芸能事務所の死んだ社長による事件は、相手の人格を尊重する気持ちがまったくないことに由来すると思う。力関係を利用して性交渉を強要するのは、ほとんど強姦である。痴漢も同じだ。
 その点、森繁久彌は極めて紳士的だ。「一回どう?」と聞かれて不愉快を覚える女性もいるだろうが、少なくとも暴力的でないことだけは確かである。むしろ「一回どう?」と聞けない男性の数は、聞ける男性よりもはるかに多いと思う。社会の雰囲気がそうなっているのだ。そこが問題だと思う。

映画「キリエのうた」

2023年10月18日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「キリエのうた」を観た。
音楽映画『キリエのうた』| 10月13日(金)公開

音楽映画『キリエのうた』| 10月13日(金)公開

音楽映画『キリエのうた』公式サイト。原作・監督:岩井俊二 出演:アイナ・ジ・エンド 松村北斗 黒木華 / 広瀬すず

音楽映画『キリエのうた』| 10月13日(金)公開

 岩井俊二監督の映画は、2020年の「ラストレター」もそうだったが、時間と空間を前後しながら物語がやがて一本の道となっていく編集方法だ。本作品も同じように時間と空間が前後する。登場人物の気持ちを大事にするから、シーンが長くなる。その分、観客の想像力は限定される。俳句みたいな引き算ではなく、足し算の手法である。

 キリエという稀有の歌声の持ち主がいる。そして彼女に関わる人々の人間模様を中心に、時の流れの中で変わらないもの、変わり果てたものが描かれる。周囲を描くことでキリエの人間性を炙り出す。その部分だけは観客の想像力に委ねられる。極めて文学的だ。
 どのようにして現在のキリエになったのか。あるいは境遇になったのか。小学生の2011年から高校2年生の2018年、そして5年後の現在にジャンプするので、それぞれの間は不明だが、キリエがずっと大切にしているノートは、女子高生の真緒里が高校の図書館で見かけたものだ。中身は見えなかったが、おそらく歌詞とコードだろう。

 災害でも事故でも戦争でも、被災者は身体の傷だけでなく、心にも深い傷を負う。日本の社会制度では被災者は救われない。ただ僅かばかりの金を出し、束縛するだけだ。束縛から逃れて自由になろうとするキリエは、心の傷からも逃れようともがく。そしてそれが歌になる。
 歌に力があれば、アレンジャーがイントロダクションを付けたり、楽器を加えたりすることが可能だ。より洗練された歌になって、商業ベースにも乗ってくる。歌が仕事になっても、アマチュア時代のモチベーションを維持できるかどうかが、シンガーソングライターの岐路になる。キリエがどうなるのか、誰にもわからない。

 広瀬すずの演じた広澤真緒里=一条逸子の言葉が印象に残った。奥菜恵が演じた母は、スナックの3代目のママ。このままだと自分は4代目のママになってしまう。女を売りにする仕事はしたくないと、女子高生の真緒里は言う。しかし行き詰まった東京では、女を売りにするしかなかった。真緒里の不幸とキリエの自由を重ね合わせて描きたかったことが分かる。人生が交わるときにドラマが生まれるという訳だ。よく出来ている。

映画「月」

2023年10月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「月」を観た。

 とても面白かったが、とてもキツかった。

「本当のことを言え」
 まるで喉に刃物を突きつけられたような気がした。安全無事を願うこちらの心を見透かしているかのように、容赦なく問いかけは続く。
「きれいごとを言うんじゃないぞ」

「それが現実です」
 磯村勇斗のさとくんと、二階堂ふみの陽子の口癖だ。視野の狭さを感じる部分はあるが、介護者として日々触れ合う障害者たちと、五感全部で向き合わねばならない者たちの本音であることはたしかだ。

 しかし宮沢りえの主人公堂島洋子は、違和感を覚える。さとくんも陽子も、障害者と自分たちは違うと思っている。そこがおかしい。自分たちはたまたま健常者で生まれてきただけで、偶然に過ぎない。健常者であっても、いつ不慮の事故に遭って障害者にならないとも限らない。いつ災害に遭って家も財産もなくさないとも限らないし、いつ失業してホームレスにならないとも限らない。障害者やホームレスと自分たちの差は紙一重に過ぎないのだ。
 多くの人はうっすらとそのことに気づいていると思う。漠然とした不安や危機感は常にある。だからいまの安全無事を願う。君子危うきに近寄らず、李下に冠を正さず。見て見ないふりをする。きれいごとで表面を取り繕う。他人にも自分にも嘘をつく。
 そこを責められると、洋子には返す言葉がない。洋子には負い目がある。安全無事を願ってきたという負い目だ。しかし障害者の人格を否定するのは別の問題だ。ましてや生命さえ否定するのは、ナチスの優生思想と同じではないか。

 松山ケンイチが主演した映画「ロストケア」を思い出す。金持ちは痴呆症の要介護者を施設に入れるが、貧乏人は自分で介護するしかない。介護で働けなくてもその理由では生活保護費は支給されない。社会は穴の空いたバケツで、不幸な人たちは穴から落とされる。主人公の斯波はそう主張する。

 本作品は知的障害者施設が舞台だが、介護の現実は痴呆症と同じで、食事、入浴、トイレが自分でできない要介護者が相手だ。キツい仕事である。あまりのキツさから、要介護者に対する殺意が生じる。痴呆症も障害者も同じだ。
 要介護者の問題は社会全体で引き受ける必要がある。家族や施設の職員が生活を犠牲にしたり精神を病んだりしながら対処するものではない。税金は困っている人にこそ使われなければならない。使いもしない武器や兵器を買っている場合ではないのだ。

 しかし他人の不幸に自分の税金が使われることに納得しない人々がいる。障害者やホームレスと自分たちの差が紙一重に過ぎないことを理解しない人々だ。南青山の児童相談所の建設に反対した港区民がいたが、その理由がふるっていた。児相は街のイメージを低下させ、地価の下落を招くというのである。地位も財産もある人々かもしれないが、地位や財産はいっときの幻想だということを理解していない訳だ。
 政権を担う政治家も、二世三世が多く、地位や財産が永遠のものと勘違いしている。不幸な人には興味がない。困っている人を助けるのが政治だとは思っていない。困っている人々に当てられる予算は雀の涙である。さとくんを生み出したのは、そういう政治家を選び続ける我々なのだ。

映画「ゆとりですがなにか インターナショナル」

2023年10月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ゆとりですがなにか インターナショナル」を観た。
映画『ゆとりですがなにか INTERNATIONAL』

映画『ゆとりですがなにか INTERNATIONAL』

『ゆとりですがなにか インターナショナル』大ヒット上映中ですがなにか!人生、山あり谷ありゆとりナシ!?すべての世代に突き刺さるノンストップ新世代コメディ!!

映画『ゆとりですがなにか INTERNATIONAL』

 面白かった。悪人が登場しないホンワカした作品である。それに笑える。映画を観て笑うのはいい休日の過ごし方だろう。

 アメリカ映画の「ハングオーバー!」は、タイトルの通り二日酔いの男たちがブラックアウトで前夜の出来事をすべて忘れてしまったところからはじまる。とことんまで羽目を外した自分たちの行動に、最初は呆れ、次に絶望し、最後は笑ってしまうという、なんとも無責任なコメディである。あまりの馬鹿馬鹿しさと荒唐無稽の展開に、ハマる人が多くて、当方の周りでも続編を期待する声が多かった。続編は公開されたが、やはり第一作目が一番ケッサクだった。

 本作品は造り酒屋が舞台だけあって、酒を飲むシーンが何度も登場する。マッコリも登場するが、市販のマッコリの殆どは、人工甘味料のアスパルテームが使われているから、当方は飲まないことにしている。アスパルテームは、製パンに使われる臭素酸カリウムと同じく発ガン性が疑われている。製造会社や御用学者は安全だと主張しているが、人体について医学で分かっていることは1パーセントもないことは、医学界では常識だ。アスパルテームも臭素酸カリウムも、摂取した際の、発癌性以外の人体への悪影響については、まだ何も明らかになっていないと言っていい。
 その点、本作品の服部杜氏は、酒作りは自然のものだけを使うという信念の持ち主で、とても好感が持てる。マッコリも本場の高級品にはアスパルテームなど添加されていない。日本酒も本醸造には醸造用アルコールが添加される。だから当方は純米酒しか飲まない。酒米を作るのに化学肥料が使われているではないかという批判もあるが、植物の自浄作用を信じたいと思っている。少なくとも政治家や役人の自浄作用よりは何億倍も期待できるはずだ。

 ゆとり教育と言っても、あまりピンとこない人が多い気がする。タイトルは、ゆとり教育を受けて育った人間は学力が低くてやる気もないというイメージに反発するというものだが、そもそも世間ではそういうイメージが薄れているし、ゆとり世代という概念そのものが希薄になっている。
 作品中で韓国人役の木南晴夏が韓国語で「だからゆとりは」という台詞を言うときだけ、ゆとり世代を思い出させる。それ以外はほとんどゆとり教育と無関係だ。
 宮藤官九郎の脚本は天才的で、SNSやリモート、小型で高性能なWEBカメラなど、日常生活の中にインターネットが入り込んでしまったことや、LGBTやハラスメントに過度に反応する現代社会を面白おかしく物語にしている。敢えてゆとり世代の要素を入れる必要はなかった。欧米の映画だったら「SAKAMA FAMILY」というタイトルにしていると思う。それで十分だ。

 岡田将生は「1秒先の彼」でも宮藤官九郎脚本の役柄の演技が軽妙だった。今回も平凡で弱気な主人公坂間正和を見事に演じている。表情も台詞回しもいい。松坂桃李のエキセントリックな教師や、柳楽優弥のネットスキルと中国語に長けた失業者も愉快だ。吉田鋼太郎の謎のおっさんは、役の配置からして年配の登場人物が必要だったのだろう。何も否定しないところがいい。作品を効果的にゆるくしている。妻役の安藤サクラは、6月に鑑賞した「怪物」、9月に鑑賞した「BAD LANDS」に続いて3つ目の出演作である。どんな役を演じても等身大の存在感がある。引っ張りだこになる訳だ。

映画「オペレーション・フォーチュン」

2023年10月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「オペレーション・フォーチュン」を観た。
映画『オペレーション・フォーチュン』公式サイト|10.13[FRI]ROADAHOW

映画『オペレーション・フォーチュン』公式サイト|10.13[FRI]ROADAHOW

主演:ジェイソン・ステイサム×監督:ガイ・リッチー|最強スパイ、オーソン・フォーチュン。ターゲットは100億ドルの闇取引。世界7ヵ国縦断の痛快スパイ・アクション!

 ガイ・リッチー監督は、ジェイソン・ステイサムと相性が悪いのかもしれない。前回の「キャッシュ・トラック」もイマイチだった。
 その前にマシュー・マコノヒーが主演した「ジェントルメン」がかなり面白かっただけに、本作品の間延びした展開は、正直、少しダレた。
 同じくAIの悪用をテーマにした「ミッションインポッシブル デッドレコニング」が出色の出来だっただけに、比べては悪いが、ちょっとガッカリである。
 それでも随所にガイ・リッチー監督らしいギャグやジョークを織り交ぜていて、笑えるシーンもある。悪くはないのだが、それが作品の緊迫感を削いでいるから、ワクワクやドキドキがない。本末転倒だ。
 ジェイソン・ステイサムは「トランスポーター」シリーズの豪胆な主人公がもっとも似合っていた。台詞は少ないほどいい。

映画「イコライザー The Final」

2023年10月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「イコライザー The Final」を観た。
映画『イコライザー THE FINAL』 オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

映画『イコライザー THE FINAL』 オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

映画『#イコライザー THE FINAL』10月6日(金)全国の映画館で公開

映画『イコライザー THE FINAL』 オフィシャルサイト | ソニー・ピクチャーズ

 デンゼル・ワシントンは「フライト」や「マクベス」では表情豊かな主人公を演じてみせた。「イコライザー」の以前の2作の主人公は、容赦のない無表情の殺し屋の側面が強かったが、本作品では豊かな表情を解禁して、人間的な魅力に溢れるロベルト・マッコールを演じている。
 一般人との交流は以前の作品にはなかったが、本作品では地元の人々との交流を通じて、殺伐としたマッコールの人生に赤みがさす。かつて世話になった上司の娘と絡ませるのも、マッコールに殺す殺される以外の人間関係を持たせたかったのだろう。そこが本作品の見どころのひとつである。
 もうひとつの見どころは、殺しの現場の演出だ。任務としての殺人なら、より速くより正確に致死に至らしめるが、本作品の殺し方には、マッコールの怒りが現れている。殺人マシンから人間に戻ったみたいで、現場は更に凄惨になるが、見ごたえは増す。

 邦題は「イコライザー THE FINAL」だが、原題は「The Equalizer 3」である。もしかすると「The Equalizer 4」もあるかもしれない。本作品も含めて、このシリーズはラスボスがショボいのが玉に瑕だから、「4」があるなら、もっと強大な敵を設定してほしい。引退して年老いたマッコールが、無辜の人たちのためにその強大な敵に立ち向かうのだ。ちょっぴり期待。

映画「白鍵と黒鍵の間に」

2023年10月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「白鍵と黒鍵の間に」を観た。
映画『白鍵と黒鍵の間に』オフィシャルサイト

映画『白鍵と黒鍵の間に』オフィシャルサイト

映画『白鍵と黒鍵の間に』/主演:池松壮亮 原作:南博「白鍵と黒鍵の間に」(小学館文庫刊) 監督・脚本:冨永昌敬 脚本:高橋知由 音楽:魚返明未

映画『白鍵と黒鍵の間に』オフィシャルサイト

 井上陽水の「傘がない」という曲をご存知だろうか。冒頭の歌詞は衝撃的だ。

都会では自殺する
若者が増えている
今朝来た新聞の
片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨
傘がない

 曲のリリースは1972年で本作品よりも13年前だが、世界観はよく似ている。

 人類は不幸の歴史を積み重ねているが、個人は小さなことに喜び、小さなことに嘆く。自分の成功と家族や恋人や友人など、近しい者たちの幸福を願う。そこまではいい。しかし自分の幸福を願うのは、他人の不幸を願うのと紙一重だ。どれほど多くの若者が自殺しようとも、今日の雨に差す傘がないことのほうが問題だと、人間はそんなものだと、陽水は歌ったのである。
 自分たちの幸福が共同体の繁栄に支えられていると思えば、やがて共同体の繁栄が自分たちの繁栄だという論理に結びつく。それはとりも直さず、他の共同体の不幸を祈ることと紙一重だ。戦争をはじめる族(やから)たちの心理である。

 ジャズピアニストを志す青年の、ふたつの時間と空間が銀座で交錯する。ジャムセッションでは、複数の楽器がそれぞれにソロを奏で、やがて重なり合うときの微妙なズレが心地のいいグルーヴ感を醸し出す。そんな感じの映画である。ちなみにフランス語の nonchalant は、アメリカ英語の cool に似ている。無愛想で冷たくて、カッコいい。
 主人公の南博が nonchalant になりきれない俗物に設定されているのもいい。人類はクソだが、音楽は無上だという音楽至上主義者だ。しかし残念ながら音楽が人々に親切や寛容をもたらすことはない。むしろ金儲けの道具にされ、または「推し」の対象になり、既に差別が始まっている。能天気な南博は自分の小さな成功を夢見るが、それもまた他人の不幸を踏み台にした成功であり、音楽が優しい世界を実現するという理想に反する。池松壮亮は夢と諦めの間で引き裂かれそうな主人公を絶妙に演じて見せた。自分を維持するためにスタイリッシュに振る舞う。

 現実と理想、希望と絶望が対比され、主人公が内包する矛盾が時間軸のズレとなって作品を支える。ドタバタの展開とは裏腹に、なかなか哲学的な作品なのである。

映画「アナログ」

2023年10月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アナログ」を観た。
映画『アナログ』公式サイト

映画『アナログ』公式サイト

主演:二宮和也×ヒロイン:波瑠 会えるのは、木曜日だけ。僕が恋をしたのは、携帯を持たない君でした。好きだから、会いたい―いつの時代も変わらない“アナログ”な想いを描...

映画『アナログ』公式サイト

 百人一首にある平兼盛の歌を思い出した。

しのぶれど
色に出でにけり
わが恋は
ものや思ふと
人の問ふまで

 インターネット、特にスマートフォンは、我々の生活を劇的に変えた。手紙を書いたり固定電話の前で着信を待ったりすることはない。待ち合わせで何時間も待つこともない。図書館や本屋で調べ物をしたり、人に道を聞いたりすることもない。映画も食事も交通機関もスマホで予約できるし、買い物もできる。東西南北、老若男女、悉くスマホを使いこなして便利に生活している訳だ。
 では、代わりに失われたものはなんだろうと考えると、ちょっと悩む。いろいろ考えられるが、一番大きいのは、自分ひとりで考える時間ではないだろうか。それは他人との距離感が狭められたことに由来する気がする。
 ツイッターでは、会ったこともない人同士が互いに中傷し合ったり非難し合ったりしているのを見かける。大事なのは自分でよく考えることなのに、他人を論破することにエネルギーと時間を使っている。人生の浪費だ。スマホを持つことで損なわれようとしているのは、人間としての深みかもしれない。

 スマホがない方がいいと言っているのではない。時間の節約やら勘違い防止やらで、スマホがあったほうがいいのは間違いない。しかしその分、スマホに振り回されているのも事実である。
 ほんの30年前までは、携帯電話さえ普及していなかった。スマホが普及したのはここ15年くらいである。それが今や、電車に乗ればほとんどの人がスマホの画面を見ているし、道を歩きながら見ている人も多い。明らかに依存である。

 こういう作品を観ると、スマホを持たない生活もありだなと思う。日常でも旅行でも、事前にスマホでよく調べてしまうから、出逢いの喜びよりも落胆のほうが大きくなってしまうことがある。絶景を見ても、感動より前に撮影する。目的地に向かう道端の花の可憐な美しさに気づかない。自分で感じたり考えたりする時間を削ってしまうと、人生を損しているような気もしてくる。

 波瑠のみゆきは綺麗だったし、二宮和也はやっぱり演技が上手い。なんだかホッとする作品だった。