映画「Mon chat et moi, la grande aventure de Rrou ルー、パリで生まれた猫」を観た。
犬は人に付き、猫は家に付くという。雄猫は住処の周辺を縄張りとして、見回る。以前雄猫を飼っていたとき、夜遅い帰宅途中に、家の周りを見回りしているところに出くわしたことがある。声をかけると一瞬身構えたが、すぐに当方のことを認識して、一緒に帰宅したことがあった。猫は犬と違って人間と馴れ合うことはないが、飼い主のことは少しは覚えているようだ。かといって、猫を擬人化して気持ちを想像するのは間違いのもとである。人と人でさえ理解し合えないのだ。人と猫がわかり合うことはあり得ない。
原題の「Mon chat et moi, la grande aventure de Rrou」は、直訳すると「雄猫と私、ルーの大冒険」となる。「Ma chatte 〜」であれば雌猫だ。
少女クレムが、これはルーと私の成長物語だと序盤で語る。まさにその通りで、人間同士の出逢いと別れ、猫との出逢いと別れ、それに野生動物の母性の恐ろしさを経験して、クレムはひと回り成長する。
猫のルーは、生存本能と生殖本能で生きている。未知の環境に興味を示すが、それは餌の獲得と危険の回避のためでもある。そして危険に遭うたびに用心深くなる。そうやって少しでも長く生きて、子孫を残す。生命が自己複製のシステムである限り、野生動物はそれに従って生きる。
しかし人間は必ずしも生存本能と種の保存本能で生きている訳ではない。人間が社会で生きていくには本能の他に何かが必要なのだ。それが何なのか、クレムに分かるのはもう少し年数がかかる。
人間の中には、自分で生を終わらせる者もいる。小学生の自殺は少ないが、中学生、高校生になるにつれて増えていく。これからも生きていくかどうかを決めるのはクレム自身だ。
花発多風雨、人生足別離。唐の詩人の五言絶句を井伏鱒二は「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」と訳した。人生は出逢いと別れの連続で、自分の死を考えれば、出逢いよりも別れのほうがひとつ多いのかもしれない。別れは生まれたときからの宿命なのだ。それは辛いことでも悲しいことでもない。猫のほうがよく分かっている。