映画「ザ・クリエイター 創造者」を観た。
AIロボットの映画にはどうしても付きまとうテーマがある。それは「人格を認める要件とは何か」である。
人間は生まれてきた瞬間から人格を認められ、人権が保護される。しかし胎児の段階では人間とは認められず、人権もない。だから堕胎手術は殺人とはならない。これについては宗教的または倫理的観点からの異論もあるし、堕胎を認めていない共同体もあるが、その議論はひとまず横に置いておく。
人間以外の生命は、人格を認められることはない。食料にされたり、実験材料にされたり、発酵に使われたりする。人間とコミュニケーションが出来ず、明確な意思表示や感情表現が出来ないのが大きな理由のひとつだろう。
しかし言葉が喋れて意思疎通が出来る動物がいたらどうだろうか。犬や猫ならまだしも、豚や牛だったら、殺して食べることにいささかの抵抗が生じるだろう。ゴキブリだとどうだろう。喋るゴキブリはもはや悪夢である。反射的に叩き殺してしまうかもしれない。
そう考えると、我々は見た目をかなり重視していることがわかる。猫や犬や鳥や、時には爬虫類や魚でも、見た目を気に入ると愛着が生じる。名前をつければ愛着はますます強まるだろう。そこで動物保護団体などが出来るが、大抵は脊椎動物が対象だ。ゴキブリを保護しようという主張は見たことがない。
本作品も実は見た目重視になっていて、重要なAIロボットはヒューマノイドの外見で、表情豊かに話す。その他大勢のAIロボットは、機械的な外見に描かれている。兵士や警察官など、爆弾や銃弾で破壊されるロボットの大半は無機質な見た目である。しかし彼らにもAIが搭載されていて、自分で考えることも意思疎通もできるはずだ。にもかかわらず、その他大勢という理由だけで、見た目を人間から遠くし、やたらにたくさん殺される役を引き受けさせる。
人がたくさん殺される映画の殆どが同じ構造になっていて、その他大勢のひとりひとりに人格があるにも関わらず、一瞬で殺されて顧みられることがない。本作品に登場するAIロボットも、個性的で重視されるものと、画一的で軽んじられるもののふたつの役割に分けられる。見た目もその通りになっている。
AIロボットに戦争をさせるのは、人間の節約にはなるものの、それ以上に莫大な予算が必要となるが、その話は出なかった。
AIロボットに戦争を任せて通信とプログラムを制御させれば、当然核兵器もコントロールできる。しかし本作品に核兵器が登場するのは冒頭の経緯説明のシーンだけである。核兵器を廃絶したシーンはないから、AIロボットが核兵器を制御しているのは間違いなく、どうしてそれを使わないのか、または交渉の切り札にしないのかも不明。
という訳で、違和感をいくつも覚えながらの鑑賞となった。前述した疑問も最後まで解決されないままだ。
ベトナム語に似せた言語は、ベトナム戦争に似た本作品の構造を暗示しているのは分かったし、子供型のAIロボットが祝福されるシーンが、聖書に記されている、ヨルダン川でヨハネがイエスにバプテスマを施したのに似ているとも思った。
しかしAIの子供が世界の救世主になる訳ではない。人格の要件や見た目の問題、廃絶されない大量の核兵器などの問題は、依然として未解決のままである。鑑賞後のそういったもやもやを残すことが、実は監督による深謀遠慮なのかもしれない。邪推が過ぎるだろうか。