映画「白鍵と黒鍵の間に」を観た。
井上陽水の「傘がない」という曲をご存知だろうか。冒頭の歌詞は衝撃的だ。
都会では自殺する
若者が増えている
今朝来た新聞の
片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨
傘がない
曲のリリースは1972年で本作品よりも13年前だが、世界観はよく似ている。
人類は不幸の歴史を積み重ねているが、個人は小さなことに喜び、小さなことに嘆く。自分の成功と家族や恋人や友人など、近しい者たちの幸福を願う。そこまではいい。しかし自分の幸福を願うのは、他人の不幸を願うのと紙一重だ。どれほど多くの若者が自殺しようとも、今日の雨に差す傘がないことのほうが問題だと、人間はそんなものだと、陽水は歌ったのである。
自分たちの幸福が共同体の繁栄に支えられていると思えば、やがて共同体の繁栄が自分たちの繁栄だという論理に結びつく。それはとりも直さず、他の共同体の不幸を祈ることと紙一重だ。戦争をはじめる族(やから)たちの心理である。
ジャズピアニストを志す青年の、ふたつの時間と空間が銀座で交錯する。ジャムセッションでは、複数の楽器がそれぞれにソロを奏で、やがて重なり合うときの微妙なズレが心地のいいグルーヴ感を醸し出す。そんな感じの映画である。ちなみにフランス語の nonchalant は、アメリカ英語の cool に似ている。無愛想で冷たくて、カッコいい。
主人公の南博が nonchalant になりきれない俗物に設定されているのもいい。人類はクソだが、音楽は無上だという音楽至上主義者だ。しかし残念ながら音楽が人々に親切や寛容をもたらすことはない。むしろ金儲けの道具にされ、または「推し」の対象になり、既に差別が始まっている。能天気な南博は自分の小さな成功を夢見るが、それもまた他人の不幸を踏み台にした成功であり、音楽が優しい世界を実現するという理想に反する。池松壮亮は夢と諦めの間で引き裂かれそうな主人公を絶妙に演じて見せた。自分を維持するためにスタイリッシュに振る舞う。
現実と理想、希望と絶望が対比され、主人公が内包する矛盾が時間軸のズレとなって作品を支える。ドタバタの展開とは裏腹に、なかなか哲学的な作品なのである。