三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「化け猫あんずちゃん」

2024年07月21日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「化け猫あんずちゃん」を観た。
映画『化け猫あんずちゃん』公式サイト

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森山未來が37歳の化け猫に!世界が注目する才能が集結!日仏合作アニメーション『化け猫あんずちゃん』絶賛公開中!

映画『化け猫あんずちゃん』公式サイト

 37歳のあんずちゃんは人間並みの大きさで、箸も箒も釣り竿も使える。地域に馴染んでいて、もはや誰も驚かない。原付に乗ってマッサージの仕事に行く。受注は直電の携帯だ。

 鑑賞前の印象では、落ち着き払ったあんずちゃんが、快刀乱麻を断つように難題を解決してスカッとする物語かなと思っていた。ところがあんずちゃんは、人間の基準で言えば、典型的な俗物で、これといった特技もない。近所をほっつき歩くような平凡な日常風景が続く。

 どうなることかと思っていたら、後半になると、ゲゲゲの鬼太郎を彷彿させるアクションシーンが登場する。このあたりが本作品のハイライトなのだろう。サラリーマンみたいなノリの鬼たちが面白い。そして小柄なのに体重1トンはあろうかという迫力満点の閻魔大王が、圧倒的な存在感で場を支配する。
 あんずちゃんはと言えば、突出はしていないが、人並みに活躍する。そして撃沈。死に対する戦いなのだ。もともと勝てるはずがないのである。それを思い知るのが、もうひとりの主役のかりんだ。化け猫あんずちゃんは、かりんを成長させるトリックスターだったという訳だ。納得。

映画「クレオの夏休み」

2024年07月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「クレオの夏休み」を観た。
映画『クレオの夏休み』公式|7月12日(金)公開

映画『クレオの夏休み』公式|7月12日(金)公開

映画『クレオの夏休み』公式|7月12日(金)公開

 クレオにはある思い出がある。わずか3年か4年前のことだ。しかし6歳のクレオにとっては、人生の半分以上前のことである。だからクレオはずっと前のことだと話す。忘れたい気持ちがあるのだ。しかし本当は一度も忘れたことはない。
 ずっと付き添ってくれた乳母のグロリア。その母の墓の前。クレオは泣いた。思い出したのだ。グロリアは、クレオがどうして泣いたのか、もちろん分かっていた。それでもクレオが自分の母のために泣いてくれたように思えた。クレオはいい娘だ。

 人は幼い頃、自分が世界の中心でないことに気づくときがくる。そしてはじめて、客観視した自分のことを記憶する。物心つくとはそういうことだ。クレオはもう一度世界の中心に戻りたいと願うが、その願いは理に適っていない。もはや戻れないのだ。
 セザールもまた、クレオの存在によって、同じことに気づかされる。自分は世界の中心ではない。そんなことは分かっている。いや、分かっているつもりだった。クレオが来て、自分のことをちっぽけな存在だと顧みる。そしてセザールは、自分は愛情を注がれて育てられたのだと、やっと理解する。
 クレオは、新しく母親になったナンダにも影響を与える。幼いクレオが示した身勝手さは、そのまま自分の身勝手さだ。ナンダは来し方を振り返る。自分も愛情いっぱいに育まれた。今度は自分が愛情を注ぐ番だ。

 脚本、監督はマリー・アマシュケリ。心象風景を象徴的なアニメで表現する手法を取り入れ、低予算でも内容の濃い作品が作れることを証明した。そして、登場人物の情緒の変遷と、変化していく人間関係のダイナミズムを、僅かなシーンや微妙な表情で見事に表現してみせた。短い作品ながら、見ごたえは重量級だ。凄い才能である。

映画「大いなる不在」

2024年07月15日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「大いなる不在」を観た。
作品情報 I 映画『大いなる不在』公式サイト

作品情報 I 映画『大いなる不在』公式サイト

近浦啓監督作品『大いなる不在』2024年7月12日(金)テアトル新宿、TOHOシネマズシャンテ他 全国順次公開

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 1972年に出版された有吉佐和子の小説「恍惚の人」が、痴呆症もしくは認知症を扱って有名になった最初の作品だと思う。恍惚はうっとりする様子だが、惚は惚ける(ぼける)にも惚れる(ほれる)にも使われる漢字だ。もしかしたら同じ意味なのかもしれない。

 ひとつの屋根の下に10人かそれ以上が暮らしていた大家族の時代には、惚けた老人をみんなで面倒を見ていたから、ひとり当たりの負担はそんなに大きくなかった。高度成長期で核家族化が進むと、惚けた老人の介護負担が徐々に問題になってきた。有吉佐和子の小説はその頃に発表されたので、すこぶるタイムリーでベストセラーになった。

 現代は核家族化どころか、ひとり世帯が多く、親類縁者のいない老人は、惚けても誰も世話をしてくれないから、孤独死することがよくある。一時は老人の孤独死がニュースになっていたが、あまりに事例が多いので、最近はあまり報道されない。しかし実際はたくさん起きていると考えて間違いない。
 報道はされないが、ドラマになることはある。吉高由里子がヒロインを務めたテレ朝のドラマ「星降る夜に」で、北村匠海が演じた相手役の職業が遺品整理士で、孤独死の部屋を片付けるシーンがある。強烈な臭いがしたり、ゴミが溢れていたりする悲惨な現場だ。そういう職業が成り立つということは、需要があるわけで、すなわち孤独死が多発している証左でもある。

 さて本作品も認知症がテーマだ。大学教授が認知症になったら、こんなに理屈っぽくて嫌味な人間になるのかと思ってしまうほど、藤竜也の演技は凄かった。82歳が71歳の認知症を演じたわけだが、藤竜也クラスになると、もはや年齢はハードルにならない。森山未來は、妻がいて生活基盤のある中年男性らしい、落ち着いた息子を存在感十分に演じた。この人の視点があるから、物語が安定したと思う。

 認知症そのものよりも、症状が進んでいく過程で、どんどん変化する周囲の人間との関係性に重点が置かれていると思う。シーンの並びは、変化する前と後の関係性の対比になっているから、観客は時系列を整理するのに苦労する。
 それに喪失の物語でもある。喪失した時間を取り戻せたと思いきや、再び喪失してしまうという不幸の話だ。そして幸福な時間と不幸な時間は、記憶の中にだけ存在する。違う言い方をすれば、現実の幸福が失われても、記憶の中の幸福は生きている。逆もまた然りだ。
 そこにあったものと、なかったもの。そこにいた人といなかった人。記憶は薄れていき、変化して、思わぬ妄想となることもある。しかし、そもそも人生そのものが、妄想としてスタートしたのではないか。
 時系列を整理する必要などなかったことに気づくのは、鑑賞後である。人生は、妄想なのだ。とても面白かった。

映画「ある一生」

2024年07月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ある一生」を観た。
映画『ある一生』公式サイト

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アルプスの山とともに生きた、名もなき男の生涯。困難を背負いながらも至福と愛の瞬間に彩られた人生が胸に迫るー世界的ベストセラーを映画化 7月12日(金)より新宿武蔵野館...

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「人はどこでも幸せになれる」
 主人公エッガーが年老いてから出会った年配女性は、経験に裏打ちされた人生観を述べる。エッガーは頷く。それはエッガーの人生観でもあるのだろう。そして本作品の世界観でもある。

 静かな作品である。弦楽器とピアノのBGMが心地よい。静けさはエッガーの無口に由来するところが大きい。なにせ少年期のエッガーは何も話さない。アルファベットのいくつかを口にするだけだ。どうやら文盲だったようで、エッガーの母親の姉の夫の母親が文字を教えてくれるシーンがある。

 別れがあり、出会いがある。多くの悲運を無言でやり過ごすエッガーだが、一度だけ、饒舌になったシーンがある。それはエッガーの恋だ。人はどこでも幸せになれる。エッガーにとって最高に幸せな時間だった。

 本作品には、いくつか洒落た仕掛けがある。
 高山植物のエーデルワイスは、日本語では深山薄雪草で、花言葉は大切な思い出、それに忍耐と勇気だ。エッガーが終点まで乗るバスの名前がエーデルワイスなのである。思わず拍手したくなった。
 朽ちた柩から落ち葉のように零れ落ちた手紙のシーンは、マリーが返事をくれたかのようである。エッガーの人生は彼だけのものだが、マリーとの時間は、エッガーにとって宝石のような時間だった。

 原題も邦題と同じ「一生」である。ある無名の男がある時代に生きた。ひと言で言えばそういうことだ。人生に何か意味があるとは言わない。しかし軽んじていい人生などない。強いメッセージ性のある作品だと思う。

映画「お母さんが一緒」

2024年07月13日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「お母さんが一緒」を観た。
映画『お母さんが一緒』公式サイト

映画『お母さんが一緒』公式サイト

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 ペヤンヌマキの脚本がすべてと言っていい。ペヤンヌマキは今年1月に公開されたドキュメンタリー「映画 ◯月◯日、区長になる女。」の監督を務めていて、いい距離感の撮影と効果的な編集で、インパクトのある見事な作品に仕上げていた。

 本作品は、3人姉妹の会話劇である。そもそも姉妹というのは、互いに親しみを覚えつつも、嫉妬心や虚栄心、優越感と劣等感が入り混じった感情があって、一筋縄ではいかない関係だ。互いに相手を尊敬しあえれば良好な関係になるが、尊敬できないときは、おどろおどろしい関係になる。
 本作品はまさにおどろおどろしい関係で、知性のない会話は優位争いに堕して、発言するたびに発言者が優位に立つ。言い返せないと負けになってしまう。勝ち負けの判断基準は世間の基準であり、パラダイムだ。自分で考えた世界観は皆無である。姉妹それぞれに悩みはあるが、哲学のない苦悩は喜劇だ。本作品はまさに喜劇そのものである。

 ブザマであさましい姉妹の姿は、人によっていろいろな受け取り方があると思う。人間は単純で可愛い存在だという受け取り方もあるし、人間は愚かで救いようのない存在だという受け取り方もある。映画は答えを出さず、ただ姉妹のありようを見せるだけだ。
 人々が日頃は隠している負の感情や悪意を、姉妹はさらけ出してみせる。そんなものを正面からぶちまけられたら、誰でも怒りに顫えるが、それでもまだ関係性を維持しようという気持ちがある。それを怒りが超えてしまうと、場合によっては殺人事件にまで発展する。兄弟間の殺人事件は数え切れないほど起きている。

 姉妹の、かろうじて殺人に至らないような危ない関係は、ある意味で他人から見れば笑える関係である。危険だからこそ笑えるのかもしれない。本作品には、人間から気取りの仮面を取り去った、自然主義文学みたいな面白さがあった。女優陣は揃って怪演。プライドや羞恥心をかなぐり捨てた、本気の演技を堪能することができたと思う。

映画「アイアム・ア・コメディアン」

2024年07月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「アイアム・ア・コメディアン」を観た。
映画『アイアム・ア・コメディアン』

映画『アイアム・ア・コメディアン』

過激なネタ、炎上、そしてテレビから消えた芸人、村本大輔。忘れ去られた芸人の真実に『東京クルド』の新鋭ドキュメンタリスト日向史有が迫った3年間の記録。

映画『アイアム・ア・コメディアン』

 開始から40分くらいのところで、投影機のトラブルで上映が中断した。ムラモトがアメリカに行く決意を相方に伝えた飲み会の場面が、急に暗転して音声だけになった。
 敵の多いムラモトだが、映画を中断させるほど悪質な嫌がらせを受けるほどではない。映画の上映トラブルに遭遇したのは、これが初めてである。ここ8年ほどは毎年200本くらいを映画館で観ているから、確率としては1600分の1だ。復旧作業をはじめて30分経ったところで、直らないから払い戻しか、優待券で対応するとのこと。

 半分弱を鑑賞した感想を言えば、ムラモトは弱者の味方、困っている人の味方である。だから権力者を茶化して笑い飛ばす。観点を変えて価値観をひっくり返すという、お笑い本来のネタをやっている。まさに王道である。ところが、ダウンタウンに代表される弱いものいじめのお笑いがテレビ番組を席巻するようになると、ムラモトは弾き出される。弾き出したのはテレビ局ではない。コンプライアンスがどうのと、権力者主導のパラダイムにまんまと乗せられた民衆だ。太平洋戦争を始めた当時の愚かな国民性は、少しも改善されていない。

 日本の有権者の多くは、自分で考えず、自分の意見を持たない人たちだ。だから小池百合子みたいな姑息な人間が都知事に3回も当選する。レンホウの失敗は、若者に重心を置いた政策を発言したことだ。実は他にもたくさんの政策を発信しているのだが、テレビのニュースは、若者重視の発言のシーンばかりを流す。レンホウは若者しか助けないと思ってしまった高齢者は多いと思う。アベシンゾーが民主党は印象操作ばかりすると非難していたが、もっとも印象操作をしているのはマスコミである。権力と癒着したマスコミは、弱いものいじめの元凶だ。マスコミがムラモトを追い出すのは必然である。

 それでもムラモトを応援する人々もいる。気骨のある劇場は、ムラモトを出演させる。独善の強権に確執を醸す人々はまだたくさんいるのだ。エゴが大手を振って罷り通る世の中が簡単に終わるとは思えないが、自分がいい暮らしをしたい人よりも、困っている人を助けたい人の数が多くなれば、この国は確実によくなるはずだ。頑張れ、ムラモト。

映画「リッチランド」

2024年07月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「リッチランド」を観た。
『リッチランド』公式ホームページ

『リッチランド』公式ホームページ

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 リッチランドとはなんとも皮肉な命名だが、町に住む人々は大きく二極に分かれている。原爆肯定派と否定派だ。
 肯定派は、いつまでも敗戦を受け入れようとしない日本の軍事政権を、圧倒的な力を見せつけることによって屈服させ、戦争を終結させたのが、この町で製造された原爆にほかならないという、何度も聞かされたおなじみの論理を振りかざす。
 否定派は、無差別大量虐殺の非人間性と、核実験で廃棄された放射性物質、いわゆる核のゴミを自分たちの住む土地が背負い続けていかねばならないことを指摘する。原発を抱える日本と共通の問題を抱えているわけだ。

 人類が原発を利用するのはまだまだ時期尚早だ。核のゴミの完全な廃棄処理方法を開発してからにすべきである。問題を子孫に先送りしたのは、日本もアメリカも同じだ。しかし核の利権もまた、日本もアメリカも同じである。ついでに言えばフランスも同じだ。中国は国家事業だから、少しニュアンスが異なるが、国家が推し進めている事業という点では同じだ。名前の出た4カ国が、原発数が多い国の上位にある。

 原子力爆弾の仮説を立てて、人を犠牲にしても実証実験をしたい科学者のエゴと、軍事的に世界をリードしたい政治家と軍人の思惑が一致した結果が、ヒロシマとナガサキだ。それにビキニ環礁で行なわれた水爆実験だ。これらは人類の愚かしさの頂点にある出来事だと思う。
 プーチン戦争、イスラエル戦争をはじめとする戦争や紛争で、毎日たくさんの人々が死んでいる。ヒステリックになった指導者が、核爆弾を使わないとも限らない。大量破壊兵器の廃絶は、叶わぬ夢に終わるのだろう。つまり廃絶よりも前に、人類が絶滅するのだ。その蓋然性は極めて高いと言わざるを得ない。

映画「Comandante」(邦題「潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断」)

2024年07月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Comandante」(邦題「潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断」)を観た。
映画『潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断』オフィシャルサイト

映画『潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断』オフィシャルサイト

極限海域を突破せよ!実話を基に描かれる、海の男たちの誇りと絆の戦争秘話/原題:Comandante

映画『潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断』オフィシャルサイト

 カッペリーニと聞いて真っ先に浮かぶのは、冷製パスタに使われる細麺だ。モモやイチゴやサクランボなどと合わせて、ちょっと甘いパスタにすることもある。イタリア語では髪の毛という意味があると教わった。潜水艦の名前がカッペリーニ?

 船の名前はともかく、本作品のタイトルでもある艦長は、潜水艦の隅々までを知り尽くし、大局から局所まで、大胆な決断を行ない、正確な指示を出す。なにせ戦争状態だ。統率を保つために、上官の命令は絶対である。しかしカッペリーニ号には、命令系統よりも、信頼関係が優位にある印象がある。艦長の人格の賜物だろう。

 艦長の言葉はいずれも独特の世界観がある。戦争だからな、と言うときには、本当は戦争なんかしたくなかったが、参加した以上、義務は果たさなければならないという、諦観と悲壮感がある。俺たちは船乗りだ、と言うときは、海の男としての誇りがあり、イタリア人だから、と言うときには、出身地の風土と国民性に対する愛着がある。

 この艦長なら、海に投げ出された人を必ず助けるだろうという安心感がある。裏切られても相手を殺さず、食料も平等に分け合う。それは戦争中でも人間性を失わないという矜持でもある。艦長はイタリア人で、海の男なのだ。

 部下はおしなべていい奴ばかりだが、中でも調理担当のジジーノは素晴らしい。料理のことなら何でも知っていて、大量調理にもかかわらず、繊細で美味しい料理を作る。おまけにマンドリンが弾けて歌も上手い。スーパースターである。しかしこのような優れた才能を、戦争は海の藻屑にしてしまう。

 愛しい妻に思いを馳せる艦長は、戦争が何かを知りつつ、自分たちを危険に晒しても、見ず知らずの男たちを助ける。本作品は、人間性と戦争の理不尽とのせめぎ合いを、潜水艦の狭い空間で描き出してみせた。

映画「先生の白い嘘」

2024年07月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「先生の白い嘘」を観た。
映画『先生の白い嘘』公式サイト

映画『先生の白い嘘』公式サイト

7月5日(金)全国公開

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 オトコに人格を蹂躙されて、心底オトコを憎んでいるオンナ。
 オンナの人格を認めず、性のはけ口としての利用価値だけを求めるオトコ。
 オトコの愚かさを理解し、利用しようとするオンナ。
 オンナの欲望が恐ろしくて二の足を踏むオトコ。

 四者四様のバイアスが、それぞれの生き方に影響し、全員が不幸という絶望的な状況からスタートする。そして徐々に関係性が変化していく様を描く。微妙な演技が求められる訳で、奈緒と風間俊介の卓越した演技力があればこそ成立した作品だと思う。

 前日に、女性の立場の苦しさを体現した作家シャーリー・ジャクスンをモデルにした映画を観たばかりだったので、同じく女性差別をテーマにした作品かと思う部分もあったが、どうやらバイアスを手がかりに、人間の精神の闇を表現するのが主眼のようだ。
 ただ世界観は狭く、人物像がなべて浅い。マウント争いみたいなシーンも登場するので、もう少しマシな登場人物がいてもよかった気がする。人間はそれほど単純ではない。原作も同じなのだろうか。

 あまり面白い作品ではないが、性と生殖という、動物にとっては同じ意味のふたつの言葉が、人間にとっては実は決定的な違いがあるものだという着眼点は、古くて新しい。性に振り回され、生殖に未来と安定を夢見る人間という生物の不条理は、俳優陣の見事な演技で存分に表現されていた。

映画「Shirley」

2024年07月07日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Shirley」を観た。
SENLIS FILMS

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 シャーリー・ジャクスンという作家は、本作品で初めて知った。著書がいくつか日本でも販売されているようなので、機会があれば読んでみたい。

 人間は本当のことはなかなか言えないものだ。良識や常識といったベールを被り、理性の仮面をつけて生きている。しかしそれは本当のことではない。ときに狂おしいほどの怒りを覚えたり、絶望的に捨て鉢になったりする。世間のパラダイムをひっくり返したいとも願う。画家は世界の本当の姿を表現しようとして絵を描く。作家は本当のことを言おうとして小説を書く。

 シャーリーの台詞の端々に、怒りや絶望や価値観の否定が垣間見えるのは、作家が本当のことを書きたくて苦しんでいることの現れだ。エリザベス・モスは凄い。プロデューサーに名を連ねているだけあって、女性作家が苦しんだ事実を、現代に表現することの意義をよく理解している訳だ。本物のシャーリー・ジャクスンもかくありなんと思わせる。

「あんな女に友だちはいない」と、シャーリーを否定するフレッドには、友だちがいるのがいい人間だというバイアスがある。そして妻のローズには、夫の愚かさを察していたフシがある。作家は日頃の言動ではなく、作品で評価されなければならない。そしてシャーリーの作品は、その精神性の豊かさを物語っている。冒頭でローズがシャーリーの作品を読んで感動するシーンは、本作品に必須のシーンだったのだ。オデッサ・ヤングの見た目は18歳のローズを演じるにはやや無理があったが、その演技は見事だった。

 1949年にシモーヌ・ド・ボーヴォワールが「第二の性」を刊行してから75年。女性解放はまだまだ道半ばである。