草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

経済学の限界を論ぜずしてアベノミクスを論じるなかれ!

2015年02月15日 | 思想家

西部邁の『ソシオ・エコノミクス』を読んで、正統派経済学の限界というものを再確認した。西部はレヴィ・ストロースが「未開と文明の構造的差異を、光学機械と熱力学機械との対比によって隠喩したことがある」のを紹介しながら、正統派経済学の異様さを指摘した。「未開は、ちょうど摩擦のない世界での時計仕掛けのように、出発点において与えられたエネルギーにもとづいて、同じ円周の上をとめどなく回りつづける。あらゆる歯車は寸分の違いもなくかみ合い、秒を刻む音を除けば、世界は静かである。未開の神と儀式は、このように精妙に組みたてられた冷たい社会になくてはならない文化的機構である。他方、文明はといえば、それはちょうど、蒸気機関がボイラーとコンデンサーとの温度差によってエネルギーをふき出しすようなものだという。それは、有限な資源を費消しながら、けたましく走り続ける厚い社会である。科学の知識とヒエラルキーの組織とにおける発達は、このような機構によって時間と空間を支配するのに必須のものである」。それとのアナロジーからすれば、正統派経済学は「静態的均衡に対応するものにとどまるという意味で、理性的個人の持つ近代的装いにもかかわらず、未開のように冷たく静かである」というのだ。全面的に否定するのではないが、「社会科学の場合、前意識的な習慣や信念の力をかりて知覚し感じとり思考するのでなければ、この複雑に移り行く経験世界についてとても推論できるわけがない」と結論付けたのだった。保守主義者西部邁の誕生である。

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