夫婦別姓を認めてしまったらば、家族はこれまで以上に崩壊の危機にさらされるのではないか。そうなれば家族、郷土、国家という絆も緩み、日本は根本から動揺することになる。結婚をしているか、していないかの判別ができなくなり、夫婦はお互い努力をしなくなるからだ。何度でも福田恆存の『私の幸福論』を引っ張り出して反駁しなければ、自称進歩派の思うつぼになってしまう。福田の「夫婦の理解」についての意見を、もう一度思い出すべきだろう。「『理解』はけつして結婚の基礎ではない。むしろ結婚とは、二人の男女が、今後何十年、おたがひにおたがひの理解しなかつたものを発見しあつてゐるから結婚するのではなく、これからしあはうとして結婚するのです。である以上、たとへ、人間は死ぬまで理解しあへぬものだとしても、おたがひに理解しあはうと努力するに足る相手だといふ直観が基礎でなければなりません。同時に、結婚後も、めつたに幻滅に打ちまかされぬねばり強さも必要です」。原則夫婦が同姓であるのは、対外的に夫婦であることを示すばかりでなく、一組の男女の決意表明でもある。それが無くなってしまってよいのだろうか。まずは結婚そのものが形骸化してしまわないか。自由気ままに生きている人たちにとっては楽園かもしれないが、家族というまとまりは意味をなさなくなる。グローバリズムは日本の国柄を脅かしつつある。それを死守できるかどうかの瀬戸際に、今私たち日本人は立たされているのではないか。
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