あらゆる言論弾圧に反対する。右であろうと左であろうと表現の自由は守られなければならない。それを許容できないような社会は、政治レベルの物理的な抹殺の論理が横行することになる。行動する保守運動の言い分も、それなりに傾聴に値する。彼らの問いかけにどう応えていくか、日本のリベラルは問われているのである▼行動する保守運動に論戦を挑む度量もなく、問答無用で押しつぶそうとするのは、全体主義の特徴であり、かつてソ連が反体制活動家を収容所群島に送り込んだここと変わりがない。70年代前後の日本の大学では、一部のゲバ棒で武装した者たちによって、自由に物を言うことができなかった。それを再現しようとしているのだろうか▼日本では暴力革命を志向するグループであろうとも、言論のレベルにとどまるのであれば、処罰の対象にはならない。なぜ行動する保守運動だけ目の敵にするのだろうか。朝鮮学校が弾道ミサイルで日本を脅している国家の意を受けていることを、批判することがどうして差別にあたるのだろう。日本のリベラルは面と向かって論戦を挑めばいいのである。排除の論理は相手を根本から論破したことにはならない。鶴見俊輔は安易なレッテル貼りによって相手を貶めたりはしなかった。久野収らとともにナショナリズムを再評価し、イデオロギー以前の大衆のマグマを重視したのである。堂々と言論で行動する保守運動と渡り合えばいいのである。
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