「日本のレーニン」と呼ばれた塩見孝也が一昨日死去した。高校生の頃に「赤軍派軍報」なるものを手にした記憶がある。確か東京戦争を呼びかけたはアジ文で、塩見が書いたのではないだろうか▼赤軍派は69年9月5日の全国全共闘結成大会に初めて登場し、一躍脚光を浴びるようになった。すぐに火炎瓶闘争により大阪戦争、東京戦争に決起し、首相官邸を武総占拠するための軍事訓練中の53名が大菩薩峠で逮捕されたのは11月5日のことであった。翌70年1月になって、赤軍派議長の塩見が「国際根拠地論」を主張し、世界同時革命に向けて、北朝鮮、中東、キューバに活動の場を移そうとした▼3月31日にはよど号のハイジャック事件が起きた。それに先立つ15日に塩見は逮捕されており、実際に指揮することはできなかったが、その意を受けて決行したのだった。それ以降は組織が弱体化し、日共革命左派と「連合赤軍」を結成し、あさま山荘事件を引き起こした。72年5月30日のテルアビブ空港乱射事件は、赤軍派の流れをくむ日本赤軍の犯行であった▼塩見の死が教えてくれるのは、共産主義を名乗る者たちの革命がもはや時代遅れであるということだ。赤軍派の諸君の思いとは裏腹に、革命のために世界に雄飛した者たちは、心情倫理においていかに崇高であっても、その地でコマンドとして利用されるか、さもなければ協力者に仕立て上げられた。もはや今は「日本のレーニン」は誉め言葉ではなくなったのである。
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