団塊の世代であっても戦後の喪失感を語ることはできない。それを体験したのは、江藤淳や石原慎太郎までである。今の若者に知って欲しいのは、失われた日本がかつて存在したという事実である。私たちを取り巻く現在の風景に埋没してはならない。それ以外の風景があったのであり、ぜひ江藤、石原の著作に触れて欲しいと思う。保守としてのラディカルな問いかけが大事なのである▼とくに、江藤淳の「戦後と私」の一文は圧巻である。「やはり私に戻るべき『故郷』などはなかった。しいて求めるとすれば、それはもう祖父母と母が埋められている青山墓地の墓所以外にない。生者の世界が切断されても死者の世界はつながっている。それが『歴史』かも知れない、と私は思った。しかしどう思おうと私のなかでなにかが完全に砕け散ったことに変りはない。私は悲しいのかも知れなかったが、涙は少しも出なかった。父も私も、依然として失いつづけていた。私がほかになにを得たとしても、自分にとってもっとも大切なもののイメージが砕け散ったと思われる以上、『戦後』は喪失の時代としか思われなかった」▼生まれ育った大久保百人町が卑猥な土地になったことの苛立ち。その個人的な喪失感が批評家江藤淳の出発点であった。江藤のその文章を読むたびに、とめどなく涙がこぼれてならない。
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