神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

明治維新の整理(12)

2018年01月21日 12時22分45秒 | 明治維新の整理

坂本龍馬が長州のボスである桂小五郎を説得している頃が、日本中の勤王の志士の危機であった

ほぼ壊滅的と言って良い、長州は狭い山口県一国に閉じ込められて京の都に寄りつくことも出来ず

水戸の天狗党は福井において厳しい刑で指導者を失った、朝廷の勤王公家も謹慎させられるし

坂本龍馬の兄貴分でもある武市半平太が台頭してきた土佐藩でも、武市が切腹を申しつけられた

殿様お気に入りの武市がなぜ切腹になったのか、それは武市の暗い闇の部分が露見したからだった

武市が人斬り岡田以蔵を使って、反勤王党や幕府方の人間を暗殺していたのは藩でもうすうすわかっていた

だが、とくにおとがめがなかったのは証拠不十分だったからだ

ところが土佐藩主、山内容堂の懐刀で藩を取り仕切っていた重臣、吉田東洋が何者かに暗殺された

下手人はわからなかった。

ドラマなどによると、武市に使い捨てされた岡田以蔵がつまらぬ罪で京で逮捕された、役人が調べると

土佐藩士だという、それで役人は土佐藩に身柄を引き渡した、拷問などで厳しい取り調べを受けた

土佐藩としては臭い武市の犯罪を公にしたかったのだ、だが武市を信頼しきっている以蔵はどんな

拷問でも口を割らなかった。

ところが武市は以蔵が拷問に耐えられずに自分の悪事全てを白状するのではと、心配になった

武市は牢へ以蔵に会いに行った、牢番に鼻薬を嗅がせて以蔵に見舞いだと励まし、にぎりめしを差し入れた

空腹の以蔵は喜び、武市に感謝してにぎりめしを食べた、そして激しい腹痛で七転八倒、遠のく意識の中で

以蔵は思った(武市先生、口封じで俺を殺すのか・・・信じていなかったのか・・・・絶望感が・・・)

だが以蔵は奇跡的に助かった、今までの尊敬が憎しみに変わったとき、以蔵は全てを役人に白状した

役人が驚いたのは、吉田東洋の暗殺も武市の命令で以蔵が行ったのだった。

武市に切腹が申し渡された、本来なら下士は打ち首、しかしなぜか上士並みの切腹、武市は嬉しかった

武士として死ねることが・・・・武士と認められたことが・・・・・容堂の情けであったかもしれない。

こうして土佐勤王党も壊滅した。

 

土佐を脱藩したおかげで坂本龍馬は生き延びている、完全に彼は一匹狼となって日本中を駆け回っている

行く先々に英雄がいる、その英雄と龍馬は語り合う、とにかく顔が広い

薩摩、長州、を行き来してどちらにも知古がいるなぞ龍馬以外にはいないだろう、さすがの勝も長州だけは

なすすべが無い、だが龍馬は平気だ、まさに天から送られた男だった

日本を一つにするために日本中を走り回り、そのきっかけを完成させたとたんに、天に戻っていった龍馬

だが、まだ龍馬は生きている、まだ薩長同盟が未完成だからだ

ついに桂と西郷は紆余曲折の末に会った、どちらも不信感を持ったまま、だが長州にとって薩摩の武器は

咽から手が出るほど欲しい、薩摩は長州に何を求めたのか・・・・?

もうこの頃には、薩摩も長州も異人を追い払う攘夷などとっくにやめてしまった、それより開国して世界に追いつけ

という気持ちの方が強い、そもそも薩摩は琉球王国(沖縄)を占領して薩摩藩に組み入れたときから、そこを

経由して密貿易をしていたくらいだ、日本で長崎、博多、堺と共に外国慣れしているのだ、但し薩摩だけは幕府に内緒で

長州も外国の連合軍に猛烈に痛めつけられて目が覚めた、外国を追い払うなど無理だと言うことを・・・・

だが両藩共にそれを口外しない、口外すればたちまち異国嫌いの天皇の朝敵とされて、幕府が逆に天子様の

軍となる、だから表向きは尊皇攘夷を唱え続けていた。

そして薩摩と長州が坂本龍馬の仲介で手を結んだ、犬猿の仲であった西国の先進的な大藩が手を結んだ

両藩で100万石を超える、しかも最新鋭の武器と軍艦を持つ薩摩藩、それを幕府に内緒で長州に引き渡す約束が

できた、龍馬が船で運ぶ

両藩の話し合いで一致したのは、開国にせよ攘夷にせよ邪魔な存在の徳川幕府を消滅させること、

公武合体であってもこのままでは徳川幕府が主導権を握ることは明らかである、それでは何ら状況がかわらない

まずは倒幕だ、そして薩長が新しい日本の軸となるのだ、その前に攻め寄せる幕府軍を叩く必要がある、

緻密な作戦が練られた。

そして今や日本最強の鍛えられた長州藩に日本最高の薩摩藩の武器が与えられた、最新銃だけでも数千丁

大砲も幕府軍や他藩のものより威力も射程も遙かに優れている、まさに鬼に金棒の体勢となった

しかも薩摩軍と龍馬の海援隊と軍艦が後方支援する。

そして、吸い寄せられるように10万に及ぶ幕府軍が四方から攻め寄せてきた、即ち山陰、山陽、瀬戸内、九州

まずは長州藩に接する小藩が先陣であるが、連合軍故それぞれに数万の兵士がひしめき合っている

対する長州は全軍でも数千人、数千対数万の戦で明らかに分が悪い、ところが開戦してみると武器の優劣が

顕著だった、西洋式の猛訓練を続けてきた長州藩、軍装も身軽な西洋式、一方幕軍諸藩は250年で初めて

の戦争体験だ、その軍装も260年前の関ヶ原合戦の頃と変わらない重い甲冑に鎧甲、これでは勝負にならぬ

全ての方面で長州が幕府軍を打ち破った、しかも薩摩の軍艦と龍馬の船が海上から幕軍を攻撃

幕府軍は各方面でで逃げ腰になった、特に山陰方面の軍は散々に打ち破られた、そんな折も折14代将軍

家茂が21歳の若さで突然大坂城で死んでしまった。

これで新婚の和宮も篤姫同様、嫁いで間もなく若い身空で寡婦になってしまったのだった

この二人が德川家滅亡の危機を救う活躍をするのは、もう少しあと

結局幕府軍は総崩れとなって引き上げた、時は1866年夏であった、第二次長州征伐は幕府軍の大敗に終わった

そしてその年の暮れ、徳川将軍家茂に続き、孝明天皇までもが崩御された、これには長州びいきの公家が関与した

毒殺ではないかという説もあるらしい

長州藩にとって倒幕を目指す上で長州離れした孝明天皇は何のメリットも無く、むしろ倒幕の障がいにであったろう

あくまで真相はわからない

徳川幕府は当然ながら一橋慶喜が満場一致で推挙されて15代将軍となった、そして孝明天皇の後には祐宮(さちのみや)

睦仁(むつひと)親王が 明治天皇として即位された、まだ14歳の少年天皇であった

長州が息を吹き返して、時代はいよいよ最終章に向けて、大きく動き出す。                 続く