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明治維新の整理(6)

2018年01月15日 08時57分54秒 | 明治維新の整理

「天皇の世を作るために働くんだ」というのが勤王武士、当然「打倒徳川政権」ということになり、幕府転覆を

目的とする、そういう連中が「いやいや、そんなに過激にならなくても、みんな仲良くこの国のこと考えれば

いいじゃないか」という殿様や重臣を見限って脱藩して京に集まり徒党を組んだ。

そして役所などに火をつけたり、幕府のために働く役人を暗殺したり、結構あくどいことをする

似て異なる物に「尊皇」というのがある、勤王の敵が幕府なのに対し、尊皇派の敵は異人(外国人)だ

だから「尊皇攘夷」という、「勤王攘夷」とは言わず「勤王倒幕」という

もっといえば、勤王派は天皇を人としてとらえている、天皇という偉い人の先駆けとなって幕府を倒し、天皇政治を

復活させるのが目的だ、一方「尊皇派」は天皇を神の如く敬い祀りたてる、天皇という神様がお作りになった神国日本を

穢れた夷敵に泥足で踏み荒らされてなるものか、ということだ

だから彼らは江戸や横浜などで外国人や外国人の住居を襲う、高杉晋作なども公館を焼き討ちしている

しかも高杉は長州藩ではエリートの家柄、おのずとリーダーになる、だから藩を仕切ってしまった

血気盛んな松蔭門下生の若者を率いて、縦横無尽に突っ走る

ついには関門海峡を航行する外国軍艦を砲撃した

 

 

徳川幕府もこのような事態を見過ごすことが出来なくなった、そこで京都の治安維持の為の

京都守護職を設け、幕府に近い藩に請け負わせようと考えた・・・・・・しかし今の世の状況を考えれば

この仕事は百害あって一利無しの役職だとたいがいの藩は考える、辞退が続いた

そして奥州、会津藩に白羽の矢がたった

東北奥州は京都から遙か遠く、中央の情報もなかなか届かない、届いたとしても現地の逼迫感が、のんびりした

田舎住まいにはわからない

会津松平家、德川家康が德川を名乗る前は松平姓であった、だから全国に散る松平家は德川家の本家から

別れた親戚である。

会津藩の祖は、三代将軍德川家光の異母弟、名君と名高い苦労人の保科正之である、2代将軍德川秀忠が、怖い

女房の目を盗んで、お手つきにした身分の低い女中が生んだ子だ、ばれると怖いので早々と内緒で養子に出したのだ

それが家光の代になってわかった、家光は弟の存在を知って喜び正之を厚遇した。

因みに秀忠の正室は、信長に滅ぼされた浅井長政と信長の妹「市」の間に生まれた三姉妹の末っ子「江」

長女は秀吉の側室となって秀頼を生んだ「淀君」、次女は京極家の正室だ

だから末っ子の舅と夫が、姉と甥を大坂の戦で殺したのだった、戦国時代とはそう言う時代なのだ

母の「市」も、夫と長男を、兄、織田信長に殺されたのだった

 

幕府から京都守護のお願いをされて会津藩主、松平容保(かたもり)は名誉だと思っただろう、養子として会津に来た

容保にとって実績を残すチャンスである

ものの本によれば、代々会津藩で重臣を務める家柄の筆頭家老、西郷頼母は反対したという

だが血気にはやる容保は引き受けた、「会津武士の魂で京都を鎮めてみせようぞ」

会津武士団は京の都にやってきた、彼らは統率がとれている上に純朴である、京を徘徊する怪しげな浪士のような

狼藉を行う者など一人も無い、ただ藩主の体面を汚すまいと実直に勤めるだけだった。

だが、これが幕末最大の悲惨劇、会津の悲劇を引き起こす第一歩だとは誰も思わなかっただろう。

それから半年ほど後、江戸で隊士の募集があった、なんでも尊いお方の警護を行う仕事なのだそうだ

しかも支度金もくれるというし、食い詰め者や腕自慢郷士や、腕自慢ではみ出し者の百姓には良い話しだ

そして選抜された者達が、清河八郎という立派な武士に率いられて京に旅立った

近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨など、後の新撰組のメンバーもこの隊列にいた、近藤は剣道道場を

経営していたが、多摩の百姓という触れ込みだった

孝明天皇の妹、和宮を娶ることになった14代将軍德川家茂の行列も京へ向かった、天皇様に挨拶するためである

孝明天皇は今も幕府が勝手に条約締結したことを怒っている、それの言い訳だってしなくてはならないし、なかなかに

荷が重い家茂さんなのだった、しかもまだ若い。

そんな緊張した状況におかれていた、おりもおり長州藩の下関で、外国船が海峡を我が物顔で通るのを腹に

据えかねた長州の若侍たち、高杉晋作などが砲撃したのだ

この話が天皇の耳に入ったのは家茂将軍が京に居たときか、帰国したあとかは知らないが、もし対面の直前だと

したら、「長州藩はあっぱれじゃ、どこかの将軍様のように夷敵のご機嫌取りをしているのと大違いじゃの」などと皮肉を

言われたかもしれない。

長州は攘夷派の若者達が保守派を掃討した数少ない藩であった、しかも諸藩の中でも石高の大きい方だ

家康に関ヶ原で負けるまでは、中国地方で今の県で言えば、山口、広島、島根、鳥取、岡山に加え四国の

愛媛の一部あたりまでが領土で、德川家に次ぐ第二位の120万石だった

敗れて30万石になったとは言え大藩に変わりない

なぜ、この藩が割と簡単に攘夷派に固まったかと言えば、殿様毛利公が呑気というか家臣を信頼しているというか、

あまり家臣がする事に口出ししない殿様だったのだ、かといって情けない殿かと思いきや、中央でも一目置かれる大物で

影響力も大きい

しかし家臣には甘い。  家臣が「こうしたいのですが」と言えば、「そうせい」とすぐに返事が返ってくるので、

「そうせい公」とあだ名されたとか

家臣もたいそうやりやすかったのでは無いだろうか、だからこそ諸藩のなかで最も早く動き、もっとも早く

改革が進んだ、それだけに失敗も多い、そして失敗から学び、長州は德川にとって代わることが出来たのだ。

当然、犠牲者、殉職者も多い藩となる。  無謀にも外国艦隊に大砲を撃ちかけるなど長州ならではだ、

そして清国同様に反撃に遭って、散々な目に遭っている。 それも一度ならずや三度までだから

「懲りない奴ら」なのだ

だがこれは孝明天皇を大いに喜ばせた、一気に長州藩は尊皇攘夷藩のトップに躍り出た、ますます長州藩は張り切る

天子様のためなら、たとえ火の中水の中という気持ちになっただろう。           続く