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明治維新の整理(16)

2018年01月25日 19時14分18秒 | 明治維新の整理

官軍主力が江戸攻撃に出かけた後、御三家の動きが気になる

明治維新では特に、尾張徳川家、紀州徳川家をとりあげていない、本来徳川本家を助けるべき

分家が日本史に残る会津戦争のような抵抗戦を繰り広げなかったのはなぜなのだろう

その前に徳川家のおさらい

 

徳川家康は、戦国時代を生きただけに子だくさんだった

子供の半数以上が成人できない時代ゆえ、家系を繋いでいく意識は現代人には想像できぬほど

重要な事である、まして戦国大名ともなれば嫡子をでかしただけでも、あっぱれな手柄で

子を産めぬ女子は実家に帰される封建時代であった。

家康の長男は家康が血気盛んな青年時代の子で、今川家の人質、家臣の時に出来た子で

信康という、たいそうできが良かったらしい、後日、家康ピンチの時に「信康が生きていてくれたら」と

言ったと言うから、よほど頼りになる武将だった。

だが家康の新しい主になった織田信長の命令で殺してしまうことに。

次男は秀康という、家康はこの子がよほど気に入らなかったらしく結城家に養子に出した

豊臣秀吉に可愛がられ、越前松平家の祖となるが病気により死亡

三男秀忠が徳川家康の後を継ぎ2代将軍になった。失敗ばかりの恐妻家、頼りなさそうだがなぜか家康は

秀忠を愛し跡継ぎにしたのだ。 四男は忠吉、勇猛な武将で井伊直政の娘を妻にする

関ヶ原では直政と共に敗走する島津軍の大将島津義弘を追って、副大将の島津豊久を討ち取るが、待ち伏せに遭って

二人とも負傷、それが原因で後日亡くなってしまう

西郷どんの冒頭、「チェスト関ヶ原」レースを子供達が行うシーンがあった、それがこの島津義弘公と豊久公を偲び

徳川に負けた関ヶ原の無念を、いつか晴らすぞという、そんなレースシーンだった。

 

五男信吉は20歳で没、六男忠輝は激しい性格の武将で兄秀忠を見下すような振る舞いが多く、野心家で越後高田

で大きな領土をを得たが、隙あらば天下を望む舅の伊達政宗とのコンビを警戒されて改易されて、生涯孤独に

過ごしたが、92歳の長寿だったという。

七男、八男は子供の時に早世したが、家康が関ヶ原で勝利した後に生まれた三子は家康から見れば孫くらいの

年齢であったから目に入れても痛くないほどであった。

九男義直には尾張62万石を、十男頼宣には紀州55万石を、十一男頼房には水戸25万石を与え、これを

本家を支える徳川御三家とした。

将軍と御三家以外の兄弟は松平姓であったから破格の扱いであり、家康がこの三人に徳川家の未来を託したことが

わかる。

水戸徳川家は他の二藩と異なることがいくつかある、まず領土が半分以下、本家に人材無きときは将軍を紀州家、

尾張家のいずれかから選ぶが、水戸家からは将軍は出せない、そのかわり他の二家が参勤交代の役があるが

水戸家は水戸に常在して永遠に副将軍として本家を補佐し、将軍に誤りがあれば正す役を家康から与えられた。

そして後年、徳川将軍家と天皇が争うようになったら水戸家は天皇(朝廷)に味方せよと家康が遺言したという話しも

あるらしい、だとしたら水戸斉昭は250年後に家康の遺言を守り、実行したことになる。

 

官軍にとって出陣した後、紀州徳川家が軍を出して大坂、京に進出したら、これは安心できないことになる

紀州徳川家といえば、慶喜の前の将軍、家茂の母体、しかも第二次長州征伐では藩主茂承が征討軍の総大将(代理を出す)

だったから、官軍の格好の獲物でもあった

しかし、戦争したくもしないで降伏、官軍の先導役として参戦したのは彦根藩同様だった

一方、尾張徳川家はと言うと、こちらは初代藩主義直が家康同様に「天皇様に従うべし」との家訓を残したとかで、現藩主の

徳川慶勝は、官軍のターゲットである会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬と兄弟であるにも関わらず、藩内の佐幕派を

粛正して、官軍が来たときには勤王藩として官軍を迎えた

こうして、頼みの御三家も、西軍押さえの彦根藩もすべて官軍に味方したのだった。

もはや、徳川本家に味方する藩は同罪とされた会津、庄内くらいしか無く、それも各個撃破のターゲットとなっていた。

八方ふさがりになった徳川慶喜は、上野寛永寺にて謹慎、官軍に対して謝罪文を届け「煮ようと焼こうとどうでもしゃがれ」

そんなことをさせたら徳川幕臣の名が廃ると、慶喜の家臣達が彰義隊を結成して、官軍を迎え撃つ構えを見せた

官軍はひたひたと江戸に向かって行く、総大将は西郷隆盛、江戸城を攻め、「逆賊慶喜の首を取って晒してやる」と

勢い込んでの駿府入りであった。

ここに勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄舟を、西郷に命令されて江戸で大暴れの末、庄内藩に捕らえられた薩摩藩浪人

益満休之助が案内して西郷の本陣を訪ねてきた。              つづく