神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

明治維新の整理(4)

2018年01月13日 11時12分05秒 | 明治維新の整理

德川13代将軍家定の父、12代将軍德川家慶は実に27人も子を作りました

大奥の女中でお気に入りがいると片っ端から手をつけたのかという感じです

もっとも調べてみたら家慶のお父さん、11代将軍家斉は、なんと55人も子供を作ったんだとか

びっくりですねえ、よほど暇で他にやることが無かったんでしょうか・

話しを戻します。 家定は精神的に弱い人だったのですが、他の兄弟が26人もいるのだから(但し女子が半分)

誰か別の兄弟が将軍になれなかったのと思うでしょう、ところが家定以外の26人全てが19歳以下で亡くなっている

そうです成人できたのは家定さん唯一人、それも健常者でなかった、そして26歳かで亡くなってしまう

どうしたことなのでしょうか・・・・・・興味のある方は調べてみてください。

そして家定は虚弱体質で子供はいません、当然篤姫も生涯子供がいませんでした。

跡継ぎがいないと言うことで、他家から新将軍を選ばなければなりません、候補者は德川斉昭の息子、一橋慶喜と

紀州德川慶福の二人です。

慶喜には当時の大物大名がバックアップ、薩摩72万石、島津斉彬  越前32万石、松平春嶽  水戸35万石、隠居德川斉昭

などである、更に幕府の大物老中もついている

一方、慶福には、德川斉昭大嫌いの大名や幕臣がついている。 尊皇攘夷のがちがち男、德川斉昭の息子などが将軍になったら

堅物の斉昭が何かと口を挟んでくる、それでは我らの居場所がない、と言うのも理由だ、そしてその人達が頼りにしているのは大老になった

井伊直弼だった。

井伊直弼は水戸斉昭の攘夷に対して、開国派であった、もっともこの将軍選びの構図が単純でない証拠に、慶喜推薦派の

島津斉彬も、井伊直弼同様に、開国には前向きである、だから将軍選びの基準は決して開国派と攘夷派の対立ではないのだ

そこが幕末の難しさである

そんなさなか、日米和親条約に続き、さらに一歩踏み込んだ「日米修好条約」が幕府とアメリカの間に結ばれ、今までの開港2港

が一気に6港の開港に跳ね上がった、当然、孝明天皇の思いと正反対の出来事で天皇の気持ちを逆なでした行為であった

 

そして結果発表!  井伊直弼の政治手腕が勝って、家定の口から「14代将軍は紀州徳川慶福にする」と発表された

それから程なく将軍德川家定は亡くなり、德川慶福が家茂と名を改めて14代将軍となった

間もなく家定の後を追うように島津斉彬が死んだ、病とも、島津久光を島津藩主にしたい一派が毒殺したとも言われているが・・・

片腕を失った孝明天皇はあせった、日米修好条約の無効を水戸斉昭に訴えて、幕府に圧力をかけようとした

しかし德川斉昭などが次の一手を打たぬ間にと、井伊大老が速攻で、次の手を打った、それが悪名高い「安政の大獄」だ

それは開国に反対する尊皇攘夷派の大名や下級公家、そして武士などを片っ端から処分する大粛正であった

真っ先に攘夷派の巨頭、水戸斉昭と一橋慶喜を謹慎させ、更に同胞だった松平春嶽なども謹慎処分に処した

それらの人より下位の攘夷派の重要人物には切腹、斬首、遠島、入牢などの処分を行った

その人数は100人にも及ぶ、この事件に怒ったのは斉昭の家臣達、水戸藩士であった、後に桜田門外の変で井伊直弼を

暗殺するメンバーである。   長州の学者、尊皇の志篤い吉田松陰も殺されてしまった

松蔭は決して攘夷派ではない、むしろ黒船に乗せてもらってアメリカを見たい、世界を見たいと思って、小舟で黒船まで

行って交渉した(失敗)ほどの人物だ、だが井伊直弼からみれば徳川幕府を転覆させようと企む指導者ととらえる

これが井伊直弼の目についた原因だ、松蔭は尊皇攘夷では無く、尊皇開国派だったのだが

だが松蔭が尊皇思想を教えて残した塾生たちは、やがて芽を吹き、立派な大輪の花を咲かせ、新し明治を作り上げる

久坂玄瑞、伊藤博文、高杉晋作、山県有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎などである

志半ばで倒れた者が半分、理想とかけ離れた結果に落胆して反乱を起こして処刑された者もいる

だがいずれも吉田松陰がいたからこそ花開いた強者達であった。

伊勢谷友介が吉田松陰  井上真央がヒロインの杉文  夫となる久坂玄瑞に東出昌大 大河ドラマ「花燃ゆ」

は、まさにこれを描いていました。