前に「幕府はあたふた、孝明天皇はぶれていないから強い」と書いたが、開国派を押し通すために攘夷派を
ことごとく粛正あるいは、大名クラスは隠居させた井伊直弼(なおすけ)
彼も孝明天皇に負けない「ぶれない男」だった、我が身を捨ててもこれからの日本は開国に向かうべきだと
信じている、当然、攘夷派の残党が自分を狙うことはわかっている、それでもやったのは信念を持っていたからだ
攘夷派は二大巨頭を失ってしばらくは手のうちようが無くなった、島津斉彬は亡くなり、そのあとを継いだ島津久光は
いかなる人物かまだわからない、そして水戸斉昭は蟄居謹慎で政界から離されてしまった。
こうした状況であるから開国派は一気に表に出てきた、中国人が毛沢東思想から抜け出て一気に世界に飛び出した
ようなものだ、見るもの聞くもの珍しい、外国の公館が貿易都市、横浜、長崎、神戸などに次々に出来
江戸に領事館ができたりしたから、外交官や軍人、その家族と外国人が一気に増えた
来る者があれば出る者もある、にわかに開国のムードが出来て、欧米文明に興味を持つ幕臣や
諸藩の先進的なサムライはこぞって海外に目を向けた。
特に長崎の伝習所の塾生たちは、海外渡航の実践航海をしたくて心がうずくのだった
そして1860年には、かの幕府の咸臨丸がアメリカに向けて出航した、勝海舟の他、一万円札の福沢諭吉も
乗っていた。 日本人による航海という印象が強いが実際に操船していたのはオランダ人で日本人の
大部分は初の太平洋横断で船酔いに次ぐ船酔いという状態だったらしい
アメリカへ行ったのは彼らばかりではない、徳川幕府の正式な使節団もアメリカに渡った、代表的な人物は
小栗上野介忠順、この開明的な幕臣は、後に新政府軍によって悲惨な結末をむかえることになる
近代日本の進歩に大いに役立った人物であった。
こうして日米の交流は盛んになったけれど、水面下にはこうした風潮を苦々しく思う攘夷派の人々が数多く居た
特に尊皇攘夷の風潮おびただしい水戸藩では「朝敵!井伊直弼討つべし」というムードが盛り上がっていた
だが水戸藩士の名で襲撃すれば、藩にも斉昭公にも迷惑がかかると言うことで、志士の彼らは脱藩
(所属する大名家を脱走すること=藩士ではなく浪人になる)した、そこに薩摩藩の脱藩者も一人加わり
江戸城桜田門外で大老井伊直弼の行列を襲い、その首を討ち取った、江戸では珍しい雪の日の出来事だった
この一件で安心したのか、同じ年に水戸斉昭も亡くなったのである。
こうして同じ年に開国佐幕派の巨頭と、尊王攘夷派の巨頭が相次いで亡くなり、両者の派閥の間に何となく
融和のムードが生まれてきた、その結果が孝明天皇の妹「皇女和宮」の降嫁の話である
皇室が将軍家よりあきらかに上位であることを示す話しであるが、逆に言えば武家に天皇の妹を嫁がせるのは
屈辱でもある。
だが今の日本の情勢を考えれば朝廷と幕府が争っている場合でなく、挙国一致の心構えが求められる日本国の
存亡の危機であった、それを理解しての天皇の決断であった。
こうして攘夷派と開国派のバランスが再び対等になった時点で、攘夷派の巻き返しが始まった
日本の各地でイギリス人などの在日外国人を襲って殺す事件が多発するようになったのだ、首謀者はまたしても
水戸浪士と薩摩藩士であったが、長州藩士による外国人襲撃も行われた。
このように尊王攘夷派の動きが活発になると、日本各地の大名家の家臣の中にも勤王派(勤王党)という天皇の為に
我が身を捧げようという集団が出来てきた。
これによって一つの大名家の中には①天皇のために働く(勤王党)②德川家に忠誠を尽くす(佐幕派)③お家の安泰
だけを願う、こうした三つの勢力が同居するようになった
当然、その派閥が原因でのお家騒動が全国で起こったのである、いよいよ世の中が騒がしくなり、これから維新の
主役、脇役が表舞台にその姿をあらわすのだ。 つづく