徳川幕府は腰砕けでとうとうアメリカとの交易に調印してしまった
かといって、アメリカなどの属国になったわけでは無く、独立国の体面は守っていた
もう15年くらい前になるけれど、あの大国だった清国はイギリスによって国をボロボロにされた
俗に言う「アヘン戦争」である、あの清国とイギリスの戦争の発端は両国間の貿易がきっかけだった
イギリスは清国から絹などを輸入したが、イギリスが清国に持ち込んだのは麻薬のアヘンだった
清国ではずっと前からアヘンの輸入は禁止していたから主に密輸入だった
アヘンは瞬く間に清国に広がって、巷にはアヘン患者が蔓延した、しかもアヘンの代償に銀が持ち出され
清国の財政基盤を圧迫しだした。
怒った清国は、イギリスに対して攻撃を仕掛けた、イギリスも直ちに応戦したが、軍艦など近代兵器のイギリスは
清国の軍を圧倒した、清国をとことん痛めつけた上に、南京条約という不平等条約を結んで賠償金を奪い
香港を手に入れ、さらにいくつもの港を開港させた。
こうした前例を幕府も知っていたから、長崎に海軍伝習所を開設して海軍の軍人養成に力を入れ始めた
そうした学生の中には、後の日本を担っていく秀才が何人かいた。 勝海舟、榎本武揚等である。
そんなおりもおり、またしても清国でイギリス、フランスの連合軍と清国の間に「アロー号事件」がおこり
第二次アヘン戦争に突入した。
そして当然ながら清国が大敗して、今度は北京条約という不平等条約を結ばされてアメリカ、ロシアも含めた
先進国の食い物になって、清国の中に欧米の租界地がいくつも出来てしまったのだった。
そのような出来事が幕府や諸大名の耳に入ってくる、今や清国の受難は明日の日本の行く末にも見える
こうして日本の武士や大名にも危機感が漂い始め、次第に孝明天皇のお考えに迎合する「攘夷思想」が
日本中に蔓延するようになってきた、そして「尊皇攘夷」という言葉が流行語となってふくれあがってきたのだった。
すなわち天皇を中心にして外国を日本から追い払うという考え方である、それは徳川幕府から政権を天皇政治に
戻すという意味でもある、全国の大名は德川の家来では無く、日本国の元来の帝である天皇の臣であるという
平安時代以前の姿に戻そうという思想が芽生えてきたのだ。
当然ながら世の中はバランスで成り立っている、プラスがあれば、同じ量のマイナスが存在するのが世の形だ
德川中心で諸大名が今まで以上に一致協力して、国難に立ち向かおうという勢力もある
そういう点で、水戸德川家は複雑だった、父の德川斉昭は尊皇攘夷のガチガチであったが、長男慶篤は德川家に
従っていこうという旧守派(佐幕派)であった
但し、尊皇派が全て德川排除の考えかと言えば、そうでもないのが複雑なところで、德川を排除せよという勢力もあれば
德川も天皇の臣として諸大名と同格で働くべきという考えの者もある。
様々な考え方が明治維新をより複雑な形にしていく、今はまだようやくその入り口に立ったばかりであった。
そして德川将軍家にも大きな転機が訪れようとしていた
水戸德川斉昭にはもう一人の息子がいる、将軍家の親戚、一橋家に養子に入った一橋慶喜である、病弱な13代将軍の世は
短命であることは誰もが感じていた、次の将軍14代徳川将軍に誰がなるのか、一橋慶喜は水戸德川家の出身、水戸は
将軍を輩出できない、しかし一橋家には将軍継嗣の権利があった、慶喜には将軍となる素質がある、そして紀州德川家にも一人、
有力な次期将軍候補がいる
次期将軍選びの活動は既に動き出していた、徳川幕府の中でも有力大名の中でも新たな争いの火種を抱えることになる。