慶喜が江戸へ逃げ帰って1ヶ月、いよいよ体勢を万全に整えた官軍は京をたった。
すでに朝廷より全ての官位を剥奪された德川、会津、桑名、それと德川に味方した各藩主は今や
日本国を敵に回した罪人であった。
では、それらの大名は、特に德川家は攻め寄せる官軍に対して迎撃態勢を整えていたのだろうか?
官軍にとって、最初の気がかりは東進していく街道沿いにある諸藩であった、このような時勢であるから
各藩それぞれに天皇に従う勤王派と、德川家には恩義がある佐幕派が存在していた
すでに水戸藩のように、それが形に表れて激しい内戦闘争を繰り返す藩も少なからずある
薩摩藩でも、この革命が起こる前に薩摩の過激勤王派が京に集まり密議をしているところに、藩主島津久光の
命を受けた薩摩藩士が勤王派薩摩藩士を殺傷した「寺田屋事件」が起きている
久光は穏健な公武合体派を主導した殿様だった、ゆえに幕府を倒そうというテロリスト集団を許すわけに
いかなかったのだった。
長州藩だって高杉等の若手勤王藩士が、長州佐幕派の老臣達を殺傷して長州藩の全権を手に入れたのだった。
そんなわけでまずは、松平定敬の桑名藩、德川家康が大坂からの敵に備えて配置した彦根藩、
徳川御三家の紀州藩(和歌山)、尾張藩(名古屋)、北陸の大藩、加賀藩前田家100万石
この5つの大藩がどう出るかが第一関門だった、これを突破すれば江戸までは一直線と言ってもいいほどだ
ただ保守的な奥州、東北、越後諸藩の動きは全く不明であった、だが官軍は今はそこまで深く考えていない。
しかし会津藩と庄内藩は德川家同様に德川家退治の後、国賊として始末しなくてはならない。
第一関門は近江の彦根藩だった、この藩は前にも書いたとおり井伊直政が藩祖であった、しかも德川四天王
の一人であり、もっと若かったから家康が未来を託すに足る人物だったのだ
そのため四天王の中でも特に石高が高く、そのかわりもっとも畿内以西の敵を最初に引き受ける危険な位置であった
官軍にしても、德川家が最も信頼している藩なので一戦は免れまいと思っただろう、ところが官軍が来た頃には
藩内は勤王で一致していたから驚きだった
なぜこうなったのだろうか、前藩主の井伊直弼は開国派の巨頭で安政の大獄を執行した人物だったが、攘夷派の
水戸浪士に暗殺された、ところがその後、水戸の尊王攘夷派である天狗党が福井の敦賀で降伏したとき
担当した加賀藩では、300名以上の天狗党の斬首命令を断った、 それで水戸浪士に藩主直弼を殺害された
彦根藩が残虐な役目がひき受けたのだ、水戸藩憎しの彦根藩士はそれを執行した。
そんなわけで、今や開国倒幕の薩長に刃向かう理由が無くなっていた彦根藩である
家康と直政の時代であればあり得ぬ事も、260年経つと德川も井伊もすっかり変わっていた、そうして彦根藩は
戦意無く官軍に降った、そして逆に先導役のように官軍に加わったのだ
官軍の北陸道方面軍が次に難関とするのは加賀藩100万石
富山など支藩を合わせれば120万石にもなる、德川に次ぐ2番目の石高、最大2万の動員も可能な大藩である
これを敵に回せば強敵だ
加賀藩、国内が黒船にパニクっていた頃の加賀藩は、藩主前田斉泰は德川将軍家斉の娘を妻にしていたから
公武合体を推し進めていた。
ところが嫡子の慶寧は妻が公家の娘でもあり、さらに取り巻きの士達が京で長州藩士らと会合を重ね、がちがちの
勤皇党になっていたので慶寧も影響を受けて勤皇に傾いていった、孝明天皇からも朝廷からも頼りにされて
ますます傾倒していき、将軍家の命令をも無視するようになった。
藩主斉泰はこれを聞きつけて、国許に戻ってきた慶寧の家老や家来を次々と捕らえて切腹や斬首に処した
こうして、官軍が徳川征伐に向かうころには藩主になった慶寧も佐幕派に心変わりしていた、慶喜が長州征伐
したときには応援の兵を出した、ところが今は官軍を迎え撃つどころか、慶喜の応援をして長州征伐に参加した
(直接は戦場に出ていない)ことを詫びて、頭を低くして官軍を迎入れ下風に甘んじたのだった。
大藩でありながら関ヶ原の時も、明治維新の時も主役になれず、常に権力者にひれ伏した加賀藩だった。
これで北陸道の官軍は一気に越後まで進み、会津街道から一気に会津藩へせめ込められると思った
ところが思わぬところに難敵が待ち構えていた、德川幕臣大名、越後長岡藩牧野家であった。
東海道では桑名藩の動向が気になったが、藩主が江戸へ行ってしまった今では、残された藩士は途方に暮れて
抵抗せずに開城したのだった。
次のターゲットは御三家、尾張德川家である、どうでてくるのだろうか
中山道では、今や幕臣として取り立てられた近藤勇が新撰組を率いて甲府城で待ち受けていた。
ここで明治維新の前半のおさらいです
1.江戸時代は240年以上続いて、外国との戦争も、国内での大名同士の戦争も無くまずは平和であった
2.唯一外国人が出入りする長崎には、オランダや清国人の商人が出入りしていたが平和外交だった
3.ところが欧米人(白人)の侵略勢力、イギリス、フランス、ロシアなどが東南アジア占領後、清国を
攻めて主要な都市に進駐し、不平等条約を結び港を開港させた
4.それらの国の船が日本にもやってくるようになった、特にアメリカは日本との貿易を強く求めた
5.日本では孝明天皇をはじめ白人達を追い払えというムードが高まった(攘夷運動)
6,天皇は直接アメリカなどとの交渉窓口になっている幕府に「追い払え」と命令した
7.ところが幕府は米英に対して、その軍事力を畏れ、強く言えず、しかし天皇にも逆らえず困った
8.そんな弱腰の幕府を排除して、天皇に従い外国船を追い払えと、地方の德川寄りの大名の
家来たちの中から脱藩者が京に集まって運動するようになった(尊皇攘夷)
9.地方の大名にも、これまでどおり幕府についていこうという大名と、天皇に従うべきだという大名の
2種類に分かれるようになった、特に水戸藩主、德川斉昭は御三家でありながら、幕府より天皇に味方する
勤王大名の代表となった。 このあたりから複雑になってくる。
10.そして幕府か天皇かという選択の他に、鎖国を続ける攘夷派と外国とつきあうべきだという開国派という
別の選択肢も出てきた、この時はまだ倒幕思想は表だってでてきていない。
だから幕府の中にも開国派と攘夷派があり、勤王派にも開国を選択する者があった、尊皇派は攘夷に固まっている
11.結局、幕府は断り切れずアメリカやイギリスと通商条約を結んでしまった、天皇の承諾を得ずに
孝明天皇は激怒した、それは尊皇派、勤王派の武士に火をつけた、ここで一部、倒幕の考えを持つ浪士が出てきたのだ
12.勤王思想が浪士のみならず、有力大名にも及ぶと、反幕府勢力が力を持つことを恐れた大老井伊直弼は
勤王大名を取り締まって謹慎あるいは隠居させ、主立った浪士や勤王思想家を切腹、打ち首、遠島などに処した
(安政の大獄)、これで勤王派の勢力は衰えてしまった
13.ところが、これに怒った水戸浪士が井伊直弼を暗殺した(桜田門外の変)
14.見識ある大名(島津、山内、松平など)は、こうなったら朝廷も幕府も一体となって国難に当たろうという提案を
した、そして力の衰えが見えてきた幕府もこの話に乗った(公武合体)
15.そんなさなかに長州藩、薩摩藩が相次いで自分の領内で外国軍艦を砲撃した、孝明天皇は大喜びした
長州藩は第一の勤王藩として信頼を得た。
16,安政の大獄や京の都ででたくさんの犠牲者を出した勤王藩長州は、討幕運動を始めた、すると過激な行動に
危機感をもった薩摩など公武合体派が画策、長州藩を京から追い払った
17,更に幕府は長州を再起不能にしようと薩摩藩を筆頭に長州征伐を行った、だが西郷の機転で長州は軽い処罰で
済んだ
18,坂本龍馬の活躍で薩摩と長州が手を結び、聞きつけて再び長州征伐を行った幕府軍は大敗して逃げ帰る
19,弱腰になった幕府は土佐藩の案を受け入れて、政権を天皇に返上、慶喜は大坂城に入った(大政奉還)
19,体勢を整えた長州、薩摩軍は謀略によって德川方を暴発させて、それを理由に天皇の勅命をもらって錦旗を
先頭に江戸の德川攻めの軍を進めた つづく