薩摩、長州の連合軍が幕府軍を叩きのめした、この結果を見て孝明天皇は長州の底力を知ったはずだ
それは敗戦した幕府に対して長州征伐の撤回を命令したことでわかる
これによって、互いに軍を立て直す猶予が出来た、倒幕をすぐ行うには長州だって準備不足だ、薩長だけで
倒幕は無理なのもわかっている、次の手を考えなくてはならなかった。
そして孝明天皇が崩御されて、新天皇が誕生した、日本がまた一つ動きだした
朝廷の中に薩長よりの公家が息を吹き返して、影響力を持つようになってきた、薩長にとってこれは力強い
倒幕の足がかりが出来たと感じた
そんなとき、土佐藩の山内容堂が「大政奉還」の建白を申し出た、それは15代将軍となった徳川慶喜に
「政権を天皇にお返しして、天皇を中心にした大名会議で日本を運営していこうではないか」という提案だった
実はこの「大政奉還」は坂本龍馬が考えた策であった、日本の近代化を見据えた優れた考え方で「大政奉還」は
龍馬の考えのスタートでしかなく、それがなった後、議会制の導入、優れた人材を登用し、名ばかりの無能の
高官を廃す、新たな国家の方針を立てるなど8つの大要を記したものであった(船中八策)
もう時代は明治に近い、西欧との関係が深まり、日本人の頭も封建時代からかなり進んできたようだ
何しろ年度初めには、フランスパリでの万国博覧会に徳川幕府や薩摩藩などからも出品をしたほどである
時代は近代化に向かっている、とうぜん徳川慶喜の頭も近代化してきている
(将軍なんて面倒な事で一人で悩むなんてまっぴらだ、ここは天皇に政権をお返しして楽になり、大名会議を
結成してしまえば結局、一番大藩の德川が主導権を握る事になるだろう、それなら責任は天皇で政治は德川
となって、現状よりも遥かに良いではないか・・・まして天皇は子供だ、どうにでもなるだろう 乗った!この話)
1867年秋、ついに徳川慶喜は天皇に政権を返還して、一大名としてのスタートを切った(大政奉還)
ここに德川家康が1615年、豊臣家を滅ぼして得た、德川将軍家が252年後に終わった。
これは、実は薩摩長州の若手指導者にとって計算外の出来事であった、倒すべき将軍家が無くなってしまったのだ
これでは主導権は德川のままで、自分たちの殿様が大名会議で(大臣の一人)として発言するだけで、江戸時代と
何ら変わらない、新しい日本など遠くに霞んでしまう
長州の桂や高杉、薩摩の大久保や西郷、そして龍馬たちが目指す日本には「大名」は無いのだ
欧米風の議会政治、選挙で選ぶ指導者(政治家)、西洋式の軍隊、文明開化、国際貿易と世界進出
そして軍事力強化で植民地を得る、これこそが欧米流の戦略なのだ。
だから、将軍家で無くとも封建時代の象徴「大名德川家」を滅ぼして、大名政治が終わったことを殿様達に知らしめる
ことが必要なのだ、なにがなんでも「德川には死んでもらいます!」
坂本龍馬死す!
京の近江屋で、坂本龍馬が盟友の中岡慎太郎と共に暗殺された
龍馬によって作られた「大政奉還」の準備が着々と進んでいる途中でのショッキングなニュースだった
誰が殺したのか、平成が終わろうとする今日まで謎は解明されていない
この時代、龍馬が邪魔なのは誰? どの勢力? 数多くの龍馬殺しの推理本が多く刊行されている
薩摩 西郷と龍馬の関係は良好のはず、薩摩藩とも龍馬は長いつきあいで知古も多い、薩摩人は大らかだ
だが、自由すぎる龍馬を不快に思う保守的な者がいるかも
長州 德川を破り、薩長同盟もでき、今後キーポイントになる公家に人脈がある長州、説教がましい龍馬は
邪魔になるかも
幕府 薩長連盟をとりもち、大政奉還を考えた龍馬は憎い、殺しても殺し足らぬうらみがある
土佐 武市亡き後も一人活躍を続け、土佐を忘れたかのように日本の大物の間を走り回る龍馬に嫉妬する
者がいたかも。
德川は政権を天皇にお返しして徳川慶喜は謹慎した。 薩長は德川を討つための策を練った、このときなんと
西郷が打開案を考えたのだった「わしに考えがある、まかせてたもんせ」
益満休之助という薩摩郷士がいる、西郷とは親しい間柄で尊皇攘夷運動に早くからつかり、新撰組結成の
きっかけとなった幕臣清河八郎(浪士隊を結成=その後、暗殺された)とも同志として活躍した人物だ
西郷は益満にたっぷりと軍資金を与えて「おまえさんは江戸に詳しいゆえ、これを軍資金にして江戸で人を集めて
一暴れしてくれ(薩摩弁を標準語に訳した)」
西郷に子細を聞いた益満は江戸の薩摩藩邸に入り、そこで浪人や無頼者を集め、その数、数百にふくれあがった
「さあ、おまえ達!暴れ放題だ、火付け強盗なんでもやれ、但し德川のサムライや新徴組(庄内藩による江戸の治安部隊)
の目に入るところでやるのだ、普通の泥棒などとは反対のことをするのだから簡単だろう、そして薩摩藩の関係者だと
わかるように、薩摩藩邸まで誘導してこい」
ようするに、騒ぎを起こして犯人が薩摩藩士か関係者だとわかるようにしろと言うのだ、承った方もキツネにつままれた
気分だが、益満はそれで良いという。
そうして江戸の町には物騒な事件が相次いだ、幕府の役人も新徴組も犯人を見つけて追いかけると、奴らは薩摩藩邸に
逃げ込む、大名の藩邸は一種治外法権だ、德川の家来だとて手続きを踏まぬ限り踏み込めない、また薩摩藩がしらばくれれば
うやむやになってしまう。
こんな事がしばらく続くと江戸市民から德川家に対して不平不満が続々と出てきた、そして取り締まりが出来ない德川家の
権威はますます地に落ちた。
ついに庄内藩の新徴組が業を煮やして薩摩藩邸を焼き討ちした。、そして多くの浪人を捕らえた、その中には
益満も含まれていた、しかしこれこそ西郷が待っていた瞬間だった
この報が京都に届いた瞬間、薩長は同志の公家を使い、「江戸で薩摩藩邸が德川によって焼き討ちされました
蟄居謹慎の慶喜が、このような暴挙を行うとは天子様への反逆と同じです、どうか德川討伐の勅許をお願いします」
今のように正確な情報など入ってこないし、江戸、京都間では不確かな情報さえ10日はかかる時代だ、西郷は自分たちが
した事は言わず、庄内藩の放火を德川家が朝廷に向けた暴挙と言い立てた。
少年天皇は老獪な勤王公家の言うままに德川討伐の勅許を与えた、これによって薩長土肥の軍勢は天子様の軍隊となった
さらに誰にでもわかるようにと、勤王公家の一人が天皇の旗印である錦旗(錦の御旗)をいくつも偽造して軍列の先頭に立てて
徳川慶喜がいる大坂城を目指して進軍した、堂々とした天軍、日和見的な小大名はみな錦旗にひれ伏して、
「時代に乗り遅れるな」と兵を出す藩、軍資金を出す藩が相次いだ
朝廷軍(薩長軍=官軍)5000は鳥羽に至った、そこに迎え撃つ德川軍15000が待ち受けていた つづく
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